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■ 偶然の回想 |
Date: 2005-09-24 (Sat) |
誰でもおなじことだろうが、私の青春時代は、少しづつ形成されようとしていながら混沌とした一つの世界だった。世界とさえも呼べない状態で、まだ少しもはっきりしたかたちをとらない、さまざまな要素が、それぞれの位置と役割を求めてひしめきあっているようだった。そこに、私の一つの偏差があらわれたと思う。
それは、『ロビンソン・クルーソー』や、『宝島』、『ガリヴァー旅行記』などに夢中になったことと関係がある。こうした作品には、巻頭に、それぞれ架空の島の地図が出ていて、少年の私にとっては現実よりも現実性にとんでいて、私の心をまっすぐに小説の「島」に誘ってゆく。
少年時代に、自分だけの空想の地図を作ることにひどく熱心な興味を抱いた。実際の地図があたえてくれる魅力に惹かれて、それとおなじようなものを勝手に作って、その地図に描いた世界をあくまで自分の欲しいままな支配に置く、というまことに幼稚な空想にすぎないのだが。
私の場合、どこにも実在しない地図を空想することがひそかな楽しみになった。このことが、いつごろからか、空想上の島という一つの世界、というよりむしろ一つの観念をもたらした。そして、「島」を描いた作品をさがし出しては読みふけることになった。
どんな島でもよかった。というより、「島」が出てくる作品だけが、自分をとりまいている現実の息ぐるしさから解放してくれるような気がした。
『ロビンソン・クルーソー』や、『宝島』や、『十五少年漂流記』といった「島」自体が小説の舞台になっている作品はいうまでもないが、おなじ作家が書いた作品に、もしかしたら私をよろこばせる「島」があらわれないだろうか、という期待があって、スティーヴンスンなら『自殺クラブ』を読み、中島敦の『光と風と夢』を読む。デフォーは、ほかに翻訳がなかったから読みようがなかったが、ヴェルヌは読み得るかぎりのヴェルヌを読む。作品のなかで私を満足させる「島」が出てくるという理由だけで、やがて『トム・ソーヤー』や『ハックルベリ・フィン』が愛読書になり、さらには『アーサー王宮廷のカナディカ・ヤンキー』に進むようになった。
メルヴィルは、私のもっとも尊敬する作家の一人になったのも当然だったろう。阿部知二訳の『白鯨』を読んだおかげで、コンラッドや、ハウスマン、ノードホフとホールなどの海洋小説を読みふけったし、後年は、クック、マジェラン、間宮林蔵などの航海家の記録や伝記に関心をもった。
こうした好みは、やがて、私にとってはヘミングウェイの発見につながっているし、批評家としては早世したが、天才的なドイツのオイゲン・ヴィンクラーの発見につながっている。
ついでに書いておくと、日本の文学には、残念ながらあまり私を満足させるものがなかった。ただ、阿部知二の『地図』を読んだとき、私のそれとおなじ空想が、はるかに精緻に描かれていて狂喜したし、この短篇にふれた荒正人のエッセイ『好奇心』を読んだとき、荒正人が私とおなじ空想に生きた時期があったことを知った。
メルヴィルのよき読者ではないのだが、『白鯨』のエイハブに見られる、ドストエフスキー的なグノーシス的な認識に衝撃をうけたことを隠さない。というよりつよい畏怖を抱きつづけてきた。その半面、(メルヴィルの専門家ではない特権から平気で書けるのだが)私が心から楽しんで読んだ作品は『白鯨』よりも、むしろ『タイピー』や『オムー』だったことを白状しておこう。
理由はいうまでもない。ヌクヒヴァ島の原住民たちの生活が、私にとっては空想的であるよりは、はるかに現実的なものとして感じられたからだった。『タイピー』は翻訳がなくて、『オムー』を翻訳で読んだこと、『タイピー』を知って、ずいぶん探しまわったことをおぼえている。したがって、ヌクヒヴァ島から脱出した主人公の捕鯨船での生活が先に頭にあったので、『タイピー』を読んだとき、私はほとんど羨望の念さえおぼえたほどだった。
自分ではうまく説明がつかないのだが、多島海マーディに漂流した主人公が、原住民の娘イラーと恋をする『マーディ』は途中でいやになって放棄してしまった。この作品を読みかけたころには、もう『洞窟の女王』などを読んでいたせいかも知れない。
しかし、『タイピー』は私の記憶に大きく残っているし、この少年時代になつかしさをおぼえる。どうかすると、今でも「島」の魅力にとり憑かれることさえもあるのだが、それから逃れるために、ドストエフスキーやヘミングウェイがあらわれたのかも知れない。
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