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■ 「オーメン」回想 |
Date: 2006-05-04 (Thu) |
きみは悪魔をどう思いますか。
私は悪魔が好きである。だから、悪魔とか魔女の出てくるホラ−が好きで、いろいろな恐怖小説を訳してきた。なぜ悪魔が好きなのか理由はいろいろある。
私のような作家にかぎらず、たいていの芸術家、科学者たちは、存在しないものをひたすら追求する。なかには眼に見えないものを追求する人もいる。なかには、歴史家のように、かつて存在したものを追求する人もいるし、あるいはSF作家のように、未来に存在するはずのもの、可能なもの、不可能なものを追求する人もいるだろう。
おもしろいことに、ときには存在しないものをわざわざ実在させたり、ときには存在するものを偽りとする。
そうなると、この世で眼に見えるすべての事柄は悪魔が造りだせる、と考えてもおかしくない。これが中世までひろく一般的に信じられてきた考えかただった。なにしろ、アウグスチヌスや聖トマス・アクィナスがそう説いてきたのだから。
そこで悪魔は、まるで未知のウィルスのように人間の肉体、精神のどこからでも侵入してくる。これは由々しき一大事である。悪魔に襲われた人たち(ひょっとすると、きみもそのなかに含まれている!)は、それぞれ人生観も信仰もちがうのに、その瞬間からおなじ回路につながれてしまう。しかも、(きみは)みずから熱狂しながら、お互いには何ひとつ了解していない。これこそが「悪魔」のいちばんおそろしいところなのだ。
悪魔や魔女を信仰する人びとは、いつの時代にも存在した。キリスト教から見ての「悪魔」であり「魔女」である。「ダミアン」たちは、支配者としての権力をとり戻そうとしていて、いまでも、ますます信仰の敵として、きみを誘惑する力をふるっている。
こうした不安は、たとえば、中世、バイエルンの「魔女」アンナ・パッペンハイマ−の火刑をはじめ、フランス、アラスの「魔女」たちの大量虐殺などのおそろしい結果をもたらすことになった。
歴史的に「悪魔」や「魔女」が登場するにはそれなりに原因や理由がある。ごく大ざっぱに見て、それまでの支配権力、たとえば帝制による寡頭政治といった体制を根底からゆるがす深刻な危機が迫ってくると、きまって「悪魔」や「魔女」が登場する。
たとえば15世紀初頭のフランス宮廷には悪魔が渦巻いていた。
1461年、アラスでは「魔法使い」や「魔女」に対する徹底的な迫害がおこなわれた。これは凄惨な事態で、「善良な」民衆がどれほど悪魔的な行動をとるか、その典型といってもいい程のできごとだった。
このときの宗教審問官は、キリスト教徒の三分の一は、妖術にたぶらかされていると断言している。彼の確信の正当化は・・・自分は神を信頼しているのだから、妖術使いの嫌疑をかけられた者は、まさしくその罪を犯していると判断する。なぜなら、神は妖術使いでない者がこのような罪を負わされることを許したまわぬからである、という論理であった。
聖職者や俗人からこれに異論をとなえる人が出たが、この審問官はそういう連中こそ異端の徒なのだから、ただちにとらえて白状するまで拷問にかけるべきだと反論した。 こういう例は、スターリンのおそろしい粛清裁判や、反ナチと見なされた人びとにたいするナチスの告発や、ルーマニアのチャウシェスク、東ドイツのホーネッカー、カンボジアのポル・ポトたちとおなじ論理だし、ほかにもおなじ論理はいくらでも見つかる。
「魔女」や「魔法使い」の存在がひろく信じられたのは、一部の地域だけではない。これは、とくに深い山間部に見られた。サヴォイア(サヴォア)、スウィス、ロートリンゲン、スコットランド、トランスヴァール。
悪魔と語りあいたいという思いから、悪魔に接近し、かつ、悪魔と意思疎通をはかる人はスコットランドに行くがよい、といわれていた。
やがてルネッサンスと呼ばれる時代に、この「悪魔」や「魔女」という集団的な妄想が体系的に完成する。ルネッサンス以後も魔女に対する迫害はつづいていた。「白樺派」のおめでたい作家たちが、こうした事実にまったく眼をむけなかったことに私としてはひどく失望していたといっておこう。
中世、イタリアのコム−ネがはっきりした共同体になって行くにつれて、その内部には深刻な危機がやってくる。それまでの支配者層の地位は動揺する。そして、支配をめぐっての名家の争い、分裂がつづく。この対立は、しばしば名家、門閥の人々の私闘、私戦というかたちをとった。メディチ家の登場もその例である。
私はこの『オ−メン』を訳しながら、主人公が古い修道院を訪れて、おそろしい秘密を知るところが出てきたときは、なんとなくうれしかった。私が書いた評伝『ルクレツィア・ボルジア』のヒロインが生まれたのが、偶然だが、このチェルヴェトリの修道院だった。自分には何も関係がないのに、そんな些細なことでうれしくなるというのは、おかしなことだがそれも読者心理というものだろう。
当時、私はルネッサンス、とくにイタリアの都市コミュ−ン(コム−ネ)の研究に没頭していた。資料を読むのに倦きて、気分を変えようと手にとったのはきまってホラ−だった。気分転換にはミステリ−でもよかったが、ホラ−のほうがよほどおもしろかった。
この時期から、私は恐怖小説のアンソロジ−を作ったり、クライヴ・バ−カ−の処女作「ダムネーション・ゲーム」などを訳した。
なにしろ悪魔が好きになっていたのだから。
私は書いたのだった。
「古代人が、たとえば運命を信じていたような意味で、私たちは何を信じているのだろうか。
悪魔をはじめて神学的に定義したのは、447年、トレ−ドの宗教会議だったようだが、古代エチオピアにあらわれ、敬虔な聖職者をおびやかしつづけ、やがて奇跡劇、仮面劇にあらわれて観客の失笑を買い、SFのイラストレ−タ−によってますます怪奇な相貌をあたえられ、現代の図像学にたどりつく悪魔は、もはや私たちの侮蔑の眼にさらされているに過ぎない」と。(『オ−メン』文庫版解説)
『オ−メン』をはじめ『エクソシスト』、『キャリ−』といった新しいホラ−小説の登場は新種の怪奇小説の胎動なのか、あるいは、すでにあらわれたもののくり返しなのか。さらには、リアリズムの破産につづく小説形式の崩壊なのか。どうやら私はこうした問題を文学的に考えようとしていたらしい。
こうした新しいホラ−をいわゆる怪奇幻想の文学という、そのころでさえ無限定的なものになりはてていた概念に押し込めたり、たんにSFの一変種と見ただけではうまく説明がつかないのではないか、と私は考えたのだった。
と同時に、批評家としての私は(まだ、文学の地平に姿をあらわしていなかった)日本のホラ−にひそかに期待していたといっていい。文壇で評判になる小説とは違って、こんな小説には、小説ほんらいの想像的な形象をもっていて、それを怪奇なロマネスクのなかに追求しようとする能動的な意欲にほかならないと見たからだった。私はここでもまだ存在しないものを追求しようとしていたのだった。
現在では、宮部 みゆき、京極 夏彦、高村 薫、鈴木 光司など、ゆうに世界に通用する作家が登場しているし、乙 一のように、才能ゆたかな短編が登場している。かつての私のささやかな期待は果たされたというべきだろう。
『オ−メン』を訳した頃には、やがてベルリンの壁がくずれ落ちることも、さらにはソヴィエト、および東ヨ−ロッパの共産主義圏があとかたもなく消えようとは予想もしなかった。私にはオ−メン(まがつび)が何ひとつ見えなかった。
まして、9・11以後のイラクの壊滅や、イラン、北朝鮮の核開発をめぐる危機など、想像もしなかった。
80年代、ソヴィエトは経済の効率化、改革の加速化を中心に据えて、政治、社会の根本的な改革をめざしていたはずだったが、チェルノブイリの原発事故から、やがて、ベルリンの壁が怒濤のような民衆の力に崩壊して、たちまちソヴィエトという巨大な共産主義国家までもがみるみるうちに消滅して行った。いったいどんな悪魔が力をかしたのだろうか、と思ったものだった。
私は、いくぶん苦い感慨をこめて「私たちは、もはや悪魔さえも信じてはいない」と書いた。だが、それ以後の世界の激変によって、むしろ、いやおうなしに悪魔は、私たちの内面に不気味な力をふるいつづけている。
こうして私は確信した。かつて、悪魔と語りあいたいという思いから、悪魔に接近し、かつ、悪魔と意思疎通をはかる人はスコットランドに行くがよい、といわれていた。もし、これがほんとうなら、悪魔と語りあいたい人はモスクワ、ワシントン、バクダッド、アフリカに行くべきだろう、と。
映画『オーメン』は1976年6月下旬、アメリカで公開された。リチャード・ドナー演出で、グレゴリー・ペック、リー・レミック、少年はハーヴェイ・スティーヴンスという可愛らしいぼうや。わずか五十日間で、3540万ドルという驚異的な収益をあげている。その後、第二作は主演がウィリアム・ホールデン、第三作はサム・ニール、というふうに第四作まで作られている。
2006年に公開された『オ−メン』は、『エネミ−・ライン』などを撮った若手、ジョン・ムーア監督、ベイロック夫人を演じるのは、婚姻関係終了と、夫と養女の不倫をめぐってウディ・アレンを徹底的に迫害(?)したミア・ファーローである。これはこわい。ダミアン少年も健在で(こちらはなかなか可愛らしい)、原作のリメイクということになる。
アメリカ、日本をはじめ、世界同時公開。2006年6月6日。『オ−メン』を読んだ人なら、この日付の意味に気がつくはずである。
現在、このホラ−を手にとってくれる読者のみなさんが、あとになって、こんな小説にも時代の緊張がいくらか反映していたのかも知れない、と思ってくれればありがたいのだが。
悪魔を好きになってくれなくてもいい。たとえ、きらいになってくれても、私としてはうれしいのである。
2006.6.6. 中田 耕治
*注:これは、2006年5月、「オ−メン」(河出文庫)の「あとがき」として書かれた。
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