評伝というかたちで『ルイ・ジュヴェとその時代』を書いた動機や理由について、べつに説明する必要はない。もともとジュヴェの肖像を描くつもりはなかった。
ただし、俳優=演出家が日本ではどんなに間違った見方をされてきたか、それだけは訂正してやろう。そう思ったのだった。
ジャン・ジュネの「女中たち」の上演を見たサルトルが、ジュネにむかって、ひどい芝居だったと語ったという。日本ではサルトルの放言が、まるで神託のようにつたえられた。本庄桂輔は、「ジュヴェはこの劇の上演によって、戦後の新しい波に触れたわけであるが、彼がジロドゥーの世界をひらいたように、戦後の新しい演劇を理解できたかどうかは疑問である」という。また、安堂真也によれば、戦後のジュヴェの仕事を要約して、「ジロドゥーとコポオとピトエフに先立たれ、方向を失ったジュヴェはモリエールに戻って独自の『ドン・ジュアン』と『タルチュフ』を上演、神への瞑想を主題とするに至る。ジュネやサルトルの演出が失敗に終ったのも、グレアム・グリーンの上演を考えたのも先輩のコポオの晩年に再び近づいたためかもしれない」という。
私の胸には、遠い日本でこうした見方にさらされているジュヴェに対する憐憫と、このまま誤解されて終ってしまうかも知れない芸術家を本来の位置に戻したいという思いがあった。私が書きたかったのは、ジュヴェのように、仕事が成功すればするほど、(つまり、自分の仕事に対する認識が深くなっていけばいくほど)自分の芸術に対する認識が深くなってゆくことを認識する芸術家は少ない、ということだった。
ジュヴェはモリエールとおなじように舞台の成功をめざして、そのためにおびただしい犠牲を払いつづけ、しかも堅忍不抜と見える姿勢を崩さなかった。芸術家は失敗をおそれてはならない。ときには、むしろ昂然たる気概をもって失敗こそをめざすべきなのだ。そういうことを教えてくれたのは、ほかならぬジュヴェだった。
私がジュヴェから学んだことは、じつに大きい。彼の舞台はいつも時代の感性を刺激して、お客さんに、果てしなくおのれのありようをみずからに問いたださせるような舞台だった。彼の芝居を見る前と見てしまったあとの客の内面に、言葉にならないような思いが日に日に大きくなっていくような舞台を作る。ジュヴェはそういう舞台を作ろうとしてきた。それこそがほんとうの芸術の創造ということなのだ。そういうジュヴェに惹かれつづけ、彼の仕事をくわしく知りたいと思いつづけ、いつかそういうジュヴェについて語りたいと思ったのも当然だろう。
ジュヴェは方向を見失ったのではない。たえず新しい方向を模索しつづけた。私はそういうジュヴェにいつも感動してきたのだった。
−−早稲田演劇博物館 「劇場に生きる——舞台人ルイ・ジュヴェ」パンフレット(2003年)
ルイ・ジュヴェ
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