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中田耕治ドットコム とは

作家・批評家・翻訳家として、多彩な活動を続けてこられた中田耕治先生の「今」を
お伝えするサイトです。
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中田耕治 (なかだこうじ)とは
中田耕治

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中田耕治を語る
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作家。1927年、東京に生まれる。
戦後、最年少の批評家として文壇に登場し、『ショパン論』『ゴーゴリ論』などがある。
演劇の演出家としては、「闘牛」(3幕)の演出が代表作。作家として『危険な女』、『異聞猿飛佐助』ほか。評伝『ルクレツィア・ボルジア』、『メディチ家の人びと』、『ブランヴィリエ侯爵夫人』など。また、近作に『ルイ・ジュヴェとその時代』がある。翻訳家としては、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなど多数。編・訳も多く、近作に『スコット・フィッツジェラルド作品集』、『アナイス・ニン作品集』がある。

中田耕治執筆本
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中田耕治共著

中田 耕治 訳 / オノト・ワタンナ 著
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2018/11/10(Sat)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年8月12日(火)

 エリカがアメリカに戻った。

 パンナム002便の出航は3時15分の予定だが、15分遅れで出発。

 私はまだいろいろと仕事がある。
 5時15分。「アラスカ」に寄って原稿を書く。なんとか仕上げたので、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。ここで、「世界文化社」の編集者と打合せ。「公明新聞」の編集者に原稿をわたす。
 下沢君と「実業之日本」に行く。峯島さんが、「夕月」に案内してくれた。
 翻訳もののシリ−ズを始めるまで、ずいぶん時間がかかったが、ようやく社長の内諾が出たという。


                 1977年8月15日(金)

 8月15日なので、敗戦当日のことを思い出す。

 朝、「共同通信」から、エルヴィス・プレスリ−の死を知らせてきた。コメントをもとめられたので答える。

 プレスリ−が、初めて登場した(56年)とき、私は反発したひとり。
 戦後のポップスに大きな影響をあたえたのは、ビング・クロスビ−、フランク・シナトラ、つづいてエルヴィス・プレスリ−、やがてビ−トルズだった。ごく平凡な見取り図だが、エルヴィス・プレスリ−には、はじめから忌避したいものがあった。
 マイクをにぎりしめて、セクシ−に骨盤を動かす「ペルヴィス・スタイル」が気に入らなかった。
 「ハ−トブレイク・ホテル」、「監獄ロック」、「ラヴ・ミ−・テンダ−」、「テディ・ベア−」、「ブル−・スウェ−ド・シュ−ズ」。どれも感心しなかった。

 エルヴィスの映画は、「GIブル−ス」、「ブル−・ハワイ」、「燃える平原児」など、30本もあるのだが、私は数本見ただけで、映画評を書いたこともなかった。シングル盤やLPも一枚ももっていなかった。
 ようするに、まったく無縁のまま過ごしてきたのだった。

 (私が、後年、ハンタ−・ディヴィスの「ビ−トルズ」を訳したのも、エルヴィス・プレスリ−に対する挽歌という意味もあった(ような気がする。)(後記)

 その私が評価を変えたのは、晩年の「エルヴィス・プレスリ−・オン・ステ−ジ」と「オン・トゥア−」を見て、あらためてこのシンガ−の円熟を知ったからだった。
 私は、周回遅れのファンといっていい。
 私が見たエルヴィスは、肥満体質に悩み、無理な食事制限や、大量の薬物投与に苦しみながら、自分の音楽をひたすら追求してきた芸術家の姿だった。

 エルヴィスは42歳の若さで亡くなった、という。あまりにも若い死だった。

 私は、おのれの不明を恥じてはいないが、エルヴィスが亡くなったことは、アメリカのポップスにとってとりかえしのつかない悲劇と見る。

 プレスリ−の死がつたえられたとき、グレイスランド・マンション前の、プレスリ−・ブ−ルヴァ−ドは人並みで埋めつくされたという。葬儀が行われた18日は、徹夜した350人をふくめて5000人が邸宅をとり囲んだ。葬儀には、ジョン・ウェイン、バ−ト・レナルズ、アン・マ−グレット、サミ−・デイヴィス・ジュニアなども参列した。
 墓地は、フォレスト・ヒルズだが、今後、ファンの巡礼が予想されるので、独立した墓地に埋葬しなおすとか。

 「DAB DAB」の編集部から、電話でアンケ−ト。これもエルヴイスの死について。


              1977年8月19日(火)

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、井上 篤夫、大村 美根子、本戸 淳子の三人に会う。「実業之日本」、峯島さんに会ったが、ここにきて、まだ、社としての方針が固まっていないふしが見えた。
 大村、本戸のふたりを、有楽町のゲ−ム・センタ−に案内する。ふたりとも、こんな場所で遊んだこともないだろう。
 神田に出て「いぬ居」でスキヤキ。


              1977年8月23日(土)

 1時、「ゆかいな仲間」の試写をみるために、「ガスホ−ル」に行った。
 「ガスホ−ル」でも、私はいつも右側の10列目あたりにすわるのだが、この日はどういうものか、中央の席にすわった。
 映画が始まる前に、黒人の女性が婉然たる微笑をたたえて、私の席に寄ってきた。何があるのだろうか。その女性は、なんと私にワインのボトルをわたした。
 これまで、映画の試写に行って、何かをもらったことはない。その映画の宣材をもらったことはある。大型のパンフレットとか、その映画の題名のついたTシャツといったものばかりで、ワインをもらったことはない。
 どうして、私を選んで、ワインをわたしてくれたのか。
 あとで知ったのだが、この女性は、南アフリカ共和国の観光省の女性とか。最近の南アフリカ共和国は、観光に熱心になっているらしい。
 たまたま、昨日だったか、南アフリカ共和国が原爆実験を開始する決定をしたという。フランスの外相が、世界に向けて、警告を発した。
 ワインから、世界情勢を連想する。

 これが、私なのである。