ステフォン・ツヴァイクの遺作「変身の魅惑」のヒロイン、「クリスティーネ」は、戦前、スイスの社交界の花形として登場しながら、「戦後」の窮迫のなかで、見知らぬ男を相手に春をひさぐ。
はじめて、男をホテルにつれ込んだとき、そのホテルの部屋にひどい嫌悪感と吐き気で失神しそうになる。彼女は、いそいで窓の戸をひき開ける。ガスの噴出した坑道から救い出されたように、外から流れ込んできた、あたらしい、「よごれていない」空気を吸い込む。
ドアをノックする音がして、メイドが入ってくる。新しいタオルを洗面台に置いて、部屋の窓が開けっぱなしになっていることに気づいて、「そのときは、カーテンを下げてください」といって出て行く。
この「そのとき」が、「クリスティーネ」にショックをあたえる。「そのとき」のために、人々はこうした横町の安ホテルにやってくる。いやな臭いのする穴ぐらに。ただ、そのことのために。
男はそっとそばに寄ってきたが、不用意なことばで彼女を傷つけるのをおそれて、肩にあてた手を相手の指にふれるところまですべり落とした。女の指は冷たく、ふるえていた。こっちの気もちを落ちつかせようとしているんだわ、と感じた。「ごめんなさい」ふり向かずにいった。「きゅうに目まいがして。すぐによくなるわ。もうちょっと、新鮮な空気が吸いたくて……ただ……」
思わず、いいそうになった。こういうホテルや、お部屋を見るのははじめてなものですから。しかし、唇を噛んだ。そんなことを彼に知らせてどうなるの。いきなり、ふり返って、窓を閉めて、切り口上でいった。「明かりを消して」
「クリスティーネ」は暗い室内で、みしみしきしむ音、ため息、笑い、きしみ、素足の足音の気配、どこからか水の流れる音。ホテルじゅうに、自分の知らない、なにやらセックスにまつわる、男と女のからだが結合することだけを目的とした現象がみちみちていることに気がつく。こまかな霜のように、おぞましさがじわりと肌にしみ通ってゆく。
「クリスティーネ」は、男がついに自分を抱いたときも拒まなかった。
私はツヴァイクも嗅覚がするどい作家だったことは間違いないと思う。
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