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■ 弔辞 |
Date: 2005-08-29 (Mon) |
竹内紀吉君
こうして君の柩の前で、友人として最後のことばを捧げようとしながら、いまの私にはことばが出てこない。ただ途方にくれるばかりなのだ。
きみの病床を見舞った日、別れてすぐに、きみが亡くなったと知らされた。なぜ臨終に立ち会ってやれなかったのか。自責に似た思いと深い悲しみがごうごうと胸を吹き荒れて、私はただ佇ちつくしていた。
きみは私がもっとも心を開くことのできた友人だった。いまも在りし日のきみの姿がつぎつぎに心をかすめてゆく。お互いにいろいろな時、いろいろなかたちでかかわりあってきた。会えば酒を酌みかわし慇懃を通じたが、きみと語りあうときの心のときめきや昂り、お互いの親しみは私から消え去ることはない。
さまざまな季節があった。
きみのおかげで、それまで知らなかったいろいろな人たちの仕事に眼をむけるようになったが、きみはけっして他人を貶めたり、そしったりすることがなかった。
私たちは長きにわたって、小さな文学賞の審査をつづけてきたが、未熟な作品にきびしい批評を下すことはあっても、その書き手の可能性をいつも探そうとしていた。
私はそういうきみに共感してきたし、きみの姿勢を尊敬してきたのだった。
きみを語るとき、図書館をぬきにしては語れない。浦安に近代的な図書館を作ったことだけでも、きみの業績の輝かしさがわかる。
図書館を作ることは行政の業績ではない。市民たちが本に親しむ場所を作る、それは一つの理念に違いないが、竹内君はもっと大きく、出版文化を守ろうとしていた。
このことは、きみの熟慮と、果敢な実行のあいだに人知れぬ苦心があったことを物語っている。
あとになって、竹内君の名をあげずに、あたかも自分が浦安の図書館を計画し、実際に建設したかのように装う低劣な人物があらわれたが、私たちは竹内君が図書館を愛し、図書館学において第一級の力量と見識をもった人物だったことを知っている。
きょう、きみと別れなければならない。外は風雨がはげしい。
明日になれば――私たちは感じるのだ。秋はもうこんなにも深まっているのだろうか、と。
そして私たちは、これからも、きみを失ったという思いに胸をしめつけられるだろう。しかし、きみを思うとき、あれこれをあげつらったことどもよりも、きみからすべてを、しっかりとうけとったありがたさが残るだろう。
さようなら、竹内君。
二〇〇五年八月二十五日
中田耕治
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