田栗 美奈子

「原稿が書けないときは、『書けない』ということを書けばいいんだよ。とにかく何か書きなさい」
 中田耕治先生はそうおっしゃっていた。
 先生と出会ってからの30年を振り返ると、さまざまなことが思いだされ、膨大な言葉が怒涛のように押し寄せてきて、逆に言葉を失ってしまう。だから――先生、書けません。それに、本当は先生の「追悼」なんて書きたくありません。
 訳すときも書くときも、中田先生が読んだらどう思われるだろうと考えては、ひそかに冷や汗をかいていた。訳書をお送りするとすぐに読んでくださり、「何ページのあそこ、僕だったらこう訳すかな」と目の覚めるような指摘が飛んできた。とあるところに寄せたささやかなエッセイ、先生に気づかれませんようにと祈っていたが、千里眼の先生はもちろん発見してしまい、そしてほんのちょっぴり褒めてくださった。心の底から安堵した。
 今、この文章は、先生の指令で書いているのに、先生はもうこの世にいない。なんということだろう。でもかならず読んでくださる。いや、今すでに読んでいらっしゃるかもしれない。「サイズを考えて書きなさい」、「どこかをぎらりと光らせなさい」、そんな声が聞こえるようだ。

 思い出は尽きないが、やはり、最後にお目にかかった、昨年11月の先生の誕生会のことを書こう。毎年ひらいてきた会が、2020年はコロナ禍で開催できず、そして2021年もまだ状況はきびしかった。それに先生のお身体も心配だった。少し前から体調を崩されがちで、一度ならず入院もなさった。いくら超人で鉄人の先生でも、94歳間近というお歳を考えたら無理は禁物だ。やめておいたほうが……と思ったが、先生はいつもの暴走機関車ぶりを発揮して、どんどん乗り気になっていった。
 最初のうちは、少人数で、とおっしゃっていたが、しだいに先生の脳内で会の規模が膨らんでいき、わたしは内心焦った。本当に大丈夫なのか。だが、先生は「これが最後」と心に決めておられるようだし、どうしても開催しなければ、とこちらも腹をくくった。日程が迫るなか、飲食はせず歓談だけにすることが決まり、広めの貸会議室をどうにか確保したが、声をかけられる人数は限られてしまった。講演会は体力的にきびしいと先生に言われ、苦肉の策で、グループごとに交代で先生とお話する形式をとることになった。

 そして迎えた当日の朝。先生は顔色がすぐれず、「今日は猛烈に具合がわるい」とおっしゃる。どうしよう。ところがいざ会が始まると、急にしゃきっとされ、ひとりひとりに近況を聞き、アドバイスを与え、冗談を飛ばし、思い出を語り、パワフルにお話を続けられた。
 あっという間の2時間。閉会に一言だけご挨拶をいただこうとすると、ずんずん前に出ていかれ、なんとご自分の生い立ちから語りはじめた。語学堪能だったお父様のこと。百貨店のデザイナーだったお祖父様のこと。いくらでも話は尽きない。ああ、やっぱり講演会にすればよかった、と悔やんでいると、先生から「あと何分?」と訊かれた。会場を使える時間が残りわずかになっていた。「すみません、あと5分なんです」とあたふた答えると、先生は「えっ」と驚き、苦笑いされたが、「はしょるのは私の才能のひとつ」とおっしゃり、みごとに話をまとめてくださった。

 その貴重なスピーチで、特に印象深かったのが、「これからの10年」についてのお話だ。3か月後のウクライナ侵攻を予見するかのように、戦争、すなわち「恐怖の世界」がすでに始まりつつあることを語られた。そのうえで、「君たちにはまだ時間がある。これからの10年、皆さんがどう変わっていくか見られないのは残念だが、こんなに面白い時代がありますか」と力強く話された。
 時代の動きを常に鋭いまなざしで見つめ、文章にしてこられた先生は、まだまだ書きたいと思っておられるのだと強く感じた。そしてわたしたちに、自分の生きている時代をしっかり見すえ、せっかく与えられている時間を有意義に生きよ、と伝えようとしていたのだと思う。

 翌日お電話すると、かなりお疲れではあったが、「昨日は本当にありがとう。〝最後の会〟として、とてもよかった」とおっしゃった。「いえいえ、みんなまた来年を楽しみにしています」と申し上げたが、先生の声には何か一つやり遂げたというような、晴れやかな清々しさがみなぎっていた。

 それから三週間後。先生からただならぬ様子で電話があり、旅立ちの支度をしたい、頼みたいことがあるから来てほしい、と言われた。胸騒ぎがしたが、きっといつもどおりすぐお元気になられるに違いないと信じ、その週末にうかがう約束をした。村田悦子、吉永珠子と三人でご自宅を訪ねると、ご家族から思いもよらぬしらせを告げられた。その前々日、先生は自ら救急車を呼び、その日のうちに天に召されたのだった。根っからの「演出家」だった先生は、「その時」が迫っていることを予感されて、終幕の場面も自分で「演出」すべく、わたしたちに何かを託そうとしておられたのだろう。
 そのご指示をうかがえなかったことは痛恨のきわみだ。間に合わなかった……まだまだ、お会いできるつもりでいた。一方で、こんな形でお別れすることになったのも、やはり先生の計らいだったようにも思われる。先生から残された宿題はあまりにも大きく、途方に暮れそうになるけれど、しっかりしなくてはと心を奮い立たせる。

 長年ワープロを愛用され、故障しては何台も買い替えておられたが、最後の一台を買ったのはほんの2か月前だった。ブログの原稿を書きつづけ、常にアイデアをふくらませておられた。本を読み、映画を見、音楽を聴き、テレビを眺め、好奇心を絶やすことがなかった。読むのが遅くなったと嘆いても、一日三冊だったのが一冊になったというハイレベルな話で、とにかく頭の回転も記憶力も好奇心も、ずっと変わらず驚異的だった。教え子の仕事や生活をいつも気にかけ、老後のことまで心配して、「きみたち、年をとったらいっしょに暮らすといいよ。グループホームっていうんだろ」などとしきりに勧めてくださった。翻訳は孤独な仕事だから仲間の存在が大切だと、教え子たちが互いに親しくなれるよう常に心を配っておられた。先生なんて向いていないしなりたくもなかった、と口癖のようにぼやきながらも、ひとりひとりの資質を見通す目と、愛情に裏打ちされたきびしさと、ありえないほどの面倒見のよさで、実に多くの翻訳家や作家を育てられた。

 少し前に入院されたあといただいたお手紙に、「今後は二度と入院しないつもり」と書いてあった。その宣言どおり、病院に行ってわずか半日で旅立たれるとは、本当にお見事としかいいようのない、あっぱれな大往生をなさったと思う。すべてが常人を超えた、あまりにもすごい人だった。そんな先生と出会い、長きにわたるご縁をいただけたことは、自分の人生に起こった奇跡にほかならない。その奇跡にひたすら感謝して、先生の教えをかみしめながら、一歩ずつでも前に進んでいかなければと思う。
 それでも、迷うことばかりの日々。机に飾った先生の写真に問いかけては、返事が聞こえるのではないかと耳をすます。

 かつて大切なご友人の追悼文の終わりに、先生はこう書いておられた。「しばらく君に別れを告げないことにしよう」
 そのまねをして、わたしもしばらく先生に別れを告げないことにしよう。そうしているうちに、きっとまたお会いできる日が来るだろうから。そのときは久しぶりにビールで乾杯して、あれこれの答え合わせをさせてくださいね。

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