いろいろな機会にいろいろな場所で教えてきた。その一つに翻訳を教える仕事があった。
作家や芝居の世界はやはり特殊なもので、私たちの人生を継続的に作りあげてゆく専門家のすべてとおなじように、創作方法なり俳優術といった固有の持続の上に成り立っている。翻訳という仕事にそんなものがあるのだろうか。
私は考えた。語学ならまだしも翻訳は教えられるものなのか。語学さえできれば誰でも翻訳という仕事ができるだろうか。そんなことはない。
そこでまた考えた。めいめいが翻訳家になる準備をすればいい。私のクラスで、誰もが自分の未来をかたち作っていく。めいめいがもっとあとになって考えるはずの本質についてしっかり準備すればいい。
私は、いつもそのテキストを身近なものとして、ひたすら作中人物に寄り添って読むことを求めた。
作品を身近なものとして読むということは、一語一語を忠実に訳すというのではない。自分の掌で一語一語の重みをたしかめるように読むこと。そうすれば読み終えたとき、その作品がまるで自分のために書かれたように思えてくる。
私が選ぶテキストは有名な作家のものに限らない。パルプ・フィクションも読む。不潔で、ひどい異臭のただよう裏町。薄汚れた褐色の建物。貧困にねざした暴力が、道路の両側にひしめきあっている。そんな界隈を背景にした小説。とにかく手あたり次第、何でも読ませることにした。
ある程度しっかりした語学力、文章力があれば誰でも翻訳はできる。だが、私はそんな翻訳に興味がなかった。作家のさまざまな内面のひだ、そこに秘められている奥深いあちこちにふれて、それをゆたかな日本語によって、原作の表情やはだざわりまであやまたず定着することは、たいていの読者が想像するよりもはるかにむずかしい。
――中田耕治(「竹本祐子のエッセイ」)