堤 理華が訳したレオン・R・カス著『生命操作は人を幸せにするのか』(日本教文社)を読んで、まじめに考えなければいけない問題があると思いはじめた。
この本はとてもむずかしい内容で、堤 理華のようなすぐれた人でなければ訳せないものだった。この本を訳したことだけでも、翻訳家、堤 理華を尊敬している。
その第六章の「臓器売買は許されるのか」を読んだとき、私は自分がきわめて重大な問題に直面させられるような気がしたものだった。日頃、考えたこともない生命倫理の問題なので、いろいろなことを考えさせられたし、今もずっと考えている。
そういえば、1999年10月、私は興味あるニューズを読んだ。
アメリカで、ある写真家がインターネットで、女性モデルの卵子の競売を始めたという。なにしろ、アメリカでは不妊のカップルの希望に応じて、卵子や精子の売買が盛んに行われているのだから、たいしたニューズではない。それに、女性の卵子の商品化自体に驚かされたわけではない。
この写真家は自分のホームページに、卵子を提供する女性モデル、8名の写真を掲載している。私はこのホームページを直接に見たわけではないが、新聞で見ると、さすがにモデルだけあって二十代の若い美女ばかりだった。一人はティーンエイジャーのようだった。
彼女たちの卵子が競売にかけられるわけだが、1万5千ドル(約160万円)からで、上限は15万ドル。当然、全額がモデルのものになるが、この写真家は落札した人から手数料として、落札価格の20パーセントを受けとるシステムという。
生殖医学会などから、生命倫理に反する行為として非難の声があがっている。そればかりではなく、卵子の商品化にも歯止めがきかなくなるという反対意見も出ている。
これに対して、写真家は――美しい女性の卵子を選ぶことは、子どもや孫の将来の成功を約束するとして、オークションを正当化している。「ニューヨーク・タイムズ」(10月23日)は、落札価格について――卵子の提供者におなじ金額しか払わないのは、女性はみんなおなじといっているようなものだと語ったという。
「ニューヨーク・タイムズ」の記事によれば――1996年に、卵子の提供で年間、約1700人の子どもが生まれ、その後も増大している。卵子を提供する女性に支払われるペイは、2500〜5000ドル(約26〜50万円)が相場という。
この記事を読んだとき、私の考えたことは以下の通り。
なるほど。きわめて近い将来、日本でもおなじことが起きるだろう。日本人はアメリカのことなら、たいてい無批判に追随するからなあ。
そればかりではない。アメリカの一部には宗教的な信仰や倫理観から、人工中絶にさえ反対する保守層が厳然と存在するが、日本にはそうした宗教上の制約、もしくは反対はほとんど存在しない。もとより道徳観念も違う。したがって、アメリカとはまったく違った意味で、卵子の商品化はたやすくひろがるだろう。
つぎに――私が女性だったらどうするか。
基本的には反対する。自分の卵子を売る提供者(レシピエント)になって対価を得るということは、女として許されないと考えるから。これは嫌悪感、あるいは、道徳的な観念とは違うものだ。むしろ「女である」自分自身へのrespectないしは、dignityにかかわってくる。もっと単純にいえば、私がモデルになれるほど美貌だったら、そんなことをする前にモデルとして生きてゆくだろう。
卵子の商品化に基本的には反対する。ただ一つ、このことが女性に対する経済的な自立をもたらす場合は例外的に認める。簡単にいえば、どういう理由であれ、女性が娼婦として生きなくてすむなら、卵子の商品化が行われてもよいと考える。
もっとも、「女として」の私が現実にモデルになったら売れないだろうなあ。まったくの話、モデルさんになれなくてよかった。
もし、その「卵子」に私の精子を結合させたとして――顔が私にそっくり、頭がそのモデルさんそっくりの子どもができたら――「生命操作」は私を幸せにするのか。
「生命操作は人を幸せにするのか」レオン・R・カス著 堤 理華 訳
2005年4月15日 刊 2476円