1960 〈少年時代 46〉

祖母のあいに関して、思い出したことがある。なんとも、バカバカしい話だが。

2020年歳末。
アメリカの野球で、誰でも知っているベーブ・ルースのバットが、ニューヨークの「クリスティーズ」のオークションにかけられ、60万ドルで落札された。(2020年12月16日)
現存するベーブ・ルースのバットでも、もっとも古い2本のうちの1本という。

同じ時期、ヤンキースで活躍したルー・ゲーリックのユニフォームは144万ドル(約1億4880万円)。

詩人の鮎川 信夫は、少年時代にベーブ・ルースを見たという。東京の球場で。
私は、仙台の八木山の球場でベーブ・ルースを見た。

ベーブ・ルースがバッターボックスに立つと、満員の観衆が異様な興奮につつまれたことを覚えている。

初来日したヤンキースが、日本で当時唯一の職業野球チーム、「読売巨人軍」を相手にした野球を見たのは、自分でも信じられないのだが、むろんウソではない。
幼い私は、祖母の西浦 あいにつれられて、この歴史的な野球を見に行った。
生まれてはじめて野球を見たのだから、野球のルールについて何ひとつ知らない。ただ、ベーブ・ルースを見たのだから、当時、選手として出場した、ルー・ゲーリックや、沢村投手や、のちに名監督になる、若林、水原、三原などのプレイも見ていることになる。

試合が終わったあと、ファンが総立ちになってベーブ・ルースを迎えた。たちまち、ファンたちが群がってサインを求めた。

それを見ていた祖母は、私をシートにすわらせて、
「ここで、待っていな。動くんじゃないよ」
祖母のあいは、そういうと、韋駄天のようにその群衆のなかに走っていった。その敏捷さに私は驚いた。
しばらくして、あいが戻ってきた。

なんと、ベーブ・ルースのサインをもらってきたのだった。

日本のファンの多数は、サイン用の紙をもってベーブ・ルースにサインをもとめたと思われる。あいは、サイン用の紙をもっていたわけではない。走りながら、たまたまもっていた御簾紙か何かをつかみだして、まっしぐらにベーブ・ルースの目の前で振りたくったらしい。ベーブ・ルースは、気がるにサインしてくれたという。
このときあいがせしめたベーブ・ルースのサインは、神棚の隅に押し込まれて、我が家の宝物になったが、やがて忘れられた。小学生の私は、祖母の意外な行動力が心にきざまれた。

このサインは、1945年3月の大空襲で焼けた。毛布1枚とわずかな食料だけもって、猛火のなかをにげまどったのだから、ベーブ・ルースのサインなど、持ち出せるはずもなかった。今になってみると、ちょっと惜しい気もする。

このブログを書いているうちに、私が「お祖母さん子」だったことから、ベーブ・ルースのサインまで思い出した。

--少年時代 塩釜編 完--

 

 

 

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1959 〈少年時代 45〉

昭和初期、我が国の映画は、日活、新興キネマ、松竹など、大谷 竹次郎の率いる「松竹」ブロックと、これを追って、新しく映画界に登場した「PCL」(東宝の前身)ブロックの激烈な競争が見られた。有名な映画スター、監督の引き抜きと、全国各地の常設館の奪い合いが、当時の知識層の顰蹙を買うほど執拗に続けられた。

常設館は、1538。ただし、観客数は、東京で、約180万人、大阪で、約30万人の減少。昭和初期の不況がかなり深刻だったことがわかる。

Iさんは、東京で成功したが、トーキー時代が到来すると、いち早く地元の仙台に戻って、映画館の経営に転向した。まだ、仙台にトーキー専門の映画館がなかった時代に、東宝の前身、PCLの直属の映画館の経営に乗り出した。

当時、巷で流行っていた歌を思い出す。

「二村定一」(ふたむら・ていいち)が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、子どもたちもよく歌った。それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーも。

二村定一は、エノケン(榎本健一)の劇団にいた。
1934年、千田 是也が、「東京演劇集団」を結成したとき、ブレヒトの「三文オペラ」を公演したとき、エノケン(榎本健一)と一緒に客演した。当時のエノケンの人気は、たいへんなものだったが、「二村定一」がいなかったら、エノケンもあれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、ほんとうは、二村定一とデュエットしている。
私のような小学生も、エノケンのファンだったから、「青空」を歌ったものだった。

エノケンの映画は、よく見ていた。「エノケンのどんぐり頓兵衛」や「青春酔虎伝」、「エノケンの法界坊」に出ていた高勢 実乗(みのる)、「西遊記」に、まだ5歳だった中村 メイ子が出ていた。
エンタツ、アチャコの「あきれた道中」などは、有楽町の「日劇」で見た。

1958 〈少年時代 44〉

私の母、宇免の友人にIさんというオバサマがいた。三味線の稽古で、知り合ったらしい。若い頃は、さぞ可愛い芸者さんだったに違いない。
祖母のあいが、塩釜の芝居小屋(活動写真館)の小さな売店をまかされていたことに、このIさんというオバサマがどうやらかかわりがあったらしい。

このオバサマは芸者あがりだったが、さる実業家に落籍(ひか)されて、当時、最新の映画館の経営をまかされていた。この実業家は、もとは活動の弁士だったという。チョビ髭をたくわえた中年の紳士で、堂々たる押し出しだった。

活動写真の弁士についても、今の人には説明が必要だろう。

映画の発達史のなかで、外国の無声映画(活動写真)が輸入されるようになって、観客に内容を説明する必要が生まれた。その説明者が、活動写真の弁士である。
弁士は、日本だけではなく、東南アジア、朝鮮、中国などにもあらわれたが、当時の観客の識字率が低かったためといわれる。
日本では、かなり特徴的な発達を見せた。弁士は、それ自体がプロの職業として成立して、全国各地を巡業するようになった。つまり、弁士の一人ひとりがいわばスターとして人気を博することになった。たとえば、駒田 好洋(こうよう)は、舞台に立ってスクリーンを見ながら、「すこぶる非常に」というフレーズを頻発して、日本じゅうの人気を得た。
映画が活動写真と呼ばれていた時代。映画は、2巻ものから4巻ものの短編映画が普通だった。しかし、1920年代に入って、世界大戦後の好景気、観客層の拡大、風俗の変化によって、活動写真は8巻ものから10巻の長尺もの(長編)もめずらしくなくなる。

やがて、劇映画が登場する。そうなると、弁士も、登場人物のセリフを演じわけなければならなくなる。さらには、それぞれの登場人物のセリフを分担して声色(こわいろ)で演じわけるような弁士も出てくる。
映画会社のほうでも、弁士の要望に添った内容の活動写真を作るようなこともあった。

ハリウッド映画が、映画のテーマや、ストーリーや、登場人物の心理を字幕で説明するようになって、日本の弁士も、声色(こわいろ)ではなく、それぞれの個性によって映画説明をするようになった。こうして生駒 雷遊(いこま・らいゆう)から、徳川 夢聲(とくがわ・むせい)、喜劇なら大辻 司郎(おおつじ・しろう)といった人気弁士がぞくぞくとあらわれる。現在の声優、アニメの声優たちの先駆者といっていい。

サイレント映画(活動写真)では、ドラマの設定や、登場人物のセリフなどは、字幕(スポークン・タイトル)で説明されるのが普通だった。そして、各地の映画館に、映画音楽を伴奏する楽士が常駐して、そのシーンをもりあげる。当時はその映画のために作曲された曲ではなく、サスペンスのシーンになると、決まってオッフェンバックの「天国と地獄」の一節、甘美なシーンになると、「トロイメライ」、「青きドナウ」の一節といった音楽が奏でられる。日本の活動写真で、殺陣(チャンバラ)のシーンにはきまって長唄の「越後獅子」などが使われた。

日本でも、映画ファンは増大したが、外国映画の字幕(スポークン・タイトル)が読める観客はほとんどいなかった。そこで、興行師の駒田 好陽は、映画の内容を観客に説明する弁士として、観客の前に立った。これが、大当たりで、その後、生駒 雷遊から徳川 夢声といったスターが登場する。有名な弁士は、映画のストーリーを説明するだけでなく、登場人物の内面までを感情ゆたかに表現する。だから、当時の観客は、それぞれ贔屓の弁士の口演を聞くために、映画館に押し寄せた。

しかし、トーキーの出現で、活動の弁士たちは、失職して、寄席芸人になったり、ドサまわりの役者になったり、子どもむけの紙芝居屋さんになった。

1957 〈少年時代 43〉

大不況のさなかに、祖母と過ごした塩釜は、幼い私にとって一種のテラ・インコグニタのようなものだった。
たとえば、プールの近くに、小さな芝居小屋、兼映画館があって、その映画館で上映される活動写真を毎日見ていた。日替わりではなかったが、上映される映画は夕方までのマチネーで、夜は芝居に変わるのだった。

活動写真は西部劇が多く、子どもでもよくわかるストーリーが多かった。保安官が、インディアンと対決したり、列車強盗や、砂漠のギャングたちと決闘する。
都市の映画館は、トーキーに転換していたが、塩釜の映画館は芝居小屋で、まだトーキーに対応できていなかったのだろう。
日本の活動写真で、高津 慶子のヒロインが、若旦那の河津 清三郎を愛しながら、最後に心中する、といった悲恋ものも見た。題名もおぼえていない。
当時のスター女優としては、栗島 すみ子がトップを切っていた。やがて、山田 五十鈴、田中 絹代が登場する。原 節子、高峰 三枝子、桑野 通子などはまだ登場しない。私が好きだったのは、ハヤブサ・ヒデトの連続シリーズだった。

私は、ときどき「新興キネマ」の女優、志賀 暁子(あきこ)、琴 絲路(いとじ)の悲劇を思い出す。「戦後」の日本だったら、まったく問題にならなかったような事件にまき込まれて、スクリーンから去って行った女優たちだった。

1956 〈少年時代 42〉

「戦後」すぐの1946年の4月頃。
私はほとんど無収入だったので妹の履き古したサンダルシューズを借りていた。
戦争が終わって復員した後も、旧陸軍の軍靴を履いている人がめずらしくなかった。私は純子の履き古したサンダルシューズ、妹の古着(女ものの背広)を着て、「近代文学社」に出かけていた。なにしろ、外出用のコートも純子がしばらく着ていたスーツを貰いうけたものだった。
当時、頑丈な軍靴を履いていた野間 宏が、私のサンダルシューズに気がついて、不思議そうな顔をした。女もののサンダルシューズだったから。私は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、野間 宏は何もいわなかった。
その頃、純子を「近代文学」の人々に紹介したことがあった。純子は、当時、ある製薬会社に勤めていたので、私と違って、それなりのサラリーを得ていた。
本多 秋五が、
「中田君の妹さんは、(中田 耕治と違って)じつにのびやかで、素直なお嬢さんだねえ」
と褒めてくれた。埴谷 雄高がうなずいて、
「身内にああいう妹さんがいるのはいいね」
といってくれた。

 

 

 

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1955〈少年時代 41〉

仙台の土樋に住んでいた頃、父の昌夫、母の宇免にとっていちばん幸福な時代だったに違いない。
日曜日になると、宇免は、ときどき、幼い私をつれて、デパートの「藤崎」に行ったり、映画を見たりした。ほかの同級生たちは、母親につれられてデパートに行ったり、映画を見たりすることはほとんどなかったようだった。若い女、まして小学1年生の息子をつれて、エディ・カンター、ローレル/ハーディの喜劇を見に行くような女はめずらしかった。宇免は、フランス映画のファンで、ジャン・ギャバンが好きだった。

祖母につれられて、塩釜から仙台に戻ったとき、驚きが待っていた。
母の宇免が、赤ん坊を抱いていた。

赤ん坊は、しきりに泣きたてる。
「あら。どうしたの? オッパイがほしいの?」
宇免は、生まれたばかりの赤ん坊の頭に軽く手を置いて、その顔を覗き込んだ。
「おなかがすいたの、いい子、いい子。さあ、おバアちゃんに抱っこ」
あいの手に抱きとられると、赤ん坊は母と間違えたのか、泣くのをやめて、祖母の胸に頬を押しつけるようにした。
「おお、いい子いい子、スミちゃん、いい子だねえ」
あいもうれしそうに赤ん坊を抱いて、明るい茶の間に出てきたが、泣きやんだばかりの 赤ん坊がまたはげしく泣きだした。
これが、妹の純子との初対面だった。
私は、しきりに泣いている赤ん坊に、わけもなく反感をもったらしい。というより、かすかな嫌悪をもったのか。
「こんなノ、いらない」
と、いったらしい。らしいというのは、まったく記憶がないからである。

新生児は、中田 純子と命名された。
あいは、泣きやまぬ純子を揺すりあげ揺すりあげ、廊下を行ったり来たりしながら、ガラガラ声で、子守歌か何かを聞かせた。
純子は、その声にあやされて泣き止む。しかし、すぐにまた前よりもいっそう強く泣きだした。

私が一夏、塩釜で過ごしたのは、宇免の出産と産後の肥立ちの時期に私の面倒を見ることができないと判断したらしい。子どもながら、そのあたりはおぼろげに理解できた。

妹ができたことは、当然、その後の私の少年時代に大きな影響をおよぼした。
兄妹の関係において、社会的、心理的なアトモスフィアが、お互いの人格構造に直接的、かつは永続的な影響をもったと思われる。

妹の中田 純子についてはいつか書くつもりだが、「戦後」、妹はある製薬会社に就職した。はげしいインフレーションの時代だったが、それでも定期的な収入があるので、私よりもずっと裕福な身分だった。

一方、私は批評めいたものを書きはじめた。背広を着ていたが、これは母の宇免が、闇市場で見つけて、自分の着物(空襲が激しくなる前に田舎に疎開しておいたもの)と交換して手に入れてくれた。これが私の一張羅だった。
私は「着たきりスズメ」で、わずかな原稿料めあてに、いろいろと原稿を書いていた。まったくの無一物だったが、「近代文学」の人たちは、私がいちおう背広を着ていたので、戦災の被害を受けなかったと思ったのではないか。

1954〈少年時代 40〉

当時の仙台は、まだまだ封建的な気風がつよかった。これは否定できないだろう。仙台のような中都市に育った身体的に発達の遅れた少年は、人格発達に、いささかなりとも悪い影響をおよぼすような社会的、心理的な環境に置かれていたといってよい。
かててくわえて、東京から移住したヨソモノだった。
このことから、どちらかといえば、否定的な自己観、他人から拒否されているというねじくれた感情、永続的な依存感情、あるいは、自分の家族に対する反抗的な態度などが見られる。

身体的に未熟な少年少女は、どうしても、青年期の後半において、個人的に、社会的に不適応感を持つことが多いのではないか。むろん、これはあくまで私の場合であって、青年期の後半になって、自分の感情や情緒に直面する意欲や能力をもつ人が多い。
それは彼らが、他人の態度や、自分の不適応感や依存性をはっきり自覚するからだろう。たとえば、北 杜夫、井上 ひさし、寺山 修司と見てくれば、私のいう意味はわかるはずである。

 

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1953 〈少年時代 39〉

夏場のプールで暮らしていたにもかかわらず、私は泳げなかった。
プールといっても、正規のスポーツ用プールではなく、セメントの防火用の貯水池みたいなものだった。夏休みになると近所の子どもたちが集まって、水遊びをやったり、夜も涼みがてら、近くの漁師が泳ぎにくるような場所だった。

このプールに、毎日やって来る女の子がいた。私より2歳ばかり年上だったが、水泳が得意で、25メートルのプールをクロールで泳いだり、平泳ぎで泳ぐのだった。漁師の娘だったらしい。運動神経のいい、野性的で活発な女の子で、いつも黒い水着を着ていた。褐色に日焼けして、水着のあとが白かった。
ある日、この女の子は弟をつれてプールにやってきた。この男の子は、私と同年か少し下だった。名前も知らなかった。
私はチビだった。あだ名をつけられたことはなかったが、それでも、チビだったために、この女の子から「チイちゃん」と呼ばれていた。

私はおなじチビの弟といっしょに並んで歩いていた。
女の子は、私の手を力強く握った。

「おい、チイちゃん、泳ぐの教えてやっか」
「いやだ」
私が拒むと、
「チイちゃんの手は細っけえなあ」

女の子は私の手を固くにぎり返した。にんまり笑った顔は日焼けして、黒かった。
私の隣りにいた男の子の手をとった。
「よし、じゃ、おめだ」

いきなり、プールのへりに連れて行くと、力まかせに、突き飛ばした。小さな男の子のからだは宙を飛んで、プールに水しぶきがあがった。
男の子は必死に水面に顔を出して、犬カキのように両手を動かして、動きまわった。
おそらく、泣きだしていたのだろう。プールの縁まで、やっとたどり着くと、女の子が寄って行って、また水の中に突き戻した。
男の子は悲鳴をあげながら、手足をバタバタやって、また、プールの縁に戻ろうとする。溺れそうになったとき、女の子がプールに飛び込んだ。

「ほれ、泳げるようになったっぺ」

舞台の「東海道四谷怪談」ほどではなかったが、これほど、おそろしい場面は見たことがなかった。

私は、その場を離れると、まっすぐに祖母のところに走って行った。
女の子が、これほど無茶な態度を見せた理由はわからない。女の子の行動が何かの動機によるものか、それはわからない。これほど無謀な行動は、たとえば漁師の家庭という環境にたいする未成熟な処置のしかたの結果と見ていいかもしれない。
私は、恐怖にかられて、祖母のところに逃げて行った。

ただ、今おきたことを祖母にうまくことばで説明できなかった。私は、塩釜の女の子が、これほど攻撃的だと知って恐怖にかられた。

この女の子は、水泳の達人だった。泳げることは、個人的に安定感をもつことだったし、弟に対して絶対的に優位性をもっていたから、泳げない弟に対して、あれほど攻撃的な態度をとったのだろう。それに、漁村育ちのため泳ぐことは男性的な特質と認められていたから、水泳の達人として大人の世界に認められるため、ことさら攻撃的な特性を見せびらかすことになったのか。
私は、この女の子に惹かれたわけではない。むしろ、この女の子に対して、おそろしさをおぼえた。自分の姉さんだったら、傍にも寄りつけないだろう。そのくせ、この女の子に対して、つよい関心をもった。自分でもわけがわからない感情だった。一種の憧れのような思いが生じていた。

しかし、私はその女の子の姿を見ると、すぐに管理人の部屋に逃げ込んだ。

1952〈少年時代 38〉

あくる朝、私は起きてすぐに楽屋裏に出た。
それまでは、楽屋から舞台に出ても、何も感じなかったのに、その日は、舞台を通るのが恐ろしかった。舞台を通らずに枡席に出た。

舞台に老大工がいて、何かの作業をしていた。いつも見慣れていることなので、いくらか安心しながらそばに寄っていった。大工さんは、障子の木枠を床(ゆか)において紙の張り替えをしていた。舞台の装置を作っているらしい。作業を終えると、その障子に長い定規をあてて、バケツに溶いたフノリに刷毛をとって泥絵の具で枡目の線を引く。たちまち、一枚の障子ができあがった。

この瞬間、私はほとんど自失していた。私が見たのは、昨日、オバケが突き破った障子だった。

子どもの私は、はじめて舞台装置というものがあることを知ったのだった。芝居というものは、こうして作られるのかという驚きがあった。老大工は、手際よく障子紙を張って、泥絵具をつけた刷毛で、障子の桟(さん)を描いてゆく。

これなら、オバケが障子を突き破って出てきても不思議ではない。幼い私は、芝居というものが、こういう作業の上でなりたつものとはじめて知った。
これが、私の内面に芝居というものは誰かの手によって作られるものだという「発見」を呼び起こした。

この障子を見たとき私は驚いたが、なぜか自分の心が、不意にあかるくなったような気がする。これならいくらオバケが障子の桟(さん)を突き破って出てきてもおそろしくない。私は、ほとんど茫然として、老大工の仕事を見ていた。
このときの私が何を考えたのか、今となっては思い出せないのだが、ただ茫然としていたようだった。ただし、自分の知らなかったことを知ったという思いに胸が波立つのを感じた。

それだけの経験にすぎない。

今になってみると、後年の私が舞台の仕事をつづけたのも、この発見になんらかのかかわりがあるような気がする。

ただし、その晩の芝居は見なかった。役者の動きや段取りもわかっていたが、話のスジや、役者のセリフがわかっているだけに、怖くて怖くて舞台を見る勇気はなかった。

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1951〈少年時代 37〉

ずっとあとになって、台本は大南北の「東海道四谷怪談」と思いあたったが、浪宅の場で、按摩の宅悦、主人公の伊右衛門、関口官蔵、伴助、小仏小平が集まっている。
上手の障子をあけると、面体(めんてい)もすさまじいお岩が寝ている、という早替わりの場面など、ただふるえおののいて早く芝居が終わらないかと必死に祈っていた。
髪を乱れるにまかせたお岩は膿みくずれた形相(ぎょうそう)で、その切れ長のまぶたのあたりに、恨みをたたえている。その姿には、ものしずかな、というよりも、むしろもの倦げな表情があった。だから、岩が伊右衛門にいびり殺されて、怨霊が障子の桟(さん)を突きやぶって出現したときは、恐怖が極限に達した。
オバケは我と我が心臓を噛み裂くような形相(ぎょうそう)を見せていた。私は悲鳴をあげて、桟敷から逃げ出した。

その晩の私は、あまりのおそろしさにおびえて、祖母にすがりついて泣いた。

1950〈少年時代 36〉

塩釜のドサまわり。有名な芝居をかけるわけではないし、ストーリーも適当な芝居をつなぎあわせて、その場しのぎのドサまわりだったに違いない。
玄冶店(げんやだな)らしい芝居も、私の記憶にぼんやり残っている。

お富という美しい女が海岸で、これも美男の若旦那、与三郎と出会う。
この与三郎が、「三十四ケ所の刀疵、これも誰ゆえお富ゆえ」という「切られ与三」になって、お富と再会する。これが横櫛のお富で、蝙蝠安がからんでくる。

「額をかけて七十五針、怱身の疵に色恋も、さった峠の、崖っぷち」
のゆすりや、大詰め、畜生塚の場で、出刃を逆手の蝙蝠安殺しなど、子どもながら、すごいなあ、と見ていた。

夏場は怪談の演目を出す。これが私を恐怖に陥れた。ストーリーはよくわからなかったが芝居の仕組みがおどろおどろしい。さらには、責め道具、仕掛けもののお化け芝居なので、恐ろしさのあまり畳につっぷして、舞台を見ないようにしてふるえていた。

1949〈少年時代 35〉

昭和8年(1933年)の夏休み、私は祖母のあいといっしょに塩釜(しおがま)で過ごした。
石巻(いしのまき)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だったから、塩釜はおそらく1万にみたない小さな漁港だったと思われる。

町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。

ただ、プールの近くに、小さな芝居小屋、兼映画館があって、その映画館で上映される活動写真を見ることが多かった。

塩釜(しおがま)で過ごした頃のことは、ぼんやりとおぼえているだけだが、夏のあいだだけ営業するプールの管理人をやっていた祖母に預けられて、プールの部屋に住み込みで暮らしていたことを思い出す。

プールといっても、セメントを打っただけのもので、今の競技用のプールとは比較にならない。都会の小学校にもプールがなかった時代で、水産会社の生け簀を利用して、夏場の子どもたちのプールにしたのではなかったか。
私は、誰もいないプールの回りを歩いたり、透明な水の揺らぎを眺めていた。自分が、どうしてプールの管理人に預けられたのか、それも考えなかった。
祖母のあいは、この映画館の小さな売店をまかされていた。
どういう経緯があったのかわからないが、私の祖母、西浦 あいは、昼間はプールの管理人、夜は活動写真の劇場に雇われていた。つまり、両方の仕事のかけもちでアルバイトをやっていたことになる。

アルバイトをかけもちして働かなければならなかった。つまりは、それ程貧しかったのか。あるいは、別の事情があったのか。
幼い私がそんなことを考えたわけではない。ただ、「あい」が私の母、宇免の紹介で劇場の売店を引き受けて、観客にビール、サイダー、ラムネなどを売っていたことはまちがいない。

都会では、無声映画からトーキーに転換していたが、この劇場は、昼間は弁士が活動写真の説明をするが、夜は、ドサまわりの劇団が、芝居を打つ。ときには、浪曲師が浪花節をうなるといった大衆向けの芝居小屋だった。

ドサまわりの劇団のレパートリーは歌舞伎が多く、「近頃河原の達引」などを適当な長さにダイジェストしたものを見たのではないか。
子どもの私は、板敷の枡席かゴザか筵(ムシロ)のような古畳を敷いた桟敷に座って、芝居を見た。「お俊傳兵衛」が、母や兄に暇乞いをして、義太夫の

やつす姿のめおと連、名を絵草紙に、聖護院(しょうごいん)森をあてどに
たどりゆく

ぐらいは理解できた。さて、ふたりが森に着いて、いろいろの口説きや色模様の果てに、今にも相対死にという段になって、死なずにすむことになる。そればかりか、「お俊」も「傳兵衛」も夫婦になるので観客も大よろこび。そんな芝居をかすかにおぼえている。

 

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1948〈少年時代 34〉

少年時代における対人関係や、社会的な適応が、身体の成熟の度合いによって大きな影響をうける。ただし、そうした身体の成熟の度合いと、その少年少女の内面にひそむさまざまなモーティヴェーション、自己観、その対人関係となると、これはむずかしい。

たとえば少女の場合、身体的に少年よりも早熟なことが多く、性的なことを含めていろいろなことに興味をもつだろう。また、早熟な少年は、そうでない少年(かりに晩熟な少年といっておく)とは、その行動や評判などに差が出てくる。
そして、身体的に発達が遅れた少年少女(たとえば、私のようなチビ)は、からだの魅力、身だしなみ、気どりのなさなどの点で、早熟な少年少女たちよりも劣っている。そのかわり、愛想のよさ、他人の注目を浴びたがったり、子どもっぽさ、何かに対する熱心さにおいてすぐれている。

むろん、これは一般論にすぎない。しかし、チビのほうが、落ち着きがなくて、さわがしい、子どもっぽい、ときにはみっともない行動をとる、といったマイナスの面が見られる。

1947〈少年時代 33〉

眼がさめた。私は清水小路ではなく、塩釜のプールにいた。まるで魔法のように。両親といっしょではなく、日頃、身近にいるはずのない祖母のあいと一緒にいるのだった。
あいは、私の母、宇免の母親なので、私にとっては祖母にあたる。

祖母と過ごすことがどんなに楽しかったか。小学校で友だちといっしょに過ごすよりも、祖母といっしょにいるほうがずっと楽しかった。

歌舞伎が好きだった。ただし、あいの行動半径はきわめて狭く、本所の小芝居、寿座が好きで、新之助のファンだった。
顔見世から、初春、弥生、皐月(さつき)、菊月と欠かさず興行を見に行く。夏の興行は休みになるので、それを利用して私の相手をしてくれたのではないか。
当時の菊五郎、羽左衛門、三津五郎のような大名題は好きではなかった。

関東大震災(1923年)のとき、大火が本所、浅草に迫ったとき、浅草の観音さまも炎上するところだった。ところが、このとき団十郎が、大音声で、アイヤ、しばらく、暫くと叫んだ。この声にもさしもの火勢いも、ここでぴたりととまった。これが、大評判になったという。
あいは、そんな話を幼い私にしてくれた。本気で信じていたのだろう。
1945年のアメリカ空軍の空襲で、わが家も浅草の観音堂も焼失したが、あいは、新之助でも効かなかったろうねえ、といった。

2021年、東京オリンピックが開催された。この開会式の祝いごとに、団十郎の「暫」が出た。日本人なら、「暫」の意味が理解できるだろうが、外国人選手たちには「暫」を見ても、あまり意味がなかったと思われる。私は、団十郎を見ながら、祖母のあいがこれを見たらどういうだろう、と思った。
こんなことを書くのはかなり気恥ずかしいのだが、私は「おバアちゃん子」として育ったせいもある。

1946〈少年時代 32〉

昭和8年(1933年)の夏休み、私は塩釜(しおがま)で過ごした。

夏休み。今が自分の人生でも一番幸福だと思える時期。もっと幸福だったのは、大好きな祖母のあいといっしょに塩釜で過ごしたことだった。
少年にとっては、自分が何かの事実にじかに向きあうのが、夏という季節なのだ。ゆえにこそ、夏は少年にとって「フロンティア」なのだ。

私は、仙台で育ったことから、なぜか、自分の感情や情緒の動きに不適応感をもちつづけてきたと思う。
当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だが、塩釜はその石巻に接した漁村で、人口はせいぜい数千にみたない小さな田舎町だった。
仙台は、多聞(たもん)中将のひきいる第二師団が置かれて、東奥(とうおう)の覇権をめざす軍国主義のさかんな都市だったが、塩釜は、昔から変わらない漁村で、ようするに、仙台のように軍国的なソフィスティケーションではなく、土地のすべてがどこか江戸時代をしのばせる過去と、発展をめざす現在を見せていた。

塩釜(しおがま)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。
漁船は遠く千島や、カムチャッカまでサケ漁に出向いたり、近くの利府(りふ)の梨作り、小さな造船所で作る木造船の匂い、大漁旗をひらめかせて、繋船岸にひしめく漁船の群れ。 それでも町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。

「おバアちゃん子」について調べたことはないが、幼い頃に祖父か祖母にそだてられた少年少女たちは、成人に達してからも、目上の人、同輩、あるいは異性に対する態度、そのとり扱い、受け入れかたに、なんらかの特徴が見られるかも知れない。

祖母のあいは、貧しい田舎に生まれ、貧しく育って、小学校もろくに通えなかったらしい。あいは、少しも美人ではなかった。気のつよい女だった。眼がするどくて、相手を一瞬で見抜くようなところがあった。

日露戦争から復員してきた兵士と恋仲になって、娘の宇免(うめ)を生んだが、その兵士が急死したため、淫奔女(いたずらむすめ)とそしられた。今でいうシングルマザーだが、明治末期の片田舎で、未婚の娘が生まれたばかりの父なし子を育てることもむずかしかった。戸籍上、生まれたばかりの娘の宇免を、従兄の西浦 美代松の養女にして東京に出た。
いろいろな職業を輾転としたが、大森に移って、炭屋を営んだ。宇免が、大森の素封家の家に子守女として雇われたのもこの頃のことだったろう。
あいはこの時期に結婚して、勝三郎(宇免の異父弟)を生んだ。

 

 

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1945〈少年時代 31〉

小学3年生という時期は、何というあわただしさで過ぎ去ったことか。

私は学校から帰宅すると、少年倶楽部を読みふけるようになった。毎月届けられる少年雑誌だった。
マンガに夢中になった。

この時期の少年としては、他人の注目を惹こうとする少年で、落ちつきがなく、いつまでも子どもっぽい性格だったらしい。
むろん、マンガだけではない。山中 峯太郎、高垣 眸の冒険小説、佐藤 紅緑の少年小説などに夢中になった。
私が、少年倶楽部を読みふけるようになったことと、彦三郎先生に無視されたことにはなんの関係もない。しかし、少年倶楽部を読みふけるようになったのは、学校の授業がおもしろくなかったせいで、彦三郎先生から受けた冷たい教育の影響がなかったとはいい切れないと思う。ようするにウマがあわなかった、ということだったのではないだろうか。この年、私は優等生になれなかった。

私は、マルローのように自分の少年期を憎んではいない。ただ、人生の早い時期に、厳格で、謹直な彦三郎先生の教育を受けたことを嬉しく思っている。
先生に対する敬愛は変わらない。しかし、それ以後の私は、意識的に彦三郎先生のようなタイプの先生に近づかないようになったからである。
今となっては、彦三郎先生にむしろ感謝しているといったほうがいい。

ある日、私は父の書棚にあった本を手にした。
芥川 龍之介という作家の短編集だった。その1編を読んだ。みじかいので、すぐに読み終えた。読み終えたとき、何だ、これは? と思った。それまで、「少年倶楽部」で読んできた小説とは、まったく違うものだった。私の読んだものは、大奥の茶坊主、「河内山宗俊」という人物が、加賀の前田侯にとり入って、まんまと銀の煙管をせしめる、といった内容の短編だった。
この瞬間に、私は小説を読む面白さを知ったのだった。
つづいて、私は、別の本を手にした。ジョン・ラスキン。「黄金の河の王さま」という寓話めいた小説だった。このときも、これは何だろう? という疑問と、この中編も、やはり小説なのだろうか、という疑問が生まれた。

好奇心のつよい少年だった私は、芥川 龍之介、ラスキンを手がかりにして、それ以外の作家たちにも眼を向けはじめた。

1944〈少年時代 30〉

ある日、転校生が私たちのクラスに入ってきた。
ジャフルという。父親はインド人で、母は日本人だった。ジャフルの父は、当時の仙台ではまだ珍しかったガソリンスタンドを経営していた。

ジャフルの本名はジャワハルラルだった。(あくまで想像だが、ひょっとすると、ガンディーの後継者だったバンディット・ジャワハルラル・ネルーにあやかってつけられたのではないかと思う)。
ジャフルは、見るからにインド人らしい剽悍な美少年だった。ジャフルが、どういう少年時代をすごしたか知らない。私とおなじチビのくせに気が強くて、体力的にもどっしりした少年で、やたらに喧嘩ッ早い。うっかり「あいのこ」などといおうものなら、たちまち殴りかかってくる。

はじめてクラスに入ってきたとき、ジャフルはすぐにクラスの2、3人と取っ組み合いの喧嘩をはじめて相手を殴り倒した。それも、相手の顔面を正面から拳で殴りつけ鼻血を出させるというすさまじいもので、小学生の喧嘩とはいえない程のものだった。
いきなり派手な殴りあいをみせたジャフルは、転校前の学校でもおなじような経験をしてきたらしい。しかし、戦前の日本で、肌の色が違うというだけで差別されてきたことは想像できた。
一方、女生徒たちは、この美少年に魅せられた。たいへんな評判になって、昼休みになると,よそのクラスの女の子たちが私のクラスに押し寄せてきた。
ジャフルは、これも経験していたらしく,女の子たちに話しかけたり,手を振ってみせたりした。

雨の日の体育は、講堂で行われる。
たいていは馬飛びかドッジボールというスポーツで、ドッジボールは、単純なルールの球技だった。
長方形のフロアを二分する。それぞれのフロアにプレイヤーが入る。外側に、敵方のメンバーが立って、敵方にボールを当てられたら、アウトになる。そのままフロアの外に出て、今度は、相手チームの生き残ったメンバーを攻撃する。

ある日、体育に使われている講堂で、ジャフルが何か悪戯をした。女の子をからかったか、何かいったのか。事情はわからない。
そのとき、彦三郎先生が、ジャフルの襟をつかんで、いきなり、足を払った。ジャフルは宙を飛んで、フロアに投げ出された。ジャフルは倒れたが、すぐに反撃しようとした。しかし、はじめから互角に勝負できる相手ではない。何かわからない言葉を叫びながら、その場から走り去った。
翌日から、ジャフルは登校しなくなった。

私は、このときの彦三郎先生に反感をもったり反発したわけではない。しかし、ジャフルをつかまえてお説教するならまだしも、いきなり体罰を加えるようなことはすべきではない。

ジャフルが、荒町尋常小学校に在籍したのは、わずか2カ月だった。ジャフルの一家はしばらくして東京に引っ越して行ったという。昭和初期の仙台では、モータリゼーションも未発達で、市内で走るセダンを見ることも少なかった。当時の先端的なビジネスとしてもガソリンスタンドの経営はうまくいかなかったらしい。私たちは、転校生だったジャフルのことを、もう誰ひとり話題にしなくなった。

2学期になって、私は授業に熱心ではなくなった。

ようするに、肌があわなかったとしかいいようがない。
私の成績は落ちた。

1943〈少年時代 29〉

バルザックは「従兄ポンス」で書いているように、「ある先天的な感情、つまり好奇心という、人間の性質のうちでもっともつよい感情」が異常なほどつよかった。好奇心はそれこそ作家の資質を形成するもっとも重要な要因をなしていた。

小学3年生の子どもの内面に、なぜか深い変化が生じた。
それまでの、平穏無事な世界から、不意に、すべて無関心からできている別の世界に落ち込むようなことがどうして起きるのか。
すべての事柄から、いきなり日常の効果が失われ、そこに自分の姿を認めさせてくれるものが消滅して行く。

私は、自分の置かれた環境に不適応感をもった。そして、自分が、ある種の人びとからいつも距離をおいた形で見られていることに気がついた。
このことは、後年になっても私に影響したと思う。

 

 

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1942〈少年時代 28〉

当時、巷で流行っていた歌を思い出す。
「二村定一」(ふたむら・ていいち)が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、子どもたちもよく歌った。それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーも、よく歌ったものだった。

1934年、千田 是也が、「東京演劇集団」を結成して、ブレヒトの「三文オペラ」を演出したとき、エノケン(榎本健一)と一緒に二村定一を起用した。当時のエノケンの人気は、たいへんなものだったが、二村定一がいなかったら、エノケンもあれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、オリジナルは二村定一とデュエットで、私のような小学生も、エノケンのファンだったから、「青空」を歌ったものだった。

彦三郎先生は、そんな私の軽薄なところがお嫌いだったのではないかと思う。

今、思い出そうとしてもこの先生に親しみを覚えた記憶はない。綺麗さっぱり消えている。むろんどんな授業を受けたのか、教室での思い出はほとんどない。
3年生の学期の最後に、私は優等生ではなくなっていた。通信簿には、乙という評価が並んでいた。