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■ セザンヌの石ころ |
Date: 2005-09-15 (Thu) |
マルセーユからプロヴァンスの道をたどる。陶器の町、ヴァローリスに行って、晩年のピカソが住んでいたアトリエを見に行く途中だった。早春の旅だった。
風が車の窓から吹き込んでくると、きりきりとしめつけられるような肌寒さだった。
途中で曇ってきて、霧がひろがってきた。中世このかた変らない南フランスの道にひたすら静寂(しじま)がつづく。それまで、いろいろな土地で聞き届けてきた静けさのどれよりも深く、濃い静寂だった。
画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、セザンヌを訪れたときの印象を、はるか後年になってから書いている。
「スタンダールは、マルセーユからエクスまでの道は呆れるほど醜いといった。だが、私にとっては、その道程はまことに楽しいものだった。私には、汽車の線路がセザンヌの絵のなかを走っているように思われた。」
私はスタンダールを尊敬しているのだが、マルセーユからエクスまでの道は南フランスの土地のなかでも、むしろ美しいといってよいのではないだろうか。
霧がはれて、みるみるうちに青い空がひろがってくる。青く澄んだ空にくっきりした稜線を見せる明るい南フランス。
天霧(あまぎ)らふ中世の道に春の動き
中世の道きららかにミモザの群落
いずことも知れぬ街道にミモザ群生す
私はセザンヌを思った。
この画家は、故郷の町エクスに住みついてサント・ヴィクトワール山や、ジャ・ド・ブッファンの風景をくり返しくり返し描いた。私の見ている風景は、まさにセザンヌ的だった。
セザンヌ自身の気質には、北方の暗いバロック的表現に惹かれるものがひそんでいたが、その一方に、あざやかな表現と構成的な秩序を求めるようなラテン的なエスプリがあらわれる。いってみれば、彼の内部には、いつも古典主義的なものとバロック的なものが、せめぎあいながら生きている。
セザンヌは、生涯を通じてこの二つの性向の調和をみずからの内部において求めようとしたのではなかったか。
しかし、みずからに課したその困難な探究と成果について、彼の周囲の人びと、友人の作家、ゾラをふくめて、誰ひとりほとんど理解することができなかった。まして、故郷のエクスの人びとがどうして理解し得たろうか。
ヴォラールがセザンヌをエクスに訪れたのは、一八九六年、セザンヌは五十七歳になっていた。ヴォラールを迎えたセザンヌは幸福だったに違いないが、この有名な画商がどこまでセザンヌの孤独を理解できたのか。
セザンヌは絵を描いていて、思い通りに描けないと、いきなりパレット・ナイフでカンヴァスを切り裂いて、アトリエの窓から抛り出すことがあったらしい。
抛り出した「静物」が、窓の外の桜の木に何日もひっかかったままだったこともあったらしい。
あるとき、息子のポールが父親の真似をして、カンヴァスに穴をあけてしまった。このときのことを、ヴォラールが書いている。
セザンヌは怒るどころか、大喜びだったらしい。彼はヴォラールに向かって、
「あいつは窓と煙突をあけたんだ。ここに描いてあるのが家だってわかったんだよ……」
と語ったという。
セザンヌにすれば、そこに描いてあるものが「家だってこと」がわかってほしかったに違いない。誰がわかってくれたろうか。無邪気な息子以外に誰もそれがわからなかった。
私自身は、このときのセザンヌの孤独がわかるとは思わない。しかし、セザンヌのよろこびはわかるような気がする。
ヴァローリスからの帰途、ムージャン、ラ・カリフォルニー、ヴォーヴナルグ、いずれもピカソゆかりの土地をまわった。
そして、アンチーヴのピカソ美術館にも。
海の明るさピカソ美術館の外に佇つ
古城の壁にピカソの並ぶ冬の昼
冬の昼 ピカソの女に性器あり
春の翳り ピカソの女の眦(まなじり)に
ミノトール ふりさけ見ればピカソの愛
このときの旅で私はピカソのアトリエの庭に落ちていた名も知れぬ木の実と、サント・ヴィクトワール山の石をひろってきた。
木の実を鉢にまくと、やっと二、三本だけ発芽した。たいせつに育てて、少し大きくしてからわが家の庭におろした。モチの木だろうか。あまり変わりばえのしない雑木だが、それでも、私にとっては「ピカソの木」なのだった。
サンド・ヴィクトワール山は、雑木もまったく生えていない荒くれた山肌を見せていた。私は途中で、この山の小さな石をそっと掌につつんだ。セザンヌにはなんのゆかりもない石っころであった。
しかし、私にとってはセザンヌの描いたサント・ヴィクトワール山の石なのであった。
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