1913 〈少年時代 7〉

大森、入不斗(いりやまず)は、今では地名も残っていない。

路面電車が走っていたが、この界隈はさびれた町で、どこか遠くから市電の音が聞こえてくる。
自転車で売りにくる豆腐屋のラッパ、「いわしッこ、いわしッこ」とさびた声をあげるイワシ売りの声、近くの小さな町工場からいつも規則的に聞こえてきた機械の低い音、近くの酒場から、すりきれたようなレコードの音楽が聞こえてくる。ながく曳くポンポン蒸気の汽笛。
私はそんな町で生まれたらしい。

赤ンぼうの私は暗い廊下を這いずりながら犬のあとを追いかけていた。犬といっしょに遊んでいたり、ころげまわったり、ときには犬の食べ残したぶっかけ飯を手でベシャベシャやっていたという。

やがて、少し歩けるようになってからだが、幼児は家から外に出た。すぐ近くに市電(ボギー車)がとおっていて、幼児はレールの間にすわっていた。
それに気がついた運転手が急ブレーキをかけて、電車をとめた。いそいで外に走って、レールの間にいた子どもを抱きあげて、
「この子の親は、どこにいる! 出てこい!」と怒鳴った。

昼寝をしていた宇免も、あわてて外に飛び出すと、怒り狂った運転手が、
「轢かれたら、どうするんだ!」
と罵った。
宇免は、運転手の腕から私をひったくって、抱きしめたまま、その場に立ちつくして運転手には平謝りに謝った。

この椿事も私は知らない。母は一度も口にしたことがなかった。

ずっと後年になって、叔父(宇免の異父弟)の西浦 勝三郎からこの話を聞かされたが、私は母の不注意を責める気にならなかった。ただ、この電車に轢かれたら私は生きていなかったのだという思いはあった。

この話を知ったときから、死はいつも私の隣りにいるという思いが生まれた。いつ自分が死ぬかも知れない。こういう思いが離れなくなったのは、これがはじめてだったと思う。それは、死という現象があるかぎり、サンパティックであろうとなかろうと、私にとって大きな意味をもつようになった。