1920〈少年時代 14〉

私のクラスの担任は、佐藤 実(みのる)先生だった。
口ひげをたくわえた先生だったことをおぼえているが、国語教科書の最初の授業で、教科書の、いちばん最初に出てくる「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を朗読したのは私だった。

私は標準語だったが、父方の祖母(昌夫の母)、里勢(りせ)は、生涯、江戸弁で通していた。伝法で、いなせな江戸弁と、私の下町ことばとはまるで違っていた。それでも、私のことばは綺麗に聞こえたのかも知れない。

小学1年生の私がはじめておぼえた唱歌は、〔さくら〕と〔蝶々〕の歌だった。

てふてふ(蝶々) てふてふ(蝶々) 菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら さくら(桜)にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよ あそべ あそべよ とまれ

現在の私は、明治14年頃、愛知県の師範学校の校長先生だった伊沢 修二が、教員の野村 秋足に作詞させた曲で、モトネタはアメリカのカレッジソングだったことを知っている。それはともかく、(蝶々)の歌が私の知ったはじめての西洋音楽だった。

幼い私には、蝶々が、なぜ〔てふてふ〕と表記されるのか、不思議だった。
このあたりから、私は国語についてぼんやり考えはじめたような気がする。