1919〈少年時代 13〉

1934年(昭和8年)4月、小学校にはじめて入学した日のことはよくおぼえている。母親につれられて仙台市立荒町尋常小学校の校門に入ったとき、桜が満開だった。いまでも桜を見ると、母の宇免(うめ)に手を引かれて、ゆるやかな坂を下りて校舎にはいって行った日のときめきがよみがえる。

宇免は、20代の半ば、肌が白く、目元がすずしいのでちょっと人目につく顔だちだった。美人ではなかったが、若い母親だっただけに、小学校の先生たちも関心をもったようだった。宇免は、父兄会(戦後のPTA)の集まりに、洋装で出席することがあって、ほかの母親たち、若い先生たちも好奇の眼を向けたようだった。
ほかの生徒の母親は、いつも地味な和服だった。

私は宇免が若い母親だったことがうれしかった。

入学式は講堂で行われた。校長は、横山 文六先生。小柄で、でっぷり肥満身体の校長先生は、フロックコートに白手袋という正装で、恭しく巻物を載せた三方を捧げて、深々と一礼したあと、その巻物をひもどき、音吐朗々と朗読した。「教育勅語」だった。
その後,卒業するまで、この儀式は何度も繰返されたし、生徒たちはこの「勅語」を暗記させられた。私はすぐにこの「勅語」をおぼえた。

講堂正面の壁に、この小学校の卒業生で有名な軍人たちの写真が飾られていた。陸軍大将、山梨 勝乃進、海軍中将、斉藤 七五郎の大きな写真があった。とくに斉藤 七五郎は、貧困家庭に育ち朝な夕なに納豆売りをしながら刻苦勉励した立志の人という。日露戦争では、海軍少尉として聯合艦隊の東郷 平八郎元帥の「三笠」に搭乗した輝かしい戦歴をもっていた。
斉藤 七五郎がこの小学校で学んだ事は全校の誇りで、「斉藤 七五郎の歌」は、学校行事にかならず全校生徒が合唱するのだった。
軍国主義の気風がつよかった時代の小学1年生が、「斉藤 七五郎の歌」や「軍艦マーチ」を歌ったとしても咎められることはないだろう。
「斉藤 七五郎の歌」の作曲者は知らない。「軍艦マーチ」は、明治30年頃、横須賀海兵団の軍楽隊にいた準士官、瀬戸口 藤吉が作曲したもの。
この軍歌は、1945年の敗戦とともに忘れられたが、「戦後」パチンコ屋のテーマソンとして復活した。