1921〈少年時代 15〉

私は、クラスでいちばんチビだった。私がチビだったことには、遺伝的な原因があるだろう。父、昌夫がひどく身長が低かった。さらに、昌夫の実母、理勢(りせ)が、身長が低かった。その遺伝子が私につたえられたものと思われる。

私のクラスにかぎらず、当時の小学生は、身長の高低で席がきめられた。クラスで私よりチビだった生徒は、ほんの2、3人で、毎年、最前列の席にすわらせられた。

私のクラスの子どもたちは、全員、丸坊主だった。
そのなかで、私ひとりは女の子のオカッパのように髪を伸ばしていた。こういうヘア・スタイルをなんと呼ぶのか知らないが、仙台弁ではパッサだった。
もう一つ、私が目立ったのは別の要因があった。
生徒たちみんなが「小倉」という生地の黒い制服を着ていたのに、私ひとりはやや青味を帯びた「サージ」の制服を着ていたこと。

昭和初期、仙台にかぎらず、「サージ」の学生服を着ていた小学生は少なかったに違いない。
これも今の人たちには説明が必要かも知れない。「サージ」は梳毛糸(そもうし)をもちいて、綾織にした服地。和服地のセルとおなじ。
「小倉」は、木綿の生地で、学生服や労働者が着ていた。もとは、九州・小倉で織られたもので、帯や袴に使われたらしい。学生服は、ほとんどが黒の木綿の生地で作られていた。
隣りのクラスにいた裕福な家庭の子どもたちが2、3人、私とおなじ「サージ」の学生服を着ていた。

東京の山手そだちの子どもなら、オカッパに「サージ」というスタイルもめずらしくなかったが、地方都市の仙台では、かなりめずらしかったはずである。