1944〈少年時代 30〉

ある日、転校生が私たちのクラスに入ってきた。
ジャフルという。父親はインド人で、母は日本人だった。ジャフルの父は、当時の仙台ではまだ珍しかったガソリンスタンドを経営していた。

ジャフルの本名はジャワハルラルだった。(あくまで想像だが、ひょっとすると、ガンディーの後継者だったバンディット・ジャワハルラル・ネルーにあやかってつけられたのではないかと思う)。
ジャフルは、見るからにインド人らしい剽悍な美少年だった。ジャフルが、どういう少年時代をすごしたか知らない。私とおなじチビのくせに気が強くて、体力的にもどっしりした少年で、やたらに喧嘩ッ早い。うっかり「あいのこ」などといおうものなら、たちまち殴りかかってくる。

はじめてクラスに入ってきたとき、ジャフルはすぐにクラスの2、3人と取っ組み合いの喧嘩をはじめて相手を殴り倒した。それも、相手の顔面を正面から拳で殴りつけ鼻血を出させるというすさまじいもので、小学生の喧嘩とはいえない程のものだった。
いきなり派手な殴りあいをみせたジャフルは、転校前の学校でもおなじような経験をしてきたらしい。しかし、戦前の日本で、肌の色が違うというだけで差別されてきたことは想像できた。
一方、女生徒たちは、この美少年に魅せられた。たいへんな評判になって、昼休みになると,よそのクラスの女の子たちが私のクラスに押し寄せてきた。
ジャフルは、これも経験していたらしく,女の子たちに話しかけたり,手を振ってみせたりした。

雨の日の体育は、講堂で行われる。
たいていは馬飛びかドッジボールというスポーツで、ドッジボールは、単純なルールの球技だった。
長方形のフロアを二分する。それぞれのフロアにプレイヤーが入る。外側に、敵方のメンバーが立って、敵方にボールを当てられたら、アウトになる。そのままフロアの外に出て、今度は、相手チームの生き残ったメンバーを攻撃する。

ある日、体育に使われている講堂で、ジャフルが何か悪戯をした。女の子をからかったか、何かいったのか。事情はわからない。
そのとき、彦三郎先生が、ジャフルの襟をつかんで、いきなり、足を払った。ジャフルは宙を飛んで、フロアに投げ出された。ジャフルは倒れたが、すぐに反撃しようとした。しかし、はじめから互角に勝負できる相手ではない。何かわからない言葉を叫びながら、その場から走り去った。
翌日から、ジャフルは登校しなくなった。

私は、このときの彦三郎先生に反感をもったり反発したわけではない。しかし、ジャフルをつかまえてお説教するならまだしも、いきなり体罰を加えるようなことはすべきではない。

ジャフルが、荒町尋常小学校に在籍したのは、わずか2カ月だった。ジャフルの一家はしばらくして東京に引っ越して行ったという。昭和初期の仙台では、モータリゼーションも未発達で、市内で走るセダンを見ることも少なかった。当時の先端的なビジネスとしてもガソリンスタンドの経営はうまくいかなかったらしい。私たちは、転校生だったジャフルのことを、もう誰ひとり話題にしなくなった。

2学期になって、私は授業に熱心ではなくなった。

ようするに、肌があわなかったとしかいいようがない。
私の成績は落ちた。