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2019/07/01
 

「映画論叢」51 (2019/7/12発売)
「サロメ」を演じた女優たちの運命を描く、中田耕治渾身の作品掲載。

 

2017/09/11

アナイス・ニンのドキュメンタリー「アナイス・ニン、自己を語る」のDVDが発売になりました。
 晩年になってなお美しくたおやかなアナイスの姿、声、作家としての暮らしぶり、かつての恋人ヘンリー・ミラーとの語らいなど、貴重な映像が詰まった、唯一のドキュメンタリーです。

 アナイスを日本に紹介した中田耕治先生の貴重なロング・インタビューも収録されています。
 また、アナイスと親しかった杉崎和子先生のインタビューと、この企画実現のために情熱をかたむけた作家・山口路子さん執筆のブックレットもついています。

 DVD発売に至るまでの経緯などについては、山口路子さんのアナイス愛がつづられたブログをぜひご覧ください。
アナイスについて中田先生の手紙
アナイスについて杉崎和子先生への手紙
中田耕治先生インタビューと命の言葉
アナイスのように(DVD発売)

 

2017/04/21
中田耕治先生のインタビューが収録された、宮岡秀行監督の映画が、「微塵光(みじんこう)――原民喜」としてついに完成しました。

2016/06/03
宮岡秀行監督による映画『裏・原民喜』に、中田耕治先生のインタビューが収録されました。

2015.7.10
講談社「第三回フラウ文芸大賞」準大賞を田栗美奈子さんが受賞しました
。 山口路子さんより、コメントいただきました。

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中田耕治ドットコム とは

作家・批評家・翻訳家として、多彩な活動を続けてこられた中田耕治先生の「今」を
お伝えするサイトです。
パソコンとは無縁の師匠に代わり、有志数名が運営しています。

 

中田耕治 (なかだこうじ)とは
中田耕治

年 譜
インタビュー
中田耕治を語る
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作家。1927年、東京に生まれる。
戦後、最年少の批評家として文壇に登場し、『ショパン論』『ゴーゴリ論』などがある。
演劇の演出家としては、「闘牛」(3幕)の演出が代表作。作家として『危険な女』、『異聞猿飛佐助』ほか。評伝『ルクレツィア・ボルジア』、『メディチ家の人びと』、『ブランヴィリエ侯爵夫人』など。また、近作に『ルイ・ジュヴェとその時代』がある。翻訳家としては、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなど多数。編・訳も多く、近作に『スコット・フィッツジェラルド作品集』、『アナイス・ニン作品集』がある。

中田耕治執筆本
絶賛発売中

中田耕治共著

 

最新過去ログ   
2019/09/08(Sun)  1813〈1977〜78年日記 60〉

         1978年3月6日(月)
 買ってきた本をつぎつぎに送っている。
 アメリカ銀行の支店(通称バンカメ)で、チョコレート色の煉瓦作りのビル。その2軒先が少し引っ込んだ路地の奥に郵便局がある。窓口は、若い娘で、ジーン・クレインに似た、ほっそりした、なかなか美形の娘がひとり。
 今朝も郵便局に行くつもりだったが、あいにく小銭がない。朝のバークリーの郵便局では、100ドル紙幣を出しても受けとらない。この時間では「バンク・オヴ・アメリカ」も開いていない。
 シャタックまで歩いて、「クロッカー・バンク」で100ドルを両替した。
 ここまできたら、いっそのこと、シスコから本を送ったほうがいい。小包を抱えて「バート」で、シヴィックセンターに。ここにも大きな郵便局がある。
 ひとつは航空便、二つを船便で。

 こんどは、エリカに、またひとりでシスコに行くとつたえた。
 エリカは、私が、シスコで若いコールガールでもひろったのではないか、と疑っているらしい。

 シャタックからバス。このバスは、シスコのミッション・ストリート、トランス・ベイ・ターミナルに着く。

 ここの「ホームズ」は、オークランドの「ホームズ」より、ずっと規模も小さい。

 そのあと、ブロードウェイに出て、「シテイライツ」に寄る。
 植草 甚一さんが喜びそうな本がある。

 夜、「UCパシフィック」で、エルンスト・ルビッチュの「アン・ブーリン」(1920年)を上映すると知って、あわてて見に行った。
 コトルバスを見たほどの感動はないが、「結婚哲学」からあとのルビッチュのサイレント映画を見ていないので、ぜひ見ておきたかった。
 ルビッチュは、1920年、メァリ・ピックフォードに招かれてハリウッドに移ったのだから、「アン・ブーリン」(1920年)はドイツで撮ったものか。
 ヒロインの「アン・ブーリン」は、いうまでもなく「一千日のアン」だから、これが見られるのはうれしかった。
 主演は、なんと、エミール・ヤニングス。「アン」はヘニー・なんとか。
 途中から、かなり退屈した。観客もせいぜい50人程度。

 この「UCパシフィック」は、映画館ではなく、「UCB」(カリフォーニア大・バークリー分校)付属の映画ライブラリーで、収容人数は、約120だが、理想的な小劇場だった。「東和」第二試写室程度のゆったりした椅子で、長時間の鑑賞も苦にならない。大学の管理下に置かれていて、運営はすべて学生にまかされている。日替わりで、収蔵作品を上映してゆくシステムだが、そのレパートリーは、毎月、パンフレットで発表される。私が2月の「異聞猿飛佐助」の上映を知ったのも、このパンフレットを読んだからだが、3月に小津 保次郎の「浮草」の上映が予告されていた。

 もう一つ。
 この「UCパシフィック」の壁面に、美術品が陳列されていて、私が通ったときには、19世紀の版画展をやっていた。
 ロートレック、ゴーギャン、ミュシャの版画が、いとも無造作に並べられている。これにも驚かされた。日本で専用の付属映画館をもっている大学はないだろう。さらに、大学自体のコレクションで、ロートレック、ゴーギャン、ミュシャほかの版画を並べられる大学はないだろうと思う。
 マリリン・モンローの死後、彼女が集めたイタリアの舞台女優、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を、ワシントン大学に寄贈したとつたえられたが、やはり、芸術に対する観念が、日本人とは違う。

      1978年3月7日(火)
 10時半、バークリーの郵便局に行って本を送ったあと、ドワイトウェイの角の「スープ・キチン」で朝食をとろうとしたら、食事は終わったという。ちょっと困った。
 仕方がない。ヴェトナム料理の店に行こうか。
 この店の主人が日本人で、大沢君という若者だが、すぐに食事を作ってくれた。
 英語しか話さないというので、もっぱら英語で話した。なぜ日本語を話さないのかと聞いてみた。日本語がおかしな発音になっているので、できるだけ話さないようにしているという。それだけバークリー暮らしが長いということか。
 日本語は読める。陸奥 宗光の本を読んでいるという。むずかしい本なのに。好感の持てる人だった。

 夜、「愛のコリーダ」(大島 渚監督)を見た。
 たまたま、2本立てで、「チュルキシュの悦び」というオランダ映画をやっていた。これが、なかなかいい映画だった。
 「愛のコリーダ」の途中で、観客から、しきりに失笑や罵声があがった。スクリーンに向かって、「Japanese girl can’t fuck!」とどなったやつがいる。私は、映画として、「愛のコリーダ」を駄作と見た。観客たちは、ぞろぞろ席を立って、あっという間に館内はガラ空きになった。
 大島 渚は、この映画をみずから傑作と自負していたが、ポルノとしてもまったく低いレベルの映画だった。

     1978年3月8日(水)
 朝、5時に眼がさめた。
 雨が降っている。このところ、雨が降っている。クラムのマンガを読む。
 10時頃、郵便局に行き、本を送った。

 午後は快晴。
 カメラを持ち出して、おなじアパートに住んでいる黒人の娘(8歳ぐらい)の写真を撮った。あとで送ってやるつもり。
 べンヴエニュから、ドワイトウェイ、チャニングウェイ、ここからボディッチにもどって写真を撮った。
 夜、「バート」の近く、「カマ」KAMA という中国人の店で食事。エリカにいわせると、この店はまずいという。しかし、私はこの店が気に入って、何度か寄ったことがある。
 7時過ぎ、「ACT 2」にいった。
 「コーマ」(マイケル・クライトン監督)を見た。これは、まだ試写も見ていない。
 マイケル・クライトンの病院スリラー。ボストンの病院に勤務することになった女医「スーザン」(ジュヌビェーヴ・ビジョルド)は、「ハリス」外科部長(リチャード・ウイドマーク)の病棟で、昏睡状態の患者の発生率が以上に高いことに気がつく。外科部長が臓器をとり出して、外国に売りさばいている、おそろしい真相を知った「スーザン」自身に、病院全体の魔手が伸びてくる。……
 気もちのわるいスリラーだった。こういう映画を見たときは、「あくね」に行って、小川 茂久と飲むのだが、アメリカには「あくね」のような店がない。

    1978年3月9日(木)
 「あくね」のことなどを思い出したせいか、女の夢を見た。しばらく女の肌にふれていないせいだろうか。
 アメリカにきて、日本の女の夢を見るというのは不思議だった。

 アメリカに住んでみたいと思う。バークリーに住んでみたい。アメリカでもいちばん安全な町のような気がする。バークリーのたたずまいは「いちご白書」や「卒業」の、ロケーション撮影で見ることができる。
 ただし、この町には、若い女性だけをねらう強姦魔が出没するという。バークリーは、バートの駅を中心に、南北に分割されたような恰好で、大学のある北側の地区は裕福な人たちが住む地域だが、南のダウンタウンは貧困家庭の住宅地区になっている。強姦魔は、このダウンタウンに住んでいて、もっぱら北の女たちを襲うという。
 バークリーは、この地区だけのローカルなテレビ局があって、強姦された女性がわるびれずにテレビに出て、強姦魔の特徴などをのべて、女性たちに警戒を訴えることも多い。

 バークリーの警察官は、全員女性で、学園都市らしい秩序がたもたれている。イヌはほとんどが放し飼いで、中心部の店に入る際だけ、店の前にリードをつけたイヌがつながれている。

 住むなら、バークリーがいい。

    1978年3月10日(金)・
 「フェニシアン・レストラン」に行く。
 そのあと、自然食品を栽培(むしろ、培養というべきか)している「グリーン・スプローター」という店。ここで、プラスティックの器具。
 帰りに道にこぼれている街路樹の実をひろう。千葉に戻ったら、庭に植えてみよう。

 夕方、エリカといっしょに、「UCB」に行く。
 「ビルマの竪琴」(市川 崑監督)見た。
 映画については書かない。個人的なことを書く。この映画には、私が「俳優座」の養成所で教えた生徒たちがたくさん出ている。その役者たちのことを思い出すと、なつかしさがあふれてくる。そんな私の感傷とは別に、観客の反応が心に残った。前にすわっている白人の若者が、映画の途中で肩をふるわせていた。日本人の留学生らしい女の子の2人連れも泣いていた。エリカの話では、隣りの黒人の若者も泣いていたという。
 私は、竹山 道雄がこの作品を書いた頃の「近代文学」の人たちの反応を思い出していた。

 原稿を書かない生活が続いている。なにしろ、パーティーに行くのでもないかぎり、旅行者なのだから、原稿を書くこともない。
 「バーバレラ」(ロジェ・バディム監督)を見た。もう、何度も見た映画なので、とりたてて書くこともない。
 深夜、ウィスキーを飲みながら、テレビ映画を見た。ヘレン・ヘイズ、マーナ・ロイ、シルヴィア・シドニー、ミルドレッド・ダンノック。オバアサンばかり。それでも、みんな楽しそうにハネまわっている。こういうドラマを見ると、やはり映画や舞台の女優たちの層の厚みを感じる。日本のテレビで、オバアサン4人のドラマを企画しても、すぐに却下されるだろう。だいいち、ヘレン・ヘイズ級の名女優がいない。マーナ・ロイのようにお色気を振りまく老女がいない。シルヴィア・シドニーのように、ヨタヨタしていても、イキのいい啖呵が切れるほどの女優がいない。ミルドレッド・ダンノックのように、主役は張れないが、ワキにいるだけで、主役の女優がかすんでしまうほどの存在感のある老女優がいない。
 このまま、ブロードウェイにもって行っても、半年はもつようなコメディーだった。これも、タイトルはわからない。テレビをつけたらやっていたので。こういう女優たちをつかって、「シャイヨの狂女」でも演出したら楽しいだろうな。

    1978年3月11日(土)・
 アシュビーで、フリー・マーケットがあるはずなので、エリカが車で送ってくれた。ところが、アシュビーには誰もいない。
 少し前の私なら、自分のドジに腹をたてて、それこそ不運をかこちながら帰るところだが、今の私は、すっかりアメリカに感化されている。

 エリカと別れて、「ビブリオマニア」で、本を探した。
 イーディス・パターソン・メイヤーという人の「イザベッラ・デステ」を見つけた。
 帰宅。エリカはいない。
 入浴しながら、イーディスさんの本を読みはじめた。読みはじめて、ああ、これはイケケない、と思った。この著者は、伝記、「アルフレッド・ノーベル」、カナダ/アメリカの関係史、伝記「オリヴァー・ウェンデル・ホームズ」などを書いている。
 しかし、この「イザベッラ・デステ」は、ジューリア・カートライトの名著に遠く及ばない。
 ついでにいうと、私にとって、正座して読書するのは、読書法のなかでもっとも拙劣な方法なのだ。どうすれば、いちばん効率がいいかというと、バスタブにお湯を半分ばかり入れて、両足を頭の高さにあげて浴槽の上に乗せる。いわば、半身浴で、本を片手に読む。脳の血行がスムーズになって、よく頭に入る。(と信じているだけだが。)
 劇評家のエリック・ベントリーは、入浴しながら、タイプライターで原稿を書いていたが、私の場合は、原稿用紙が濡れるので、入浴しながら原稿を書くことはない。

 入浴しながら読んだので、これ以上、イーディスさんの本の悪口は書かない。

    1978年3月12日(日)
 朝、ドワイトウェイからすぐ北に向かって歩く。
 プロスペクトからヒルサイドの付近は、落ちついた雰囲気の高級住宅地がつづく。
 バークリーで、石を投げると、ノーベル賞の受賞者に当たるといわれているが、このあたりには偉い科学者たちが住んでいるらしい。
 ヒルサイドから、すぐに山道になる。

 坂をのぼって行くと、アメリカマツの茂みにおおわれた丘が間近に見えはじめた。松なのに、空に向かって高く延びて、バークリー大学のヒンターランドになっている。
 ただの丘陵地帯なので、別にむずかしいコースではない。
 山道にさしかかってすぐ、私の眼の前に、大型犬ほどの動物があらわれた。こんなところに動物がいるとは思わなかった。その動物は、ちょっと私を見てから、さっと身をひるがえして姿を消した。
 シカの子だった。街を一歩でると、野性の鹿に出会えるのだった。

 この前歩いたコースとは別だが、エリカの部屋から見た感じでは、1時間で登れるはずだったが、道がくねくねと山腹をとり巻いているので、頂上まで1時間45分もかかった。千葉県のヘグリ郡にある山の2倍くらいの高さだろう。
 肩にさげたズダ袋から、パンを出して、朝食。

 日本に帰ったら、また登山をはじめよう。
 私の不在中、安東や、吉沢君は、山に登っているだろうか。
 大気は澄みわたって、シスコの全景がすばらしかった。

 12時15分、帰宅。

 エリカといっしょに外出。
 エリカの友人、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーに寄る。
 「スイちゃん」は、近くサンディエゴに移る、という。一瞬、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーを借りて、私ひとりで、しばらくバークリーに住んでみようか、と思った。むろん、とうてい不可能な計画だが。
 帰国して、原稿をつぎつぎに書かなければならない。

 その帰り、驚くべきことを経験した。

 エリカといっしょにエレベーターに乗った。先客がいた。背丈が高く、がっしりした体格だった。私は、その人の顔を見た。
 顔がない!
 のっぺらぼうで、目も鼻もない。そこに刻みつけたように横一文字に、口らしいものがついている。
 一瞬、恐怖が私の内面に走った。

 目はついている。細く切れた線のようになって。鼻はまったく隆起した部分がなく、平らにくずれている。唇もない。ただ、口とおぼしき部分からわずかに歯が突き出しているので、口とわかるのだった。
 小泉 八雲の短編に、すれ違った女が振り向くと、その顔がのっぺらぼうだったという名作がある。
 あの短編をそのまま現実に見たような気がした。
 エレベーターが、1階に着くまで、私はエリカのわきに立ちつくしていた。

 エリカの話では、バークリーでも、有名な「怪人」という。
 太平洋戦争で、海軍の艦艇に配属された兵士らしい。戦闘で、燃料庫か機関部に被弾して、高熱の水蒸気で顔を焼かれたのか。整形手術でもまったく復元できなかったらしい。
 「怪人」は、たまに買い物に出かける以外、外出もしないとか。
 エリカは、何度か、この人物に出会ったという。

 戦傷者として、生涯、年金の給付を受けているので、仕事は何もしていない。

 私は、いまさらながら戦争の犠牲になった人の運命を思った。

    1978年3月13日(月)
 10時、「キチン・コーナー」に寄ってみた。古沢君と英会話。

 エリカが、車でシスコの夜景を見に行くという。私は、シスコの夜景なんか見たくないといった。それよりも、「オクスフォード」で、食事をしよう、といった。
 もうじき東京に帰るのだから、娘とせめてディナーをとりたいと希望しても、父親としては当然だろう。
 こんな些細なことが、またしてもエリカとケンカする遠因になった。

 けっきょく、私が折れて、シスコの夜景を見にゆくことになった。
 ところが、エリカの車の運転なので、気が気ではない。ひどく乱暴な運転で、事故を起こさなければいいと思った。
 アシュビーまで出たとき、
 ――おい、とめてくれ。
 と、声をかけたが、エリカは車を止めなかった。
 ――とめろよ。
 ――どうして?
 ――いや、映画を見たいんだ。
 押し問答になった。
 けっきょく、私は車をおりた。しばらく歩いていると、エリカが車で追ってきた。
 また口論になった。
 こうなると、お互いにこれまでたまりにたまった鬱憤を思いきり吐き出すことになった。エリカと衝突すると、たちまち全面戦争になる。

 エリカと私がこじれた気分のまま、ベンヴェニュ(アパート)に戻っても、不快な気分が残るだけだろう。

 映画を見たいといったのは、ただの口実で、そんなことより、エリカからすぐに離れたかった。エリカの運転におそれをなしたことも事実だったが。
 今夜、見るとすればジャック・ターナーの映画だけだった。昔、名監督といわれたモーリス・トゥールヌールの息子で、日本に輸入もされないB級の恐怖映画ばかり撮っている。だから、そんな気分でホラー映画を見てもおもしろいはずはない。

 映画を見た。「プシィキャット」で、ダーティー・ムーヴィーを。

    1978年3月14日(火)
 朝、最後の小包をデューラント/テレグラフの郵便局にもって行く。

 ジーン・クレインに似た、ほっそりした美人はいなかった。
 「KAMA」に行って朝食。
 いつも愛想よくサーヴィスしてくれた中国人の娘もいなかった。ジーン・クレインに会えなかったし、中国人の美少女にも会えなかった。もうこの店にくることもない。

 シスコで、最後の買い物。たいしたものも買えない。お土産、ボロ・タイ(Bolotie)など。
 つるしのレイン・コート。これは、自分用に。
 「アルバトロス」で、「二見書房」、長谷川君のためにホラーを10冊。
 ショー・ケースに、イーディス・ウォートンの「イタリアのヴィラと庭園」の初版本が麗々しく飾ってあった。めずらしい本だが、値がわからない。聞いてみた。100ドル。少し前に見つけたら、買ったかも知れないが、今となってはあきらめるしかない。

 バークリーにもどった。
 「スイちゃん」がきてくれた。エリカといっしょに、丘陵を車で案内してくれることになった。私は、何度か登ったことがあるのだが、それは黙っていた。

 エリカが運転することになった。
 よく晴れた日。

 日曜日に登った山から二つ先のピークに出た。さらに、ワイルド・キャット・ヴァレーに向かう。遠くに小さな湖、さらに、もう一つ、それよりは大きな湖が見えた。

 オークランド。

 「ホーリー・ネームズ」の下の店(セーフウェイのある場所)に出た。去年、はじめてエリカといっしょにオークランドにきたとき、ここに立ち寄ったことを思い出した。
 ここで、落ちついた感じの店に寄って、コーヒー。

 昨日とちがって、エリカとはお互いのわだかまりがなくなっている。
 最後に、親子の対立も知らずに仲介してくれた恰好の「スイちゃん」に感謝した。

 今回のアメリカ旅行は、それなりに収穫もあった。コトルバスを見た感動。「怪人」。
 ワイルド・キャット・ヴァレー。エリカの「CACC」(カリフォーニア・芸術/工芸大学)、そしてオークランドの黒人の美少女。サクラメント。いろいろとネタを仕入れた。なんといっても、毎日、原稿に追われて、疲労困バイすることもなかった。

 「デューラント・ホテル」の前からリムジンで、国際空港に向かう。エリカは、「スイちゃん」の車で、追いかけることになった。
 リムジンに乗り合わせた日本人の若者が、あたりをはばからず、ブロークンな英語でしゃべっていた。

 8時半、税関の検査を通って、待合室に出た。しばらくしてエリカたちが、やってきた。免税店で、百合子に香水を買う。ここで注文すると、ホノルルでわたしてくれるシステムだった。
 9時、空港のカフェテリアにもどって、エリカ、「スイちゃん」といっしょに食事をした。
 10時10分。機内に入った。44G。
 10時50分、離陸。

 さよなら、バークリー。さよなら、エリカ。

      1978年3月15日(水)
 ホノルル着、2時15分。
 空港で何か買いたいと思ったが、この時間では免税店も開いていない。香水は受けとった。
 3時50分、離陸。
 隣りの乗客は、きびきびした若者だった。ダニエル君。中野に友人がいるので、彼を頼って、東京で仕事を探すという。
 朝食が出たが、あまり食べられない。
 「ベアーズ特訓中」を見た。つまらない映画。

    1978年3月16日(木)
 朝、6時12分、羽田に着陸。

 タクシーで、千葉に。

 百合子が迎えてくれた。

  

 

<中田耕治先生文学講座終了のお知らせ>2011.12.10

koji7年間にわたって続けられてきた「中田耕治文学講座」は、このたび無事終了させていただきました。

最終講義には新旧の受講生が多数集まり、心地よい緊張感のなかで、パワーみなぎる中田先生の熱い講義に酔いしれました。

これまでご参加いただいた皆様に、心よりお礼を申し上げます。

中田先生の刺激的なお話をまだまだ聴きたいと、閉講を惜しむ声が多いため、来年からは「補講」をおこなう方向で検討中です。
どうぞお楽しみに。

全77回の講座各回のテーマは、こちら中田耕治文学講座リストでご覧いただけます。

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