1947〈少年時代 33〉

眼がさめた。私は清水小路ではなく、塩釜のプールにいた。まるで魔法のように。両親といっしょではなく、日頃、身近にいるはずのない祖母のあいと一緒にいるのだった。
あいは、私の母、宇免の母親なので、私にとっては祖母にあたる。

祖母と過ごすことがどんなに楽しかったか。小学校で友だちといっしょに過ごすよりも、祖母といっしょにいるほうがずっと楽しかった。

歌舞伎が好きだった。ただし、あいの行動半径はきわめて狭く、本所の小芝居、寿座が好きで、新之助のファンだった。
顔見世から、初春、弥生、皐月(さつき)、菊月と欠かさず興行を見に行く。夏の興行は休みになるので、それを利用して私の相手をしてくれたのではないか。
当時の菊五郎、羽左衛門、三津五郎のような大名題は好きではなかった。

関東大震災(1923年)のとき、大火が本所、浅草に迫ったとき、浅草の観音さまも炎上するところだった。ところが、このとき団十郎が、大音声で、アイヤ、しばらく、暫くと叫んだ。この声にもさしもの火勢いも、ここでぴたりととまった。これが、大評判になったという。
あいは、そんな話を幼い私にしてくれた。本気で信じていたのだろう。
1945年のアメリカ空軍の空襲で、わが家も浅草の観音堂も焼失したが、あいは、新之助でも効かなかったろうねえ、といった。

2021年、東京オリンピックが開催された。この開会式の祝いごとに、団十郎の「暫」が出た。日本人なら、「暫」の意味が理解できるだろうが、外国人選手たちには「暫」を見ても、あまり意味がなかったと思われる。私は、団十郎を見ながら、祖母のあいがこれを見たらどういうだろう、と思った。
こんなことを書くのはかなり気恥ずかしいのだが、私は「おバアちゃん子」として育ったせいもある。