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■ サムライ・ニヒリズム――法月弦之丞と眠狂四郎―― |
Date: 2005-07-14 (Thu) |
『鳴門秘帖』の主人公、法月弦之丞の登場は、凡百の大衆小説のなかでは、一頭地をぬいている。
小説は、唐草銀五郎という親分と多市という子分の紹介からはじまって、辻斬りのお十夜孫兵衛、女スリのお綱といった興味ある人物をつぎつぎに登場させながら、四国の蜂須賀家の複雑な内情を説明してゆく。
と、そこに三年ぶりに江戸に帰ってきた法月弦之丞が虚無僧姿で姿をあらわす。天蓋を払うと、漆黒の髪を紫の糸でくくった切下げ、美男の色虚無僧という設定が、あざやかに印象づけられる。
映画やテレビ・ドラマでも、ヒーローのあざやかな登場ぶりにつよい印象をもった観客は多い。私などは、アラカンこと嵐寛寿郎が画面に姿を見せただけで胸がときめいた。
アラカンは無声映画からのスターで、とくに若い頃は白塗りのメーキャップだった。(映画の照明技術の未熟と、当時のフィルムの低感度による。)眼もと、口に朱をさしたような、典型的な時代劇のメーキャップだったが、法月弦之丞にはそれがぴったりだった。アラカンのファンだった私は、アラカンと共演した森静子や市川春代といった娘役の女優さんまで好きになったくらいだった。
弦之丞は江戸から阿波にむかうのだが、愛するお千絵さまの危難を知りながら、公儀隠密としてのつとめを果たさなければならない。
「江戸へは帰れぬ仔細がある。おう! この弦之丞の心も察してくれい」
という弦之丞は、
「身に骨肉がないならば――父や母や、家門や徳川直参などという家統(いえすじ)がないならば――」
と苦悩する。弦之丞のジレンマに、少年の私は魂を揺さぶられたものだった。
『鳴門秘帖』は、甲賀世阿弥の娘、お千絵と法月弦之丞のロマンスを中軸にして、失踪した世阿弥の行方を追う銀五郎、お千絵、弦之丞を慕う見返りお綱、お米、さらに天満与力たち、天堂一角やお十夜孫兵衛たちが入りみだれる伝奇冒険小説。こうした伝奇小説は、構想力のない作家にははじめから企ておよばないものといってよい。
戦後になって、伝奇小説というジャンルにあたらしい相貌をあたえた作家が柴田錬三郎だった。
代表作はいうまでもなく『眠狂四郎無頼控』だが、彼の創造した眠狂四郎と、法月弦之丞は、祖型としての伝奇小説と、あたらしい劇画小説という形式の登場というかたちで、かたみに喚(よ)びあっている。
柴田錬三郎の主人公には例外なくニヒリズムが色濃く翳(かげ)っているが、その行動の凄まじさと、同時に、自分のとる行動に対して、いつもむなしさをおぼえているところに性格設定のあたらしさがあった。
映画では、市川雷蔵がシリーズに主演していたが、この俳優の、冷たく冴えたニヒリズムが、眠狂四郎という人物に強烈なリアリティーをあたえたことは否定できない。あえていえば、法月弦之丞は今後も不特定なスターによって演じられる可能性があるが、一方の、眠狂四郎は雷蔵のイメージが強烈に作用しすぎて、あたらしいスターによる映画化はしばらく考えられないのではないだろうか。
眠狂四郎のニヒリズムは、社会心理的にはやはり「戦後」と照応していると私は考えるのだが、たとえば、吉川英治の宮本武蔵の見せていた求道性はまったくない。『大菩薩峠』の机龍之助のニル・アドミラリも日本人の心性に根ざしたニヒリズムを強く感じさせるが、眠狂四郎には、机龍之助に見られる生々流転、あるいは輪廻観がない。もともと鶴田浩二に、そうした精神性をもとめるほうがおかしいだろう。
それだけに、からっと乾いた、しらじらとした白昼夢の世界を生きている。それもまた無常迅速の生ではあったに違いないのだが。
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