1921〈少年時代 15〉

私は、クラスでいちばんチビだった。私がチビだったことには、遺伝的な原因があるだろう。父、昌夫がひどく身長が低かった。さらに、昌夫の実母、理勢(りせ)が、身長が低かった。その遺伝子が私につたえられたものと思われる。

私のクラスにかぎらず、当時の小学生は、身長の高低で席がきめられた。クラスで私よりチビだった生徒は、ほんの2、3人で、毎年、最前列の席にすわらせられた。

私のクラスの子どもたちは、全員、丸坊主だった。
そのなかで、私ひとりは女の子のオカッパのように髪を伸ばしていた。こういうヘア・スタイルをなんと呼ぶのか知らないが、仙台弁ではパッサだった。
もう一つ、私が目立ったのは別の要因があった。
生徒たちみんなが「小倉」という生地の黒い制服を着ていたのに、私ひとりはやや青味を帯びた「サージ」の制服を着ていたこと。

昭和初期、仙台にかぎらず、「サージ」の学生服を着ていた小学生は少なかったに違いない。
これも今の人たちには説明が必要かも知れない。「サージ」は梳毛糸(そもうし)をもちいて、綾織にした服地。和服地のセルとおなじ。
「小倉」は、木綿の生地で、学生服や労働者が着ていた。もとは、九州・小倉で織られたもので、帯や袴に使われたらしい。学生服は、ほとんどが黒の木綿の生地で作られていた。
隣りのクラスにいた裕福な家庭の子どもたちが2、3人、私とおなじ「サージ」の学生服を着ていた。

東京の山手そだちの子どもなら、オカッパに「サージ」というスタイルもめずらしくなかったが、地方都市の仙台では、かなりめずらしかったはずである。

1920〈少年時代 14〉

私のクラスの担任は、佐藤 実(みのる)先生だった。
口ひげをたくわえた先生だったことをおぼえているが、国語教科書の最初の授業で、教科書の、いちばん最初に出てくる「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を朗読したのは私だった。

私は標準語だったが、父方の祖母(昌夫の母)、里勢(りせ)は、生涯、江戸弁で通していた。伝法で、いなせな江戸弁と、私の下町ことばとはまるで違っていた。それでも、私のことばは綺麗に聞こえたのかも知れない。

小学1年生の私がはじめておぼえた唱歌は、〔さくら〕と〔蝶々〕の歌だった。

てふてふ(蝶々) てふてふ(蝶々) 菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら さくら(桜)にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよ あそべ あそべよ とまれ

現在の私は、明治14年頃、愛知県の師範学校の校長先生だった伊沢 修二が、教員の野村 秋足に作詞させた曲で、モトネタはアメリカのカレッジソングだったことを知っている。それはともかく、(蝶々)の歌が私の知ったはじめての西洋音楽だった。

幼い私には、蝶々が、なぜ〔てふてふ〕と表記されるのか、不思議だった。
このあたりから、私は国語についてぼんやり考えはじめたような気がする。

1919〈少年時代 13〉

1934年(昭和8年)4月、小学校にはじめて入学した日のことはよくおぼえている。母親につれられて仙台市立荒町尋常小学校の校門に入ったとき、桜が満開だった。いまでも桜を見ると、母の宇免(うめ)に手を引かれて、ゆるやかな坂を下りて校舎にはいって行った日のときめきがよみがえる。

宇免は、20代の半ば、肌が白く、目元がすずしいのでちょっと人目につく顔だちだった。美人ではなかったが、若い母親だっただけに、小学校の先生たちも関心をもったようだった。宇免は、父兄会(戦後のPTA)の集まりに、洋装で出席することがあって、ほかの母親たち、若い先生たちも好奇の眼を向けたようだった。
ほかの生徒の母親は、いつも地味な和服だった。

私は宇免が若い母親だったことがうれしかった。

入学式は講堂で行われた。校長は、横山 文六先生。小柄で、でっぷり肥満身体の校長先生は、フロックコートに白手袋という正装で、恭しく巻物を載せた三方を捧げて、深々と一礼したあと、その巻物をひもどき、音吐朗々と朗読した。「教育勅語」だった。
その後,卒業するまで、この儀式は何度も繰返されたし、生徒たちはこの「勅語」を暗記させられた。私はすぐにこの「勅語」をおぼえた。

講堂正面の壁に、この小学校の卒業生で有名な軍人たちの写真が飾られていた。陸軍大将、山梨 勝乃進、海軍中将、斉藤 七五郎の大きな写真があった。とくに斉藤 七五郎は、貧困家庭に育ち朝な夕なに納豆売りをしながら刻苦勉励した立志の人という。日露戦争では、海軍少尉として聯合艦隊の東郷 平八郎元帥の「三笠」に搭乗した輝かしい戦歴をもっていた。
斉藤 七五郎がこの小学校で学んだ事は全校の誇りで、「斉藤 七五郎の歌」は、学校行事にかならず全校生徒が合唱するのだった。
軍国主義の気風がつよかった時代の小学1年生が、「斉藤 七五郎の歌」や「軍艦マーチ」を歌ったとしても咎められることはないだろう。
「斉藤 七五郎の歌」の作曲者は知らない。「軍艦マーチ」は、明治30年頃、横須賀海兵団の軍楽隊にいた準士官、瀬戸口 藤吉が作曲したもの。
この軍歌は、1945年の敗戦とともに忘れられたが、「戦後」パチンコ屋のテーマソンとして復活した。

1918〈少年時代 12〉

仙台は関東大震災の影響を受けたわけではなかったが、それでも古い町並みに少しずつ新築の家や、商店などが見られるようになった。連坊小路から、荒町にかけて、カラタチの新垣をめぐらせた新建ての家も見かけるようになっていた。

今は市電も廃止されて、小さな清水小路のように、江戸時代そのままに馬場のような空間がひろがっていたことは想像できない。マンションやビルなどの近代的な建築が立っていて、ほとほと往時を追懐するよすがもない。

私の住む家は、短い路地を抜けて、すぐに小さな広場になっていた。
近所の子どもたちの遊び場になった。
右隣りは、中村さんというミシン屋で、当時、ようやくひろまってきた家庭の主婦相手に蛇の眼ミシンの販売をはじめていた。ミシン専門の販売店は、仙台市内でもめずらしかった。
母はこの店からミシンを買った。(1945年3月、東京の下町が、アメリカ空軍の爆撃で壊滅したとき、気丈な母は、このミシンだけを毛布にくるんで猛火の中を逃げた。「戦後」、このミシンで、シャツや肌着を作って、闇市場で売りさばいて、一家の生活費を稼いだ。)

中村さんの家には、私より一歳年下の、アキコさんという女の子がいた。
政子ちゃんの次に仲良くなった女の子だった。

表通りに、江戸時代の裏店(うらだな)といった古い作りの糸屋があった。昼間でも薄暗い店で、零細な家業で、老夫婦が店を守っていたが、客が入っていることは見なかった。

この老夫婦には孫が二人いた。ひとりは、トシタカさんという。名うてのワルだった。高等小学校に進んだが、この近所では知らぬ者もいない不良だった。柔道の心得があって、この界隈の暴れ者だった。まるで、ゴリラのような歩きかたをしていた。
いつも一人で、この界隈の同年輩の不良を相手に喧嘩を吹ッかける。相手に怪我をさせる。警察沙汰も起こしたことがあって、子どもたちもおそれていた。どんよりした目で、見るからに凶暴な性格だった。
その弟は、タカシという名だったが、中学にすすんだ。ただし、これも不良少年のひとりで、子分が10人ばかりいた。
トシタカさんのような暴力的な不良ではなく、軟派というウワサだった。タカシさんは、いつも兄貴のトシタカさんを恐れていた。
ふたりの兄弟喧嘩を観たことがある。何が原因だったのか。タカシさんはトシタカさんに組みしかれて、たてつづけに殴られた。ほとばしる鼻血で、顔を真っ赤にしたタカシさんが泣きだすのをはじめて見た。
それからは、タカシさんはトシタカさんをおそれて、トシタカさんの姿を見たとたんに姿を消すようになった。

幼い私は、タカシさんのグループの仲間と遊んだ。
メンコ(私たちはパッタとよんでいた)の一枚や、ベエゴマ、エンピツをけずったり、消しゴムを切るときにつかう肥後守(ヒゴノカミ=コガタナ)など、どこにでもあるオモチャには、自分で生気をあたえなければならない度合いが大きければ大きいほど、その物体から受け取る生命感も大きくなると信じていた。それが幼年時代というものだろう。

子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだま。こうしたすべてを、私はタカシさんとそのグループからおしえられた。

私の家の左隣りは、佐藤さんという家だった。あとで知ったのだが、母親と二人でひっそりと暮らしていた。この子は、私と同歳だったが、学校を休んでいる佐藤くんと遊んだ。
佐藤君は、だれも遊び相手がいなかったらしい。皮膚病がひどかった。
この皮膚病が、どういう病気だったのか。全身にひどい発疹(ほっしん)が出て、それが血疹や、膿疱(のうほう)が出るようだった。いつも頭にぐるぐると包帯を巻いていたので、ほかの子どもたちはそばに寄らなかった。

佐藤君は小学校も休んでいた。いつも消毒薬の匂いがした。

私は、佐藤君と遊んだ。いつも頭に潰瘍が出て、白い包帯をグルグル巻きにしていたが、この吹き出もののカサブタが崩れて、血のまじったリンパ液がにじみ出していた。佐藤君は、子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなども知らなかったのではないか。

佐藤君の母親は、芸者あがりだったという。いっしょに遊んでくれる男の子が誰もいなかったので、私が遊びに行くと、いつもよろこんで、お菓子を暮れるのだった。
私はそのお菓子を食べなかった。佐藤君とおなじ病気になるのがいやだった。

そして、ある日、佐藤君母子はどこかに引っ越していった。

当時、満州事変がおきて、中国では、蒋 介石の政権が無力化しつつあった。中国の民族主義的な抗日運動と、それを阻止しようとしていた時期。
不況にあえぐ日本は,軍部の強硬な姿勢によって、急速な「準戦時体制」に編成替えが行われつつあった。
むろん、幼い私は何も知らない。

1917〈少年時代 11〉

青葉城の城下町、木無末無(きなしすえなし)という奇妙な名前の町に住んでいた私の一家は、やがて連坊小路(れんぼうこうじ)の近く、清水小路(しみずこうじ)の一戸建ての家に移った。

あたらしく移った清水小路の表通りには仙台駅から南西の長町まで市電が通っていた。市電の停留所、荒町と連坊小路のちょうど中間で、表通りから小さな路地に入ると、すぐに馬場のような空間がひろがっていた。どうしてそんな区画ができたのか知らないが、幕末までは下級の足軽長屋、厩、小さな馬場だったらしい。狭い路地を抜けると、巾着のようにかたちに馬場跡の原っぱがひろがって、奥の長屋の門につながっていた。

この原っぱが、子どもにとっての王国だった。幼い頃の遊び、鬼ごっこや隠れンボ、やがてケンダマ、メンコ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなど、そんな記憶に直接結びついている。

幼い私がいちばん最初に仲よしになった女の子がいた。村上 政子という名前で、未就学の私のはじめての遊び友だちだった。
父親は、当時、まだめずらしかったタクシー屋をやっていた。「村上タクシー」という大きな看板を出していたが、自動車は1台だけで日中はたいてい出払っていた。

ある日、政子ちゃんは、白い菊の花を握りしめて遊びにきた。
「今、よそのお庭で切っていたからもってきた」
といって、私にわたした。
こんなことにぶつかったのははじめてなので、どうしていいかわからず、家の前のセメントの上に載せておいた。
政子ちゃんは、そんな私を見ていたが、しばらくすると、
「なんかして遊ぼ」
こうして、私たちは遊び友だちになった。お侠(きやん)で活発で、私よりずっとハキハキした女の子だったが、おハジキ、お手玉といった女の子の遊びを色々教えてくれた。
政子ちゃんは私にとってはじめてのお友だちだった。
幼い私の内面に、女の子に対する親しみ(アフェクション)が生まれたとすれば、それは政子ちゃんに対する感情だったに違いない。

別の日、私がひとりでいると、家の近くで政子ちゃんが、ちょうど細い路地を向こうへ行くうしろ姿が見えた。いつもなら、かならず私に寄ってきて声をかけてくれるのにと思って、呼びとめたいような気もちでいっぱいになりながら、政子ちゃんの姿を見ていた。政子ちゃんはしょんぼりしている私に気がついて、すぐに足をとめて、
「あたい、病院に行くのよ」
といった。

その日から政子ちゃんは二度と私の前に姿を見せなくなった。

私は、毎日、「村上タクシー」の前で政子ちゃんが出てくるのを待っていた。しかし、政子ちゃんは出てこなかった。
やがて、私にも少しずつわかってきた。政子ちゃんの笑顔を見ることはもう二度とないのだ、と。それがわかったとき、私ははじめて、仲よしだった政子ちゃんがいなくなったことに、なにか空虚な感じが広がるのをおぼえた。

やがて「村上タクシー」がタクシー屋を廃業してどこかに引っ越して行った。

1916〈少年時代 10〉

バッタやイナゴ、トカゲ、カエル、ヘビ、アメンボ、ヒル、ミミズ、そうした自然界の生きものは、子どもの世界では、自分と対等のものと見なすか、どれもが超自然的なものと考えるようだった。私は馬が好きになった。

ある日、屈強な若者が数人、大八車に大きな臼を乗せて、町のどこかからやってきた。

威勢のいい掛け声をかけて、杵(きね)を振りあげて、黄色い餅をつく。つきあがった餅の固まりを長い紐の様に伸ばして、おおきな包丁で切りわける。
豆粒のような餅にきな粉をふって、すぐに竹串に刺す。
桃太郎のきびだんごと称して、一串、5厘(りん)ぐらいで売るのだった。

私は1銭銅貨をにぎりしめて大八車に駆け寄った。

桃太郎の話を母から聞いて育ったので、そのきびだんごなら食べないわけにいかない。

幼い胸に期待があった。

意外にも、味はまるっきりおいしいものではなかった。粟(あわ)と稗(ひえ)を蒸籠(せいろ)で蒸(ふ)かして、繋ぎに、もち米にわずかな砂糖をまぶしたものだった。

幼い私は、桃太郎がこんなものを家来のイヌ、サル、キジに与えたのだろうか、とうたがった。はじめて何かを疑うことを知ったといってよい。

やがて学校に通うようになって、子どもも考える。ゆえに、ときには存在する。

1915〈少年時代 9〉

木町末無(きまちすえなし)に住んでいた頃の思い出はほとんどない。

広瀬川に面した人通りは少なかった。ただ、すぐ近くのりっぱな武家屋敷の黒板塀と、その上を蔽って樹木の影が、往来のなかばを占めているようだった。その屋敷に、第二師団の参謀本部に勤務していた陸軍少佐が住んでいたことはおぼえている。

仙台は、第二師団が置かれて、軍国主義のさかんな土地だった。

毎朝、7時頃、下士官と馬匹係(ばひつがかり)の兵士、二、三名が、少佐を迎えにくる。少佐は乗馬したまま、第二師団の本部に出勤する。

夏になると、兵士が馬の行水(ぎょうずい)をすることもあった。私は馬の毛並みをととのえる儀式を見るのが好きだった。兵士のひとりが水道のホースで馬に水を当てる。ほかの兵士が雑巾で馬のからだを拭いてやる。馬は大きな黒い眼をさも心地よさそうに開いて、兵士にされるままになっている。兵士のひとりは、自分の持っている手綱を長く繰り出してやる。馬は鼻で荒く呼吸をして、たてがみを振って水を切るので、兵士も水滴を浴びるからだった。ときには、脈だった横腹から、湯気のような水蒸気が立ちあがる。
近所の人たちもときどきこの儀式を見物するのだった。

少佐の乗馬は朝早く行われたし、幼い私はこの時刻に起きられなかったことも多い。雨の日だったりすると出勤の儀式は見られなかった。

馬の準備を終えると、下士官が挙手の礼をとって、
「XX少佐殿、ただいまからXXいたします」
と報告する。
少佐が乗馬すると、馬上からこれもおなじように挙手の礼を返す。

幼い私は、ある日、下士官の動作をまねて敬礼をした。
すると、少佐は私を見て敬礼してくれた。

うれしかった。陸軍少佐が、幼い子どもの敬礼に挙手の礼を返してくれた。子どもながらにうれしかった。その日は一日じゅうはしゃぎまわっていたらしい。

ただし、幼い私が少佐殿に敬礼してもらったのは、このときだけだった。それからあと、少佐は、二度と、私に眼をくれることはなかった。
この敬礼のことは、あとあとまで記憶にのこったが、幼い心に別のことを教えた。幼い私は、いくら自分がのぞんでも叶えられないこともある、ということを知ったのではないか。

陸軍少佐殿は、子どもが心から尊敬をこめて挨拶しても、まったく受けつけてくれないものだ、という思いが心に刻みつけられた。こういう思いは、それからの幼児のまわりをしつこくうろついて離れなくなった。
子どもも考える。ゆえに、ときには存在する。

1914 〈少年時代 8〉

市電をとめてしまったこと以外はごく普通の幼年時代を過ごした。

満州事変か起きたのは、1931年9月だった。私は4歳。
当然ながら、この頃の思い出はない。

1934年、世界的な恐慌の余波を受けて、父の昌夫は失職した。
三日間、それこそ寝食を忘れてつぎの就職先をさがした。英文の速記が専門だったので、たまたま、外資系の石油会社の仙台支店に勤務するという条件で、オランダ系の「ロイヤル・ダッチ・シェル」に就職した。

このあたりの記憶は、かなり鮮明に残っている。

仙台駅に着いたとき、プラットフォームのあちこちに夜の暗さが溶けかかっていた。十人ばかりの乗客たちが、寒い季節にかがみ込むように通りすぎて行く。
機関車は、ようやく白みはじめた夜空に白い煙といっしょに細かい火の粉をふきあげている。橙色の灯に照らされている機関士の動かない横顔。
その乗客たちに若い娘たちが数人いた。娘たちは、東北の寒村から連れ出されて、どこか知らない土地に娼婦として売られていったに違いない。

父の昌夫は、仙台に赴任してすぐにすぐに貸家を探して歩きまわった。歩き疲れた私は、父の昌夫、母の宇免に手をひかれて、夕暮れの躑躅(つつじ)ガ丘公園に立った。そこから、仙台市内を見渡した。日没の近い空が赤く燃えていた。そのとき、なぜか、これから先に私たちを待っているものにおびえていたことを思い出す。

そして、木町末無(きまちすえなし)という奇妙な名前の町に住むことになった。
今はその町名もなくなっているが、伊達 政宗の居城の下にながれる広瀬川にのぞむ細長い町だった。
こうして幼い私は仙台で過ごすことになった。このことは私に、大きな影響をおよぼした。
まだ妹、純子は生まれていなかった。

仙台は、まだ封建的な気風がつよかった。
当時、仙台の人口、約17万5千人。
大不況が、さまざまな影響をおよぼしていた。アジアにおける日本の地位の比重が大きくなったため、日本の戦略的な地歩獲得の要求、中国の経済危機が深刻化したことも、父の昌夫の転職に影響をおよぼしていた、と(現在の)私は考える。

私たちは、満州事変が太平洋戦争へのきっかけになったことを知っている。
この戦争の要因として、軍部の暴走があったことも事実だが、当時の民衆が、政治に参加したことも大きな要因と考える。
中国は、日本の租借地からの即時撤退をもとめて、学生たちの不平等条約反対運動が、性急に発展していた。これに対して日本人が、つよく被害者意識をもったことも戦争機運に反映した。アメリカの排日移民法に反対する大衆運動や、アジア新秩序など、強硬な姿勢にあらわれている。

幼い私は、なぜか仙台という土地にすぐにはなじめなかった。

1913 〈少年時代 7〉

大森、入不斗(いりやまず)は、今では地名も残っていない。

路面電車が走っていたが、この界隈はさびれた町で、どこか遠くから市電の音が聞こえてくる。
自転車で売りにくる豆腐屋のラッパ、「いわしッこ、いわしッこ」とさびた声をあげるイワシ売りの声、近くの小さな町工場からいつも規則的に聞こえてきた機械の低い音、近くの酒場から、すりきれたようなレコードの音楽が聞こえてくる。ながく曳くポンポン蒸気の汽笛。
私はそんな町で生まれたらしい。

赤ンぼうの私は暗い廊下を這いずりながら犬のあとを追いかけていた。犬といっしょに遊んでいたり、ころげまわったり、ときには犬の食べ残したぶっかけ飯を手でベシャベシャやっていたという。

やがて、少し歩けるようになってからだが、幼児は家から外に出た。すぐ近くに市電(ボギー車)がとおっていて、幼児はレールの間にすわっていた。
それに気がついた運転手が急ブレーキをかけて、電車をとめた。いそいで外に走って、レールの間にいた子どもを抱きあげて、
「この子の親は、どこにいる! 出てこい!」と怒鳴った。

昼寝をしていた宇免も、あわてて外に飛び出すと、怒り狂った運転手が、
「轢かれたら、どうするんだ!」
と罵った。
宇免は、運転手の腕から私をひったくって、抱きしめたまま、その場に立ちつくして運転手には平謝りに謝った。

この椿事も私は知らない。母は一度も口にしたことがなかった。

ずっと後年になって、叔父(宇免の異父弟)の西浦 勝三郎からこの話を聞かされたが、私は母の不注意を責める気にならなかった。ただ、この電車に轢かれたら私は生きていなかったのだという思いはあった。

この話を知ったときから、死はいつも私の隣りにいるという思いが生まれた。いつ自分が死ぬかも知れない。こういう思いが離れなくなったのは、これがはじめてだったと思う。それは、死という現象があるかぎり、サンパティックであろうとなかろうと、私にとって大きな意味をもつようになった。

1913〈少年時代 6〉

アンドレ・マルローは語っている。

「私の知っているたいていの作家たちは、ほとんどがその少年期をなつかしんでいる。私は自分の少年期を憎んでいる。自分を育てるといったことが私にはほとんどなかったし、得意でもなかった。自己形成ということが、生と呼ばれるこの道のない旅の宿に甘んじることだとすれば」と。

私は少年期をなつかしむひとり。というのも、私が人生を知りはじめた頃に出合った人々のことをなつかしむ思いがある。
ただ、たいていの作家たちが、自分の生きてきた時代をなつかしむのは、それによって誰かに語るべきことを多くもっているからにちがいない。自己形成というほどのことではない。つまり、自分の少年期を憎んだことはない。

簡単に両親のことを説明しておこう。
父、昌夫は、大正12年の関東大震災で罹災した。
東京全市は、この日から収拾のつかない混乱状態に襲われる。劫火に家を焼かれた数百万の人々は、濛々(もうもう)たる煙塵(えんじん)の中を右往左往にさまよい歩き、さまざまな流言蜚語(りゅうげんひご)は、頻々たる余震とともに、飢え渇え(かつえ)、悲しみに傷ついた人々の心を、さらにはげしい恐怖におののかせた。
昌夫は、東京の本郷から徒歩で横浜まで避難したが、横浜も被害は大きく、親族の無事を見届けただけで東京に引き返した。
その途中で、たまたま大森で炭屋をやっていた西浦 あい(私の祖母)に出会ったが、あいは、罹災した昌夫に同情してささやかな食事をとらせた。そして間借りというかたちで下宿させることにした。この炭屋の娘が西浦 宇免だった。

貧しい家庭でそだった宇免は、小学校を卒業してから、大森の素封家の家で、女中(今でいうお手伝いさん)として働いていた。(当時、子守り女だった宇免をモデルに、後に有名になる画家が描いている。)

昌夫と宇免は、大正15年9月に結婚している。昌夫は、当時、電信技手としてフランス系の商事会社に勤めていた。
宇免はやっと17歳。
新婚のふたりは、東京府荏原郡大井町に住んだ。現在の大田区大森である。

結婚して間もなく女児を出産した。幸代(さちよ)という。
宇免は乳の出がわるく、近所のおばさんから貰い乳をしたが、幸代はまもなく死亡した。疫痢(えきり)だったという。

翌年、昭和2年11月に、大森の入不斗(いりやまず)で、中田 耕治が生まれている。

1912 〈少年時代 5〉

たとえば 幼年時代、少年時代に出会った人びと。

そのほとんどがもはや記憶に薄れている。

しかし、その人たちのことを思い出しているうちに、あらためて自分が過ごしてきた時代がどういうものだったか、そんなことを考えるようになった。

私の人生は、それなりに変化があったし、ほんの少しにせよ本人にとって興味のあることはあった。今にして思えば、私の生きてきた時代、あるいは環境に大きく影響されてきたといってよい。
コロナ禍という想像もしなかった事態のさなかに、幼かった自分のことを思い出すというのは、なんとも悠長な話だが、これも老いさらばえた身なればやむを得ない。何もしないよりは、もはや記憶が薄れて、日頃、考えもしなかったことを思い出すほうがいい。

たった数分の時間、私は自分の心にうかぶ幼い頃の私の記憶、とりとめもない思い出を書くためだけに生きているようなものだった。その時間はコロナ禍のことも気にならなくなった。
わずか10分から30分の時間でよかった。それでも、私はこの時間のうちに、世間の人の24時間分以上の、生きがいを感じたのだった。

とりとめもない思い出ばかり。誰も読んでくれないかも知れない。それでいいのだ。

1911 〈少年時代 4

コロナのおかげで――暇ができた。
これまで時間がなくて放置していた書きかけの原稿を整理したり、焼き捨てたり。
これまで考えたこともないことをじっくり考えたり。

それにしても、コリン・バレット、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル、あるいは、ショーン・タンといった作家たちは、今の今、コロナの蔓延のさなかにどういう小説を書いているのだろうか。そういう、まことに素朴な設問が心にうかんできた。

こういう設問自体が、ひどく単純なことではないか、という気がした。
アメリカ人、アイスランド人、フランス人、日本人、オーストラリア人、おそろしく単純なことなんだ。文学なんて。コロナも。

思わず苦笑した。その笑いのなかには、いろいろな病気で明日にもくたばりそうな老人が、最後の最後になってこんな単純なことに気がついたという、阿呆らしさを笑うことも含まれている。しかし、自嘲をふくめてこういう笑いを笑う自分が楽しかった。

さて、もう少し何か書いてみるか。もとより田舍翁(でんしゃおう)のTedious Talk にすぎないけれど。

タイトルは田舎翁目耕記としようと思ったが、あえて反時代的なタイトルでもあるまい。ならば田舎翁妄語ぐらいでもいいと思って書くことにしよう。

1910 〈少年時代 3〉

コロナ禍のさなかに、まるっきりの病人で、歩行困難ときた。
ざまァねえや。

つい 少し前までは、私のまわりに才能にあふれた才女たちがいつもむらがっていた。そのほとんどが、私のクラスで勉強をつづけて、その後も私の「文学講座」を聞いてくれた人々だった。コロナ禍のおかげで親しい友人、知人たちと語りあうこともなくなった。思わぬ入院で外部と接触することがなくなった結果、田舎翁(でんしゃおう)としては彼女たちと会うこともなくなった。
かつてはお互いにあれほど緊密だった絆が破れ、30年におよぶ歳月につちかわれた友情やアンチミテ(親しさ)がはかなくも崩れてしまったといってよい。

私にとって最悪のパンデミックだった。

図書館もやっていないし、馴染みの古書店もつぎつぎに廃業した。新刊書を読むこともなくなった。

それでも、親しい友人、知人たちが贈ってくれたエッセイ集、とくに岸本 佐知子の「死ぬまでに行きたい海」や、ショーン・タンの翻訳。
翻訳では、田栗 美奈子が訳したアイルランドの作家、コリン・バレットの「ヤングスキンズ」や、神崎 朗子が訳したアイスランドの女流作家、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルの「花の子ども」や、光野 多恵子訳、ローレン・グロフの「丸い地球のどこかの曲がり角で」など、コロナ禍のさなかに何度も読み直した。

ひとりの作家の本をくり返して読む。これまでにない習慣になった。
すごい作家ばかり。

ふと、自分がなぜ「もの書き」になったのか考える。むろん、私は、こうした作家たちのようにゆたかな才能に恵まれていたわけではない。そもそも比較などできるほどの「もの書き」ではない。
そこのところは棚に置いて――目耕の日々をすごした。すぐれた作品を何度も読み返すうちに、あらためて文学作品のありがたさを感じながら、いつも何かを考えつづけてきた。

1909 〈少年時代 2〉

そんな日々をのんびりとすごしていた、といえば誤りだろう。むしろ、毎日々々、がっくりと老いゆくことに呆然としていた。コロナ禍のなかで、ふてくされた老人として、退屈な人生を過ごしていたといったほうがいい。

たまたま私はこの春に体調をくずしたため、しばらく入院した。折りしも変異ウイルスの襲来がつづいて重症患者に対応する医療システムまでが対応しきれない事態になっていた。
この5月、あたかも東京、神奈川、埼玉、千葉などに蔓莚阻止の「緊急事態宣言」が出た時期だったが、コロナ/新型ウイルスとは何の関係もない病気だったので、10日ばかりで退院した。

見るかげもない老人になり果てて、膝や関節の痛みに呻吟することになった。
外出自粛といえば聞こえはいいが、毎日をひたすら無為、怠惰にすごした。ブログを書く気にならなかった。

1908 〈少年時代 1〉

2021年5月、コロナ・ウイルス、いまだ艾安(がいあん)におよばず。新型コロナウイルス・パンデミックが世界的に流行している。
つい年前には誰も予想しなかった社会の激変が現実のものとして、いまや私たちの前に立ちはだかっている。

アメリカは、ロシアのサイバー攻撃にさらされている。
ブラジルは、コロナ・ウイルスの感染拡大にボルソナロ大統領が窮地に立たされている。あまつさえ、ミャンマーの国軍のクーデターで、国内戦の様相を呈している。中東では、イスラエルとパレスチナのガザ紛争が、イスラエルの報復空爆と、パレスチナの反撃を惹き起している。イランは、ハメネイの下で、大統領の後任をめぐってはげしい政争が起きている。そのイランの「革命防衛隊」が、アメリカの「コースト・ガード」に異常接近したため、威嚇射撃を行った。ペルシャ湾でも、アメリカ軍はイラン艦艇に対して警告射撃を行っている。

こういう時代にどう対処すべきか、とか、かくあるべきだという言説が輻輳している。
いずれもただしい意見と思われるが、いつしかそうした言説を押しつけられることに息苦しさをおぼえるようになった。

後世の歴史家はこういう事態をどう見るだろうか。

1907

「ヘンリー・ミラーとの対話」

アナイス・ニンとは手紙のやりとりがあったが、私から何かについて質問をすることはなかった。むしろ、アナイス・ニンが、私にいろいろなことを訊いてくるので、返事を書いたといったほうがいい。
外国の作家に、手紙で何か質問をしようなどと考えたことはない。

その私が、ヘンリー・ミラーに短い質問を送ったことがある。以下に、その質問と応答を掲載する。

 

  中田 耕治 :伺ってみたいことすべてを、ここに書きだすと、厚い一冊の本になってしまいそうなので、その中から、つぎの二つだけを選んで、お聞きしたいと思います。

質問A :二番目の夫人になられたジューン・イーディス・スミスと、出会ったとき、ファンム・ファタール的な女性に魅力をかんじていらっしゃったのでしょうか? 私には――あなたは、ずっと、自分の内的世界を探究し、それを見いだすと、その探索に務められていたように思われます。その世界に、運命の女性が住んでいることを知っていらっしゃったのでしょうか? アイーシャヘのなみなみならぬ関心は、ファンム・ファタールに、あなたが、強力な磁力、魅力を感じられるからでしょうか?

ヘンリー・ミラー :そう、そう、その通り。ファンム・ファタールだよ。ジューンに出会う前からね。だが、ちょっと待ってくれ。私の内的世界だって? いや、おれはそんなに自分について、自分の内面の世界について、知ろうとしていたとはおもわないね。そういうのには賛同しないんだ。たとえば、自己分析とかいうやつには、生涯ずっと反対だったな。何であれ、分析というものは嫌いでね。プロにやってもらっても。自分でやるのも嫌いでね。私にいわせれば、その結果はまったく意味をなさないナンセンス、あるいは混乱に行き着くだけだ。自分が誰か、何者か、なんてことは見極めなくともいい。あるがままの自分を受け入れればいい。だいたい、自分が何者か、なんてことが誰にわかるんだ? 創造主にさえ、わからないだろう。私はそう思う。すべてのものが、すべての人間が、生き物が、シラミもノミも、どんな動物もが、神にとってさえ不可思議な存在なんだと思う。私にとっては、すべてがミステリーさ。
だから、わからない。なぜ、ファンム・ファタールに惹きつけられるのか説明はできないね。感情があるだけだよ。どんな説明も真実ではないし、根拠も希薄だよ。この宇宙には説明できるものなど何一つない。完全なるミステリーさ。創造主にとってさえもね。(笑) 何故か? 智慧ある創造主なら、この地球のような世界を創造しなかっただろうからね。
アイーシャって、あの素晴らしい小説「彼女」のなかのアイーシャのことか?
ああ、読んだとも。私に大きな影響を与えた本だよ。いま、ビッグ・サーに住んでいる私の娘が女性作家の作品を読みあさっていてね、たとえば、マリー・コレリだが、彼女は私がいちばん愛読している女性作家だよ。アナイス・ニンは、この作家をくだらないとバカにしていたが、マリーはヴィクトリア女王の大のお気に入りの作家だった。たしかに、若い頃の私はああいうタイプの女に影響をうけた。そう、あのタイプだね。これからも、ずっとファンム・ファタールだよ。

質問B :ちょっとおかしな質問ですが、輪廻転生ということを信じておいででしょうか? 仏教的な意味でも、ヘラクレイトス的万物転生という意味でも。あなたご自身の死後の転生を、あるいは、ふたたび生まれることを信じていらっしゃいますか?

ヘンリー・ミラー :私は、一生かけて、何かを信じることができるかどうか見極めようとしてきた。だが、信じることはできない。信じてはいけないのだ。信念は持つべきだが、信仰は無用だ。この両者には、微妙な違いがある。信念はある。すべてを、真っ向から受け入れる。だが、信仰はもたない。輪廻転生については何も知らない。いや、知っている。いろいろと話は聞いている。しかし、それについて、私が語ることはない。真実かどうか考えてもわからない。

中田 耕治 :死後、ご自身がどうなるのか、考えたことはおありですか?

ヘンリー・ミラー :死後のことは一切わからない。きみが訊きたい気もちはわかるけれどね。私は、そんなことは考えようとは思わない。バカげているよ、そんなことは。

 

この質疑応答は、ある雑誌に掲載された。折角の機会だったのに、くだらないことしか質問できなかった。しかし、ヘンリー・ミラーが答えてくれたことはうれしかった。
現在の私が、おなじような質問をうけたら、ヘンリー・ミラーと同じように答えるだろうと思う。

その後、ヘンリー・ミラーは日本に行きたいと思ったらしい。しかし、高齢のため、訪日を断念した。

 

 

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画像:wikipedia ヘンリー・ミラー より

1906

これまでの恐竜は、ゴツゴツした鱗に覆われていたが、最近は、色彩ゆたかな羽毛に覆われた「恐竜」が描かれるようになった。むろん、理由はある。

1996年、中国で、羽毛のある「中華竜鳥」が発見された。さらに、2003年には有翼恐竜「ミクロラブトル」の化石も発掘された。こうなると、「始祖鳥」も、これまでの「始祖鳥」の栄光を失って、ただ、空飛ぶ恐竜の一種に陥落する。大関から十両に落ちて、うかうかすると、幕下におちるかも。

さすがに、ティラノサウルス・レックスは横綱だね。最近は、祖先が有翼恐竜だったと推測されて、背中やシッポは羽毛だったらしいという。そうなると、やはり、幕内とは違って絢爛たる土俵入りを見せていたと想像する。

肉食恐竜のうち、鳥盤類に属する「ブシッタコサウルス」のシッポや「クリンダドロメウス」の胴体にも羽毛が確認された。こういうのは、さしづめ関脇か小結あたりだな、きっと。

その色も、「中華竜鳥」や「アンキオルニス」などは、全身の色がわかったという。

テレビで見たのだが――ダチョウ型恐竜「デイノケイルス」は、アタマや前肢に、赤い飾りをつけたピンクの羽毛で登場している。
スティーヴン・スピルバーグの映画に出てくる恐竜のように、だいたいがグレイ、よくいって、黄土色、それにきたならしいグリーンのまざった程度の恐竜ばかり見てきたので、驚いた。

私としては、赤、グリーン、黄色、バープル、なんでもいい。まさか、純白というわけにはいかないだろうから、白、茶色、黄色、焦茶色、オークル、そんな色の恐竜がいてもいい。

いつか、月をめぐって宇宙戦争が起きる可能性がある。世界最終戦争が。
恐竜が死滅したように、いずれ人類もそのうちに死滅するかも知れない。(笑)

1905

この恐竜の絶滅から、まるで別のことを連想する。

「アルテミス合意」について、書きとめておく気になった。(2020年10月13日)

「アルテミス計画」は、24年までに、宇宙飛行士をふたたび月面に送る計画。これに参加・協力する8カ国(アメリカ、日本、カナダ、イギリス、イタリア、オーストラリア、ルクセンブルグ、アラブ首長国連邦)が、「合意」に署名した。
NASA(アメリカ航空宇宙局)長官、ジェームズ・ブライデンスタインは、「アルテミス計画」は「歴史上、もっとも多様な国際宇宙探査連合になる」と語った。

この合意は、13項目。
宇宙の平和利用の原則のもと、月面で採取した水や鉱物などの資源を所有・利用することを容認する。科学的なデータの共有など、探査活動中のルールをきめた。

それにしても、私はすごい時代に生まれあわせたものだ。

私は、近い将来、人類が月面で生活できるようになると確信しているが、当然、領有権をめぐって紛争が起きるのではないかと危惧している。

げんに、中国は月の裏側の観測に着手しているし、アメリカは、陸海空の三軍とは別に宇宙軍を創設している。
この「合意」が、ロシア、中国を排除しているのは当然だが、EUの各国が参加していないことに不安をおぼえる。

こんなとき、私は、にやにやしながら、映画監督のチャン・イーモーの言葉を思い出す。

地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
人類の歴史なんて短いものさ。
恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、
取るに足らないことさ。

ついでに説明しておこう。
2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
チャン・ツィイーの母親役に、香港の大スター、梅 艶芳(アニタ・ムイ)を起用する予定だった。しかし、この時期、アニタ・ムイは重病に倒れた。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
監督の希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。

私は、コロナ・ウイルスの深刻な災厄のさなか、ときどきこのことばを思いうかべた。
チャン・イーモーは、私に元気をくれたひとり。

1904

コロナ・ウイルスが、現実に脅威として出現している時代に、その「現在」とはまるでかけ離れたことにやたらに関心がある。あらためて恐竜絶滅に興味をもったのも、私の「現実逃避」(エスケーピズム)かも。

恐竜が絶滅したのは、メキシコのユカタン半島に巨大な隕石が落下したことが原因という説を実証したのは、世界12カ国の研究機関の研究チームで、日本からは東北大学のチームが参加していた。これだけで、東北大学を尊敬するようになった。
この研究は、地質学、古生物学、惑星科学といった分野で細分化されていた議論を集約したものだった。
このチームの計算では――直径約10~15キロの隕石が、秒速20キロのスピードでユカタン半島の地表に激突した。そのエネルギーは、ヒロシマ型の原爆の約10億倍。

この衝突で大気中に塵埃が拡散した。太陽光が遮断され、食物が減少して、恐竜も絶滅した、という。
これは、2010年3月5日に報じられている。

わずか、数年前まで、メキシコの火山噴火原因説は、火山活動が弱かったことから、影響は少ないとされていた(はず)である。
ところが今回の研究では――巨大隕石の衝突にくわえて、インドで大規模な火山の噴火が発生したことが、恐竜絶滅の遠因という。

笑った。話がたった5万年だからねえ。

1903

たしか、以前にブログに書いたはずだが、しばらく前に、恐竜絶滅という天変地異についてあたらしい仮説があらわれた。こういうニューズが好きなので、お浚いしておく。

約6550万年前。

白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下した。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅したらしい。
この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.)

こういうニューズが好きなのである。

このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立方メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

国際研究チームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。いいなあ。たった5万年かあ。