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中田耕治ドットコム とは

作家・批評家・翻訳家として、多彩な活動を続けてこられた中田耕治先生の「今」を
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中田耕治 (なかだこうじ)とは
中田耕治

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中田耕治を語る
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作家。1927年、東京に生まれる。
戦後、最年少の批評家として文壇に登場し、『ショパン論』『ゴーゴリ論』などがある。
演劇の演出家としては、「闘牛」(3幕)の演出が代表作。作家として『危険な女』、『異聞猿飛佐助』ほか。評伝『ルクレツィア・ボルジア』、『メディチ家の人びと』、『ブランヴィリエ侯爵夫人』など。また、近作に『ルイ・ジュヴェとその時代』がある。翻訳家としては、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなど多数。編・訳も多く、近作に『スコット・フィッツジェラルド作品集』、『アナイス・ニン作品集』がある。

中田耕治執筆本
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中田耕治共著

中田 耕治 訳 / オノト・ワタンナ 著
若き日の永井荷風も読んだ、アメリカン・ジャポニズムの女流作家オノト・ワタンナの小説が、中田流翻訳で現代によみがえる!

 

 


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2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。