1955〈少年時代 41〉

仙台の土樋に住んでいた頃、父の昌夫、母の宇免にとっていちばん幸福な時代だったに違いない。
日曜日になると、宇免は、ときどき、幼い私をつれて、デパートの「藤崎」に行ったり、映画を見たりした。ほかの同級生たちは、母親につれられてデパートに行ったり、映画を見たりすることはほとんどなかったようだった。若い女、まして小学1年生の息子をつれて、エディ・カンター、ローレル/ハーディの喜劇を見に行くような女はめずらしかった。宇免は、フランス映画のファンで、ジャン・ギャバンが好きだった。

祖母につれられて、塩釜から仙台に戻ったとき、驚きが待っていた。
母の宇免が、赤ん坊を抱いていた。

赤ん坊は、しきりに泣きたてる。
「あら。どうしたの? オッパイがほしいの?」
宇免は、生まれたばかりの赤ん坊の頭に軽く手を置いて、その顔を覗き込んだ。
「おなかがすいたの、いい子、いい子。さあ、おバアちゃんに抱っこ」
あいの手に抱きとられると、赤ん坊は母と間違えたのか、泣くのをやめて、祖母の胸に頬を押しつけるようにした。
「おお、いい子いい子、スミちゃん、いい子だねえ」
あいもうれしそうに赤ん坊を抱いて、明るい茶の間に出てきたが、泣きやんだばかりの 赤ん坊がまたはげしく泣きだした。
これが、妹の純子との初対面だった。
私は、しきりに泣いている赤ん坊に、わけもなく反感をもったらしい。というより、かすかな嫌悪をもったのか。
「こんなノ、いらない」
と、いったらしい。らしいというのは、まったく記憶がないからである。

新生児は、中田 純子と命名された。
あいは、泣きやまぬ純子を揺すりあげ揺すりあげ、廊下を行ったり来たりしながら、ガラガラ声で、子守歌か何かを聞かせた。
純子は、その声にあやされて泣き止む。しかし、すぐにまた前よりもいっそう強く泣きだした。

私が一夏、塩釜で過ごしたのは、宇免の出産と産後の肥立ちの時期に私の面倒を見ることができないと判断したらしい。子どもながら、そのあたりはおぼろげに理解できた。

妹ができたことは、当然、その後の私の少年時代に大きな影響をおよぼした。
兄妹の関係において、社会的、心理的なアトモスフィアが、お互いの人格構造に直接的、かつは永続的な影響をもったと思われる。

妹の中田 純子についてはいつか書くつもりだが、「戦後」、妹はある製薬会社に就職した。はげしいインフレーションの時代だったが、それでも定期的な収入があるので、私よりもずっと裕福な身分だった。

一方、私は批評めいたものを書きはじめた。背広を着ていたが、これは母の宇免が、闇市場で見つけて、自分の着物(空襲が激しくなる前に田舎に疎開しておいたもの)と交換して手に入れてくれた。これが私の一張羅だった。
私は「着たきりスズメ」で、わずかな原稿料めあてに、いろいろと原稿を書いていた。まったくの無一物だったが、「近代文学」の人たちは、私がいちおう背広を着ていたので、戦災の被害を受けなかったと思ったのではないか。