1913〈少年時代 6〉

アンドレ・マルローは語っている。

「私の知っているたいていの作家たちは、ほとんどがその少年期をなつかしんでいる。私は自分の少年期を憎んでいる。自分を育てるといったことが私にはほとんどなかったし、得意でもなかった。自己形成ということが、生と呼ばれるこの道のない旅の宿に甘んじることだとすれば」と。

私は少年期をなつかしむひとり。というのも、私が人生を知りはじめた頃に出合った人々のことをなつかしむ思いがある。
ただ、たいていの作家たちが、自分の生きてきた時代をなつかしむのは、それによって誰かに語るべきことを多くもっているからにちがいない。自己形成というほどのことではない。つまり、自分の少年期を憎んだことはない。

簡単に両親のことを説明しておこう。
父、昌夫は、大正12年の関東大震災で罹災した。
東京全市は、この日から収拾のつかない混乱状態に襲われる。劫火に家を焼かれた数百万の人々は、濛々(もうもう)たる煙塵(えんじん)の中を右往左往にさまよい歩き、さまざまな流言蜚語(りゅうげんひご)は、頻々たる余震とともに、飢え渇え(かつえ)、悲しみに傷ついた人々の心を、さらにはげしい恐怖におののかせた。
昌夫は、東京の本郷から徒歩で横浜まで避難したが、横浜も被害は大きく、親族の無事を見届けただけで東京に引き返した。
その途中で、たまたま大森で炭屋をやっていた西浦 あい(私の祖母)に出会ったが、あいは、罹災した昌夫に同情してささやかな食事をとらせた。そして間借りというかたちで下宿させることにした。この炭屋の娘が西浦 宇免だった。

貧しい家庭でそだった宇免は、小学校を卒業してから、大森の素封家の家で、女中(今でいうお手伝いさん)として働いていた。(当時、子守り女だった宇免をモデルに、後に有名になる画家が描いている。)

昌夫と宇免は、大正15年9月に結婚している。昌夫は、当時、電信技手としてフランス系の商事会社に勤めていた。
宇免はやっと17歳。
新婚のふたりは、東京府荏原郡大井町に住んだ。現在の大田区大森である。

結婚して間もなく女児を出産した。幸代(さちよ)という。
宇免は乳の出がわるく、近所のおばさんから貰い乳をしたが、幸代はまもなく死亡した。疫痢(えきり)だったという。

翌年、昭和2年11月に、大森の入不斗(いりやまず)で、中田 耕治が生まれている。