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中田耕治ドットコム とは

作家・批評家・翻訳家として、多彩な活動を続けてこられた中田耕治先生の「今」を
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中田耕治 (なかだこうじ)とは
中田耕治

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中田耕治を語る
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作家。1927年、東京に生まれる。
戦後、最年少の批評家として文壇に登場し、『ショパン論』『ゴーゴリ論』などがある。
演劇の演出家としては、「闘牛」(3幕)の演出が代表作。作家として『危険な女』、『異聞猿飛佐助』ほか。評伝『ルクレツィア・ボルジア』、『メディチ家の人びと』、『ブランヴィリエ侯爵夫人』など。また、近作に『ルイ・ジュヴェとその時代』がある。翻訳家としては、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーなど多数。編・訳も多く、近作に『スコット・フィッツジェラルド作品集』、『アナイス・ニン作品集』がある。

中田耕治執筆本
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中田耕治共著

中田 耕治 訳 / オノト・ワタンナ 著
若き日の永井荷風も読んだ、アメリカン・ジャポニズムの女流作家オノト・ワタンナの小説が、中田流翻訳で現代によみがえる!

 

 


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2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。