サイト内全検索 
AND OR
  アートエッセイ評伝創作エロス

 

目次

「天井桟敷の人々」

「視線のエロス」

強靱なリアリスト

「黄金の指」

アリス・ガーステンバーグのこと

アディユ−、シモ−ヌ

アリダ・ヴァリ追想

「オーメン」回想

ジャスミンの花開く

オペラ歌手 松島理恵

ピンナップ

セザンヌの石ころ

小林正治

サムライ・ニヒリズム
――法
月弦之丞と眠狂四郎――

エクソシスト

映画@

アジア・ポップス

ショパンを聴く

 

 

 

 ■ エクソシスト Date: 2005-07-11 (Mon) 
 映画「エクソシスト」が評判になっている。封切館のまわりに長蛇の列ができて、上映中に失神する少女もでる始末だったらしい。
 私の住んでいる地方都市でも、映画館の周囲に入場者を整理するロープがはりめぐらされて、この映画の評判が全国的なものであることを証明しているようだった。
 なぜ、こういう映画が観客の興味をひくのだろうか。
 この数年、わが国だけではなくヨーロッパ、アメリカでひろく神秘主義や怪奇趣味が復活して、悪魔学や占星術、はては魔女裁判などを主題にした小説が読まれて、怪奇もののブームが顕在化してきた。
 こういう異端的な文化が時代の好尚に投ずるには、それなりの条件、社会心理が前提になっている。簡単にいえば科学主義、合理主義への否定をふくむ嫌悪や疑惑がもたらしたものといえよう。
 小説「エクソシスト」は、あきらかにそうした時代的な状況のなかで書かれている。作家は、読者の興味をあくまで知的な方向へ導く用意を忘れないが、それはあくまで怪奇性、グロテスクに対する知的興味への方向にすぎない。作者は中世以来の悪魔学と、フロイド以来の心理学と、カソリックの教義を併列させ、物語じたいにおそろしくサディスティックな淫靡(いんび)さをまぜあわせてゆく。おもしろい小説だが、その背後には、小説のおもしろさの構成要素をコンピューターで計算したような、したたかな作家の面魂が隠されていよう。
 私の見るところ、この作品はポオやホフマン、初期のゴーゴリ、あるいはブラックウッドやラブクラフトなどの怪奇小説が、文学史のうえで占めてきた位置を奪うことはない。ポルノ小説がどんなに氾濫(はんらん)しても『チャタレー夫人の恋人』や『北回帰線』などの評価をゆるがすことがないのとおなじである。
 映画「エクソシスト」は、原作のこうした性格を原作以上にもっていて、映像=イメジャリーとしては、原作よりはるかにショッキングになっている。ごく簡単に紹介すれば――ワシントンに住む映画女優、クリスの一人娘、リーガンの身辺にさまざまな怪異が起こる。たとえばベッドがはげしく震動するといった現象で(小説では、この場面が第一章の終わりで、あざやかな導入部(イントロダクション)になっている)、あまりおそろしいできごとがつづくため、クリスは娘を医師の診察に委ねる。診断では大脳の損傷とか、精神分裂症といった病名がつけられるが、脳波に異常がない。困りはてたクリスが精神分析医の診察をうけさせると、リーガンの内部にひそむ悪魔が姿をあらわす。
 悪魔を調伏するためにカソリックの修道僧二名がエクソシスト(悪魔祓い)として悪魔と闘いつづける。その結果は――ここには書く必要がない。

 私は怪奇小説も怪奇映画も大好きで、私なりにこの映画をおもしろがって見た。あまり観客は気がつかなかったらしいが、映画のなかで、日本語、日本の字が出てくるのを発見したときは眼を疑ったほどだった。しかし、おもしろかったのは、そんな部分ではなかったし、また精神異常のプロセスに関するもっともらしい説明のつけかたでもなかった。
 生身の人間が悪魔にとりつかれるということと、それがある個人に内在し、その行動を決定するというイメージは、いわばロンブロゾー的な生物学的決定論としての観念にちがいない。そう考えると、この物語がミステリーとしても読めるように、犯罪に関係していることも偶然ではない。つまり、犯罪が本能にもとづくものだという、フロイド以後の精神分析にもある憑依(ひょうい)観念がミステリーの設定で使うのにつごうがいいからだ。

 精神分析では、合理性(自我)と社会(超自我)によるコントロールは、犯罪を行う本能的な力(イド)を抑制し、転移させるものとされている。この映画の主人公、カラス神父が、精神分析の専門家でありながら、非合理的なエクソシストとして治療(というより参加)することも、考えてみれば意味深長だろう。簡単にいえば、現代の病弊を救うものはカソリシズムということになって、アメリカでうけたのもそのあたりに理由があるだろう。作家がしたたかなあざとさを見せているのも、こういう部分なのである。
 たくさんの観客たち、とくに少年少女たちはこの映画を観たいばっかりに徹夜で劇場に行列し、ぎゅうぎゅうづめの館内でどきどきしながら失神しそうになった。こういう観客心理に眉をひそめる必要はない。映画「エクソシスト」は、観客が無意識のうちに見たいと思っている意識――それを見たとき失神してもいいと思うような感受性をもった人びとの期待を裏切らなかった。こういう観客層こそ、ますますつよい刺激をもとめる私たちの想像や世界観に不可欠の条件だろう。そして、みんなが自分だけは悪魔にとりつかれることはないと思っている。それに、一ヶ月もすれば「エクソシスト」を見たことも忘れるだろう。
 そしてまた、あたらしい悪魔にとりつかれるだけのことなのだ。


    

[前頁]  [次頁]


●●メールはこちらから●●●著作権について
中田耕治オフィシャルHPです

本ページ内に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます。
Copyright(C) 中田耕治2005 All Rights Reserved.
イラスト 中田耕治

   Since 2005.4.23