圷 香織

 こうして中田先生への文章を綴ろうとするとき、できあがった文章を先生には読んでいただけないのだと思うと、なんだかとてつもなく不思議な心持ちになります。それほど先生は、わたしたち弟子の文章に、ありがたいほど必ず目を通してくださったのですね。訳書の一冊一冊を必ず読んでくださるものですから、かえって、送ることが負担になるのではと悩むこともあったくらいでした。速読、速筆であることは常日頃ご自身でもおっしゃられていたけれど、その凄さはもちろん、並みいる弟子たちを大切にしてくださった先生の姿勢そのものに、年を取れば取るほど感じ入るばかりなのです。
 私事ながら、昨年の六月ごろだったでしょうか。東京創元社から『紅はこべ』の新訳のお仕事をいただきました。この小説の初邦訳は村岡花子氏によるものですが、中田先生も筑摩書房から一九六九年にお訳を出されています(のち、一九八九年に河出書房新社からも文庫化)。先生がお訳しになられた作品を自分がやるのだと知ったときの衝撃を、ご想像いただけるでしょうか。
 喜びと、恐怖──。
 少なくとも先生からなんらかの助言と励ましをいただけないかぎり、わたしにはできないのではないかという思いが、ちらちらと胸をよぎったものでした。
 ちょうどそのころ、訳書が一冊上梓されたこともあり、先生にお手紙をしたためていました。しばらくしてから届いたお返事には、正直に、自分の体の調子がよくないことが書かれていてハッとさせられたのをよく覚えています。
 会いに来なさい。
 そんなメッセージを感じました。
 もちろん、わたしのほうのお会いしたい気持ちが強過ぎて、そう感じただけかもしれませんが。
 それにしても当時、世の中はコロナ禍で緊急事態宣言の真っただ中。しかも、自分からお会いしたいなどと僭越なことはいままでに一度もお願いしたことがない若輩のわたしです。
 けれど、いまお会いしないしなければ一生後悔しそうな気がする。
 誇張ではなく三日三晩くらい真剣に悩んだあげく、清水の舞台から飛び下りるくらいの気持ちで、『緊急事態宣言が明けたころにお見舞いに伺ってはいけないでしょうか。じつはわたしにもご相談したいことがあるのです』というお手紙を送ったのでした。
 いま思うと、ご体調が悪く大変だったはずなのに、先生はすぐにお返事をくださいました。しかもそこには『相談があるのなら喜んで乗るよ。ただし早いほうがいい。はっきり言ってこの夏を無事に過ごせるかどうか』というようなことが書かれていたのです。
 どれだけ動転し、慌てふためいたことか──。
 先生はよく「ぼくはもう先が長くないから」などと言われていたけれど、今回ばかりは本気だと感じました。
 そこでわたしも覚悟を決めて電話をかけ、お会いしたい旨をお伝えしたのでした。
 けれど、結局はお会いできなかった。
 まさか、お約束していた当日に台風が千葉を直撃するなんて。
 これはやはり、いまは会いに行ってはいけないという神様のお告げなのだろうと本気で思ったくらいです。
 それからもう一度、今度は緊急事態宣言が明けてから日を設定しようとしましたが、先生のご体調が悪くてかなわず。
 ああ、これはもうしばらくは無理だろうとあきらめていました。
 ちなみにそのかん、わたしは訳を進めているわけですが、先生のお訳をお守りのように手元に置きながらも、いっさい読んではいません。というよりも、読めませんでした。なにしろ、読んだらひきずられるに決まっていますから。じつをいうと我慢できなくて、ちらっとだけ、適当なページを開いて読んでみたのです。けれど、三行読んでパタリと本を閉じました。やばいやばい。やっぱりやばい。読んだら絶対に、わたしの訳ができなくなってしまうと(もちろんのちの推敲の段階では熟読し、しっかりと参考にさせていただいています)。
 そんなある日、田栗さんから突然の連絡が入りました。明日、何人かで先生とお会いするのだけれど、先生が「圷さんを忘れていた」と突然言い出したと。しかも、原稿を二ページ読んでくださるというではありませんか。よくぞ思い出してくださいましたと、その晩、二ページの推敲に余念がなかったのはご想像がつくと思います。
 先生に原稿を見ていただくのは何年ぶりだったのでしょう。
 ここ十五年はなかったはずです。
 けれど、あのトキメキは変わっていませんでした。
 あの時間を、わたしは一生忘れないでしょう。
 先生は、「いい訳だから自信を持っていい」と励ましてくださったうえで、いくつかの助言をくださいましたので、ここで少しご紹介させてください。
 該当の文章のなかでは馬車が疾走しているのですが、先生は、わたしの訳文では「馬車が疾走していない」、「きみのはのんびり走っているよ」と。「木の橋を疾走する馬車の表現がこれでは足りない」。もっと動きを意識すること。そのうえで、行間を訳しなさいと強い声でおっしゃいました。そこに含まれている登場人物の感情、あたりの匂い、速度、空気を感じ、訳し込みなさい。「できるはずだ」と。
 それからもうひとつ。
「きみらしくやりなさい」
 これはもうだいぶ昔になり、いったいどういうタイミングだったのかも覚えていないのですが、中田先生から一枚の色紙をいただいたことがあります。
 言葉は
『順其自然』
 この言葉については、ずっと自分なりに考えてきました。
 あるがままに。
 なるようになるさ。
 というのが原義でしょうか。
 けれど日本語というのはたおやかなので、其、は多くのものをふっくらと抱合しているように思います。
 そこでわたしとしては、
 Let it be + Let you go
 のようなメッセージを感じつつ、ずっと大切にしている言葉なのです。
『紅はこべ』の上梓は九月を予定しています。  
 先生、わたしらしい訳はできたでしょうか?
 誰よりも、心の底から先生に読んでいただきたかった。
 この訳業は中田耕治先生に捧げます。

 最後に、以前訳した小説のなかで出会った、ヘンリー・スコット・ホランドの“Death Is Nothing At All”という詩がありますので、拙訳で恐縮ではありますが、その詩を添えて、みなさんと中田先生を偲ぶ思いを分かつことができましたら幸いです。

 死がなんだというのでしょう
 わたしはただ、隣の部屋にそっと移っただけ 
 いまだって、わたしはわたしで、あなたはあなた
 互いの関係だって、何ひとつ変わりはしない
 呼びなれた、いつもの名前で呼んでください
 これまで通り、気さくに話しかけてください
 どうか声音を変えないで
 重たい哀しみの衣をまとわせないで
 一緒に冗談を言い合ったときのように笑ってください
 よく遊び、微笑みを忘れず、わたしのことを思い、そして祈ってください
 わたしの名前が、これからも当たり前のものでありますように
 ごく自然に、影を落とすことなく呼ばれますように
 人生は、いままで通り目の前にのびています
 変わることも、途切れることもなく続いていきます
 会えなくなっただけで、わたしがあなたの心から消えてしまうとでも?
 待っていますよ、ほんのしばらくの間
 どこかとても近いところで
 すぐ先の角を曲がったところで
 全ては、あるがままに

   二〇二二年 七月

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