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中田耕治ドットコム とは

作家・批評家・翻訳家として、多彩な活動を続けてこられた中田耕治先生の「今」をお伝えするサイトです。パソコンとは無縁の師匠に代わり、有志数名が運営しています。

 

中田耕治 (なかだこうじ)とは

中田耕治

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中田耕治を語る
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作家。1927年、東京に生まれる。戦後、最年少の批評家として文壇に登場し、『ショパン論』『ゴーゴリ論』などがある。
演劇の演出家としては、「闘牛」(3幕)の演出が代表作。作家として『危険な女』、『異聞猿飛佐助』ほか。評伝『ルクレツィア・ボルジア』、『メディチ家の人びと』、『ブランヴィリエ侯爵夫人』など。また、近作に『ルイ・ジュヴェとその時代』がある。翻訳家としては、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなど多数。編・訳も多く、近作に『スコット・フィッツジェラルド作品集』、『アナイス・ニン作品集』がある。

 

中田耕治執筆本

中田耕治共著

 

 

 

 

<おしらせ>


 

作家、批評家、翻訳家など、さまざまな顔を持ち、幅広い分野で唯一無二の才能を発揮してこられた中田耕治先生が、2021年11月26日、心不全のため94歳にて永眠されました。
ここに謹んでお知らせし、ご冥福を心よりお祈りいたします。

なお、当サイト内のブログ「コージートーク」にて連載中の〈少年時代〉につきましては、生前にお預かりしていた原稿を引き続き公開してまいります(このページ下段です)。
また、当ページのカテゴリタグから、過去の作品もたくさんご覧いただけますので、どうぞご利用ください。
中田先生の遺された作品たちが、これからも皆さまにご愛読いただけますように。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

――中田耕治ドットコム 管理人

 

 

以下に、中田耕治先生の主な経歴を記しておきます。


中田 耕治(なかだ・こうじ)

作家、批評家、翻訳家、演出家、元女子美術大学教授。

1927年東京生まれ。戦後、最年少の批評家として文壇に登場。翻訳家としても早くから活躍し、ミッキー・スピレインやロス・マクドナルドといった米国のハードボイルド作家を紹介して、日本における翻訳ミステリ興隆のきっかけを作った。みずからもハードボイルド小説や、斬新な時代小説を発表し、『異聞猿飛佐助』は篠田正浩監督で映画化されている。メディチ家などルネサンス関連の評伝でもしられ、またマリリン・モンロー研究においては日本で初めての評伝を書いた第一人者である。ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、ビートルズの伝記も訳した。フランスの名優を通して20世紀という時代を描いた『ルイ・ジュヴェとその時代』は評伝の代表作。演劇人としても、俳優座養成所の講師を務め、青年座や自身の主宰する劇団で演出も手がけた。
教育者としての顔も持ち、明治大学、女子美術大学で長年にわたり教壇に立ったほか、バベル翻訳学院などでも指導にあたり、多くの翻訳家を世に送り出した。

■主な著作
 評伝『ルイ・ジュヴェとその時代』『ルクレツィア・ボルジア』『メディチ家の人びと』『マリリン・モンロー論考』など、小説『危険な女』『異聞猿飛佐助』など、多数。
■主な訳書
 アイラ・レヴィン『死の接吻』、アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』、デヴィッド・セルツァー『オーメン』、ジェームズ・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、ハンター・デヴィス『ビートルズ(共訳)』など多数。また『アナイス・ニン作品集』、『スコット・フィッツジェラルド作品集』など編訳書も多い。

 

 

兄弟

 

 

 

絵

 

  

2022/03/14(Mon)  1960 〈少年時代 46〉
 
 祖母のあいに関して、思い出したことがある。なんとも、バカバカしい話だが。

 2020年歳末。
 アメリカの野球で、誰でも知っているベーブ・ルースのバットが、ニューヨークの「クリスティーズ」のオークションにかけられ、60万ドルで落札された。(2020年12月16日)
 現存するベーブ・ルースのバットでも、もっとも古い2本のうちの1本という。
 
 同じ時期、ヤンキースで活躍したルー・ゲーリックのユニフォームは144万ドル(約1億4880万円)。

 詩人の鮎川 信夫は、少年時代にベーブ・ルースを見たという。東京の球場で。
 私は、仙台の八木山の球場でベーブ・ルースを見た。

 ベーブ・ルースがバッターボックスに立つと、満員の観衆が異様な興奮につつまれたことを覚えている。

 初来日したヤンキースが、日本で当時唯一の職業野球チーム、「読売巨人軍」を相手にした野球を見たのは、自分でも信じられないのだが、むろんウソではない。
 幼い私は、祖母の西浦 あいにつれられて、この歴史的な野球を見に行った。
 生まれてはじめて野球を見たのだから、野球のルールについて何ひとつ知らない。ただ、ベーブ・ルースを見たのだから、当時、選手として出場した、ルー・ゲーリックや、沢村投手や、のちに名監督になる、若林、水原、三原などのプレイも見ていることになる。

 試合が終わったあと、ファンが総立ちになってベーブ・ルースを迎えた。たちまち、ファンたちが群がってサインを求めた。

 それを見ていた祖母は、私をシートにすわらせて、
 「ここで、待っていな。動くんじゃないよ」
 祖母のあいは、そういうと、韋駄天のようにその群衆のなかに走っていった。その敏捷さに私は驚いた。
 しばらくして、あいが戻ってきた。

 なんと、ベーブ・ルースのサインをもらってきたのだった。

 日本のファンの多数は、サイン用の紙をもってベーブ・ルースにサインをもとめたと思われる。あいは、サイン用の紙をもっていたわけではない。走りながら、たまたまもっていた御簾紙か何かをつかみだして、まっしぐらにベーブ・ルースの目の前で振りたくったらしい。ベーブ・ルースは、気がるにサインしてくれたという。
 このときあいがせしめたベーブ・ルースのサインは、神棚の隅に押し込まれて、我が家の宝物になったが、やがて忘れられた。小学生の私は、祖母の意外な行動力が心にきざまれた。

 このサインは、1945年3月の大空襲で焼けた。毛布1枚とわずかな食料だけもって、猛火のなかをにげまどったのだから、ベーブ・ルースのサインなど、持ち出せるはずもなかった。今になってみると、ちょっと惜しい気もする。

 このブログを書いているうちに、私が「お祖母さん子」だったことから、ベーブ・ルースのサインまで思い出した。

              −−少年時代 塩釜編 完−−

 

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