ショパンを聴いてゐる時、僕は、暗黒のなかに在って、何かが真近の空間を踏みしき、輝き渡るのを感ずる。それは、氷山の上を、深紅に燃えさかってゆく暗夜の太陽のやうに、幻想的な不吉な明るさを帯びてゐる。すべての人にとって、種々に異なった反響を呼びさますであらうその音楽を、或ひは不安を湛えて待ちかまへ、或ひは戦慄しながら、僕は聴き入る。そのあまりに夥しい光……歓喜と絶望とを、急速に疾走する数々の距離が、分厚く一つに凝集する。あらゆる想念は、無限に流れ続けるかのやうだ。しかも、それは、その多様な起伏のうちで、驚くべき果断を以て、いきり立つ。今、音楽の苦悩は、その絶頂に達し、飛躍するかと思へば、忽ち深い墜落によって粉砕され、その後には、更に絶望的な飛躍が続く。そのきらめきわたる明るさ、無限感、神秘の闇の深さ、それは、僕にとって、謎にみちた無限であり、また、僕にとって愛のきらめきにみちた暗さだ。ショパンの、あの絶対的な新しさが、僕の眼には強く映り、持続する。
――中田耕治(「怪蛇の眼」から)