1959 〈少年時代 45〉

昭和初期、我が国の映画は、日活、新興キネマ、松竹など、大谷 竹次郎の率いる「松竹」ブロックと、これを追って、新しく映画界に登場した「PCL」(東宝の前身)ブロックの激烈な競争が見られた。有名な映画スター、監督の引き抜きと、全国各地の常設館の奪い合いが、当時の知識層の顰蹙を買うほど執拗に続けられた。

常設館は、1538。ただし、観客数は、東京で、約180万人、大阪で、約30万人の減少。昭和初期の不況がかなり深刻だったことがわかる。

Iさんは、東京で成功したが、トーキー時代が到来すると、いち早く地元の仙台に戻って、映画館の経営に転向した。まだ、仙台にトーキー専門の映画館がなかった時代に、東宝の前身、PCLの直属の映画館の経営に乗り出した。

当時、巷で流行っていた歌を思い出す。

「二村定一」(ふたむら・ていいち)が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、子どもたちもよく歌った。それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーも。

二村定一は、エノケン(榎本健一)の劇団にいた。
1934年、千田 是也が、「東京演劇集団」を結成したとき、ブレヒトの「三文オペラ」を公演したとき、エノケン(榎本健一)と一緒に客演した。当時のエノケンの人気は、たいへんなものだったが、「二村定一」がいなかったら、エノケンもあれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、ほんとうは、二村定一とデュエットしている。
私のような小学生も、エノケンのファンだったから、「青空」を歌ったものだった。

エノケンの映画は、よく見ていた。「エノケンのどんぐり頓兵衛」や「青春酔虎伝」、「エノケンの法界坊」に出ていた高勢 実乗(みのる)、「西遊記」に、まだ5歳だった中村 メイ子が出ていた。
エンタツ、アチャコの「あきれた道中」などは、有楽町の「日劇」で見た。