1943〈少年時代 29〉

バルザックは「従兄ポンス」で書いているように、「ある先天的な感情、つまり好奇心という、人間の性質のうちでもっともつよい感情」が異常なほどつよかった。好奇心はそれこそ作家の資質を形成するもっとも重要な要因をなしていた。

小学3年生の子どもの内面に、なぜか深い変化が生じた。
それまでの、平穏無事な世界から、不意に、すべて無関心からできている別の世界に落ち込むようなことがどうして起きるのか。
すべての事柄から、いきなり日常の効果が失われ、そこに自分の姿を認めさせてくれるものが消滅して行く。

私は、自分の置かれた環境に不適応感をもった。そして、自分が、ある種の人びとからいつも距離をおいた形で見られていることに気がついた。
このことは、後年になっても私に影響したと思う。

 

 

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1942〈少年時代 28〉

当時、巷で流行っていた歌を思い出す。
「二村定一」(ふたむら・ていいち)が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、子どもたちもよく歌った。それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーも、よく歌ったものだった。

1934年、千田 是也が、「東京演劇集団」を結成して、ブレヒトの「三文オペラ」を演出したとき、エノケン(榎本健一)と一緒に二村定一を起用した。当時のエノケンの人気は、たいへんなものだったが、二村定一がいなかったら、エノケンもあれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、オリジナルは二村定一とデュエットで、私のような小学生も、エノケンのファンだったから、「青空」を歌ったものだった。

彦三郎先生は、そんな私の軽薄なところがお嫌いだったのではないかと思う。

今、思い出そうとしてもこの先生に親しみを覚えた記憶はない。綺麗さっぱり消えている。むろんどんな授業を受けたのか、教室での思い出はほとんどない。
3年生の学期の最後に、私は優等生ではなくなっていた。通信簿には、乙という評価が並んでいた。

1941〈少年時代 27〉

仙台弁で、オボンコということばがある。私は、級友のひとりから、
おめはぁ、オボンコだかんな。
といわれた。先生に贔屓されている、という意味だった。私は、自分が担任の先生に特別に贔屓されているのだろうか。そういわれてみると、同学年の女子クラスの先生たちも、私の名前を知っていたようだった。
もう、退職まぢかだった内馬場先生、40代で、結婚しないまま、小学校の教員を続けていた沢田先生も、声をかけてくれるようになっていた。
級長になった生徒なので、職員室で、先生たちが、生徒のことを話したところで不思議ではない。
しかし、私は、「オボンコだかんな」という言葉に、はじめて自分が周囲からどう見られているのか意識するようになった。
小学3年生の子どもの内面に、なぜか深い変化が生じた。
それまでの、平穏無事な世界から、不意に、すべて無関心、あるいはささやかな差別からできている別の世界に落ち込むようなことがどうして起きるのか。

私の妹の純子は、小学校に入った。
当時のクラスは男女組という「男女共学」のクラスはあったが、女性の教員が男女組の担任になることはめずらしかった。こんなところにも、当時の教育の封建的な空気がうかがえる。
純子の担任は、これも柔道5段の大浦先生だったが、かなり厳しいスパルタ教育だったらしい。
おとなしい純子は、自分の担任だった小学校の先生たちに特別な感情を持っていなかったが、小学校教育はひどいものだったという。
純子は、初老の内馬場先生、40代の女性教員、沢田先生たちに教えられたが、何かにつけて、兄(耕治)に比較されるので、小学校の先生たちにひそかな恐怖をもつようになったという。
私は、内馬場先生、沢田先生たちに可愛いがられた。

小学3年生になった。
担任は彦三郎先生。この先生の思い出はほとんどない。じつは先生の姓が佐藤だったか、鈴木だったか、もうおぼえてもいない。
彦三郎先生の思い出もほとんどない。
当時の小学校教諭、とくに中年から上の世代の先生たちは、きまって鼻下にチョビひげを貯えていた。彦三郎先生は柔道5段。チョビひげのせいで、威厳があった。同じ3年の女子クラスの担任だった大浦先生がやはり柔道5段で、ふたりとも県の体育関係の先生として有名だったらしい。

先生のほうも、私にまったく関心がなかったのではないか。父親が外国系の会社に勤務している家庭で、比較的にリベラルな家庭環境に育った子どもになど、関心を持たなかったのだろう。
彦三郎先生が直接、私を避けているとか無視しているわけではなかった。しかし、クラスにいる間、何か間接的な不安が自分のまわりに立ち込めている。そのあらわれは、漠然としたものだった。ただ、彦三郎先生の視野に私は入っていない。
小学3年生の私は、そこにさだかならぬ、捉えどころのない、なにかにがい味を感じていた。

彦三郎先生は、いつも私を避けているようだった。先生が何か質問をする。生徒たちがいっせいに手をあげる。先生がその一人を指さす。生徒が答える。不正解の場合は、すぐ別の生徒が当てられる。別にめずらしい光景ではない。ただ、私が手を上げても、ほとんど当てられなかった。
はじめのうちは気がつかなかったのだが、やがて私は彦三郎先生にうとまれているような気がしてきた。
おとなしい生徒だったから、めだたなかったわけではない。むろん、反抗的な生徒だったとも思えない。
ただ、学校で彦三郎先生と、直接、口をきいたおぼえがない。私は先生に無視されつづけた。
自分に何の過失のおぼえもなく、こちらから先生をきらっているわけでもないのに、何か取り返しのつかない違反を犯したのかも知れない。私は、不意にクラスの仲間たちから切り離されたようだった。

当然、成績が落ちた。

1940〈少年時代 26〉

私の家は、「真福寺」というお寺の斜め前だが、広瀬川に面した崖ッ淵に建っていた。すぐ後ろ側が、「真福寺」の墓地になっている。墓地としては、それほどひろくなかったが、それでも、墓場なのでほとんど人の姿を見ることはなかった。
この墓場のはずれから、住宅地がつづいていたが、その境界に、一本、白木蓮の古木が立っていた。江戸時代に植樹されたという。みごとな古木で、しっかりした枝を四方に張り出して、あたりの墓や、住宅をしたがえて、そびえ立っていた。

昼間でも、その老木の下蔭は暗く、その樹の周囲は光を遮断しているようにみえた。

ある日、私は、墓地の近くに住んでいた同級生のところに遊びに行った。たまたま、その子が不在だったので、墓地の中を歩いて帰ろうとした。
あの白木蓮の近くに誰か立っているようだった。

曇った日だったから、誰かが佇んでいたのか。私は、もう少し近くまで寄って行った。
大きな樹木の下に、みすぼらしい白衣の老人が佇んでいる。身の丈ほどの古びた杖を地面につけて、片手でにぎりしめている。
ややうつむき加減で、顔の表情はわからなかったが、顔の半分は、灰色のひげで覆われていた。とくに、顎から長いひげが垂れていた。私は、おもわずどきっとして、足をとめた。むしろ、足がすくんだといったほうがいい。
蓬髪で、みすぼらしい白衣だが、乞食ではない。仙人のようだった。
その老人を押し包むように、ほのかな光を発しているようだった。
このときの私が感じたものは、しいていえば、畏怖とでもいおうか。
この老人はこの世のものではない、という気がした。あたりは墓場なのだから死人が幽霊になって、この世をさまよっていても不思議ではない。しかし、幽霊ではなかった。
私は恐怖をおぼえたわけではなかった。ただ、それまで一度も経験したことのないことにぶつかった。何か、この世ならぬものに出合っている。何か超自然の現象が老人の姿を借りて、みじろぎもせず立ちつくしている。

正視してはならないものを見てしまった。全身がふるえた。私が見ているのは、一人の老人だったが、一人の老人の姿であって、同時にすべての老人の姿でもあった。私は、何かわけのわからない現象が、この老人の姿になって、出現したのだと思った。

私は、老人に気づかれないように、後ずさりをしながら、近くの墓に隠れるように身をかがめた。ほんの5秒ばかり経って、もう一度、木蓮に目をやった。
老人の姿はなかった。

小学生の見たあの老人は、その後一度も現れたことはない。
子どもの記憶なので、あくまで不確実なもの、不安定なものにすぎない。もの書きとして、それはよく知っている。それに、私の観察や、その情景を正確に表現できるとは思っていない。ただ、中国の絵に出てくる仙人のような老人だったことだけが心にのこった。
そして、このときのいいしれぬ畏怖は、それからも私から離れなかった。
しばらくして、あの老人は、木蓮の樹の精だったのだ、と思った。

現在、私が住んでいる家の玄関先に、木蓮が植えてある。毎年、春の気配がただよいはじめると、まっさきに純白の花が開く。2021年、すでに白頭翁と化した私は、その輝きが好きで、しばしば玄関先に立つ木蓮の下に立って、純白の花を仰ぎ見ることがある。
そして、あの老人の姿は、ひょっとして私自身の「現在」ではなかったか、とも思う。

 

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