1910 〈少年時代 3〉

コロナ禍のさなかに、まるっきりの病人で、歩行困難ときた。
ざまァねえや。

つい 少し前までは、私のまわりに才能にあふれた才女たちがいつもむらがっていた。そのほとんどが、私のクラスで勉強をつづけて、その後も私の「文学講座」を聞いてくれた人々だった。コロナ禍のおかげで親しい友人、知人たちと語りあうこともなくなった。思わぬ入院で外部と接触することがなくなった結果、田舎翁(でんしゃおう)としては彼女たちと会うこともなくなった。
かつてはお互いにあれほど緊密だった絆が破れ、30年におよぶ歳月につちかわれた友情やアンチミテ(親しさ)がはかなくも崩れてしまったといってよい。

私にとって最悪のパンデミックだった。

図書館もやっていないし、馴染みの古書店もつぎつぎに廃業した。新刊書を読むこともなくなった。

それでも、親しい友人、知人たちが贈ってくれたエッセイ集、とくに岸本 佐知子の「死ぬまでに行きたい海」や、ショーン・タンの翻訳。
翻訳では、田栗 美奈子が訳したアイルランドの作家、コリン・バレットの「ヤングスキンズ」や、神崎 朗子が訳したアイスランドの女流作家、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルの「花の子ども」や、光野 多恵子訳、ローレン・グロフの「丸い地球のどこかの曲がり角で」など、コロナ禍のさなかに何度も読み直した。

ひとりの作家の本をくり返して読む。これまでにない習慣になった。
すごい作家ばかり。

ふと、自分がなぜ「もの書き」になったのか考える。むろん、私は、こうした作家たちのようにゆたかな才能に恵まれていたわけではない。そもそも比較などできるほどの「もの書き」ではない。
そこのところは棚に置いて――目耕の日々をすごした。すぐれた作品を何度も読み返すうちに、あらためて文学作品のありがたさを感じながら、いつも何かを考えつづけてきた。