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  アートエッセイ評伝創作エロス

 

目次

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「視線のエロス」

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「黄金の指」

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■ 「視線のエロス」 Date: 2007-05-30 (Wed) 

 「視線のエロス」(フィリップ・アレル監督)は、日本ではまったく評判にならなかった。原題は訳しにくいが、デフェンシヴな女といった意味で、それを「視線のエロス」などと、見当はずれな題にしたため、まるでソフト・ポルノが何かのようにうけとられたのだろう。
 だが、私にとってはこの10年のフランス映画では、もっとも出色のものだった。

 登場人物は、わずかに二人。それも、既婚の男性「フランソワ」(フィリップ・アレル)の視点から、偶然知りあった若い娘「ミュリエル」(イザベル・カレー)との「関係」を描いているので、いわば一人称映画といっていいものだった。
 「フランソワ」は39歳。妻子を愛していながら、若い娘につよい関心をもって、彼女の裸を見たいという欲望から口説きおとそうとする。相手が既婚と知っても、まったく無関心に、彼の欲望を受け入れる22歳の娘。
 ありきたりの、つまらないシチュエーションにすぎない。
 ウデイ・アレンの「マンハッタン」のような、すばらしい映画はあるにしても、既婚の男性と若い娘の「関係」を描いた映画など、それこそ掃いて捨てるくらいある。
 当時、評判になったフランス映画、「夜の恋愛論」(アングラード)や「欲望」、イタリア映画「デジデーリア」(ともにアルベルト・モラーヴィア原作)など、もはやまったく色褪せてしまった。私にいわせれば、「視線のエロス」は、その程度の映画とは比較にならない密度、厳密さ、質の高さをもっている映画なのた。
 たまたま、「視線のエロス」などという、いかがわしい題名で公開されたため、フランス映画のファンは見に行かなかったのだろうし、ポルノグラフィックな興味で見た人は失望したのだろう。

 この映画は、最初から最後まで「フランソワ」の視点がそのままキャメラの動きとシンクロナイズして、あくまで「フランソワ」の視覚を通して、「ミュリエル」をとらえる。こうした特異な方法も、この映画を見た人に違和感をおぼえさせたのだろうか。
 じつは、一人称映画といえば、ロバート・モンゴメリーが「フィリップ・マーロー」を演じたミステリーがあるのだから方法的に新しいわけではない。

 女とその世界との関係について私がもっている漠然としたイメージに、それまで知らなかった何かをもたらしてくれた映画でもあった、
 男が男であるというのは、さまざまな puisance を前提とするひとつの立場に身を置くことだとすれば、あくまでその立場に対して、デフェンシヴでありながら、しなやかに、生きてゆく女。それが、「ミュリエル」なのだ。
 この映画の「新しさ」は、男が女を愛するという行為をささえる内面のとらえかたにある。

 男が女を愛する。その選択は、たいていの場合は偶然がからんでいる。この映画も当然、そういう「偶然」がはたらいている。
 「フランソワ」は「ミュリエル」の裸を見たいという。
 「ミュリエル」は、それほど知的な女ではない。しかも、自分のヌードにそれほど魅力がないし、乳房も貧弱だと思っている。しかし、彼女は「フランソワ」の誘惑をすすんでうけいれる。
 そればかりか、彼女はみずから彼の手に裸身をゆだねる。
 こうして、世間的には「不倫」な関係がつづいてゆく。
 こうした不倫としかいいようがない「関係」においては、女を愛している男は、実際には自分の内部にしか存在しないものを、相手の「女」に押しつけようとする。
 ところが、この映画では、「フランソワ」はどうしても「ミュリエル」に出会うしかなかったし、そして出会ってしまった。そういう恋愛なのだ。
 夫の不倫に疑いをもった妻を懐柔するために、メキシコに旅行しなければならなくなる。その留守中に、「ミュリエル」はロック・ミュージシャンと寝てしまう。
 そして、「フランソワ」は、たいていの男が女に対してひそかに抱いているドン・ジュアニスムがどんなに脆弱なものであるか、「ミュリエル」によって思い知らされる。
 「ミュリエル」は、まったく自然で、貪欲なところはないし、知的ではないにしても、じつに聡明で、底意地のわるい女ではないし、性的にふしだらでもない。自分のキャラクテール(性格)の浪費といったようなもので、恋愛は孤独の濫用にすぎない。
 ただ、いつもデフェンシヴでありつづけることで、男にとってはまさに「宿命の女」としての姿を見せている。
 ここに、この映画のすばらしさがある。
 「視線のエロス」は、「夜の恋愛論」や「欲望」程度の映画とは、はじめからめざすところが違っている。
 イザベル・アレーは、この映画に出たとき15歳だったという。フランスの女優に特有の匂い(フラグランス)がある。たしかに美少女だが、15歳当時のジョデイ・フォスターや、ブルック・シールズのような美少女ではない。一瞬、ジュリエット・ビノッシュや、オドレイ・トトウに似た印象を見せる。

 この映画は、カンヌ映画祭(5O回)の正式出品作だった。むろん、受賞しなかった。セザール賞にもノミネートされたが、これも受賞しなかった。しかし、私にとっては、「題名のない映画」、「ジュールとジム」といった映画に比肩する輝きをおびた作品だった。
 私は「ルイ・ジュヴェ」を書きつづけていたので、映画批評を書く機会がなかった。あの頃、この映画をまともにとりあげた映画批評家はいたのだろうか。


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