1953 〈少年時代 39〉

夏場のプールで暮らしていたにもかかわらず、私は泳げなかった。
プールといっても、正規のスポーツ用プールではなく、セメントの防火用の貯水池みたいなものだった。夏休みになると近所の子どもたちが集まって、水遊びをやったり、夜も涼みがてら、近くの漁師が泳ぎにくるような場所だった。

このプールに、毎日やって来る女の子がいた。私より2歳ばかり年上だったが、水泳が得意で、25メートルのプールをクロールで泳いだり、平泳ぎで泳ぐのだった。漁師の娘だったらしい。運動神経のいい、野性的で活発な女の子で、いつも黒い水着を着ていた。褐色に日焼けして、水着のあとが白かった。
ある日、この女の子は弟をつれてプールにやってきた。この男の子は、私と同年か少し下だった。名前も知らなかった。
私はチビだった。あだ名をつけられたことはなかったが、それでも、チビだったために、この女の子から「チイちゃん」と呼ばれていた。

私はおなじチビの弟といっしょに並んで歩いていた。
女の子は、私の手を力強く握った。

「おい、チイちゃん、泳ぐの教えてやっか」
「いやだ」
私が拒むと、
「チイちゃんの手は細っけえなあ」

女の子は私の手を固くにぎり返した。にんまり笑った顔は日焼けして、黒かった。
私の隣りにいた男の子の手をとった。
「よし、じゃ、おめだ」

いきなり、プールのへりに連れて行くと、力まかせに、突き飛ばした。小さな男の子のからだは宙を飛んで、プールに水しぶきがあがった。
男の子は必死に水面に顔を出して、犬カキのように両手を動かして、動きまわった。
おそらく、泣きだしていたのだろう。プールの縁まで、やっとたどり着くと、女の子が寄って行って、また水の中に突き戻した。
男の子は悲鳴をあげながら、手足をバタバタやって、また、プールの縁に戻ろうとする。溺れそうになったとき、女の子がプールに飛び込んだ。

「ほれ、泳げるようになったっぺ」

舞台の「東海道四谷怪談」ほどではなかったが、これほど、おそろしい場面は見たことがなかった。

私は、その場を離れると、まっすぐに祖母のところに走って行った。
女の子が、これほど無茶な態度を見せた理由はわからない。女の子の行動が何かの動機によるものか、それはわからない。これほど無謀な行動は、たとえば漁師の家庭という環境にたいする未成熟な処置のしかたの結果と見ていいかもしれない。
私は、恐怖にかられて、祖母のところに逃げて行った。

ただ、今おきたことを祖母にうまくことばで説明できなかった。私は、塩釜の女の子が、これほど攻撃的だと知って恐怖にかられた。

この女の子は、水泳の達人だった。泳げることは、個人的に安定感をもつことだったし、弟に対して絶対的に優位性をもっていたから、泳げない弟に対して、あれほど攻撃的な態度をとったのだろう。それに、漁村育ちのため泳ぐことは男性的な特質と認められていたから、水泳の達人として大人の世界に認められるため、ことさら攻撃的な特性を見せびらかすことになったのか。
私は、この女の子に惹かれたわけではない。むしろ、この女の子に対して、おそろしさをおぼえた。自分の姉さんだったら、傍にも寄りつけないだろう。そのくせ、この女の子に対して、つよい関心をもった。自分でもわけがわからない感情だった。一種の憧れのような思いが生じていた。

しかし、私はその女の子の姿を見ると、すぐに管理人の部屋に逃げ込んだ。