谷 泰子

 初めて中田先生から、「文章を書きなさい」と仰せつかったのはいつだっただろうか。二十数年前、バベルの研修過程の中田先生の講義『現代アメリカ文学翻訳上級』に、おずおずとお邪魔するようになって、二年ほど経った頃だろうか。「ネクサスに載せるから、なんでもいいから書いてみなさい」ということだった。

 当時長男が生まれて産休を取り、一年で復帰したものの四面楚歌で行き詰まり退職。あとはもうこれしかないとすがったのが、翻訳だった。初めて教室に入ったときはあまりの緊張感に凍りついたし、それからしばらくは毎週、瞬き不足で終わったら目がバキバキしていたものだ。

 おずおずしているだけのいち生徒だったが、四回めくらいか、訳稿に名前を入れ忘れ、先生が壇上で「これ誰?」と仰った。「わたしです」「ああきみか」……で、まあ普通に玉砕?したあと、帰ってきた訳稿を見てびっくり。ほぼ空気以下の存在のつもりだったわたしのフルネームを、先生はその場で何も見ないで、ささっと記入されていた。正直、「こわ!」と思った。その後しばらくしたのち、少し親しくなった仲間と帰る道すがら、話し合ったのを今でも覚えている。「わたしたちなんか、よく考えたらこのまま消える方が近道なんだよね」と。でもその時思った、でも消えたら、せっかく?先生の頭に少し残ったわたしの漢字のフルネームも、そのうち消えてしまう。悔しいから、とにかくわたしは消えないぞ、とおかしな決意をしたものだった。

 話がそれた。自分の文章を書くなんて無理だ。原文があったってうまく日本語にできないのに……と思いながら(これは今でもそう)、子どもと煮詰まっている自分の現状らしきものを書いた気がする。このとき気づいた。書くと頭の中が整理されるのだ。ぐちゃぐちゃの物置状態だった頭の中に、棚を入れてものをある程度きちんと収めた、みたいな感じだった。

 提出し、駄文を載せていただき、しばらくして先生から、「書いてどうだった?」と訊かれた。わたしは、「書いたら頭の中がすっきりしました!」と嬉しそうに答えた。すると先生は、「でも文章は読んでもらうものだからね」とだけ仰った。ものの見事に言い当てられた。頭の中が整理できた気がして喜んでいたわたしは、書くことで自分にどんな効果があったか、ということしか考えていなかった。そんなものを読まされる人のことなど頭になかったのだ。

 それからもわたしは中田先生の出来の悪い生徒であり続け、十年目くらいだろうか、有楽町の交通会館脇を歩きながら、「きみもういい加減、もうちょっとなんとかなってくれないかな」とのお言葉を頂戴した。ごめんなさい。しか言えない。このころからわたしは宿帳にも、折々の文章にも、「先生いつまで経っても出来が悪くてごめんなさい」といった趣旨の文言を書くようになったと記憶している。

 バベルから離れシャールとなって数年、いつしかわたしは事務方の会計担当を仰せつかっていた。ほっといたら消えたくなるわたしのために、先生が退路を断ってくださったのだ、と今も感謝している。相方の笠井さん迷惑かけてごめんなさい。

 そんな折、先生がどなたかに仰っているのを聞いた。「きみがそれを書かなかったら、その事実は起きなかったことになってしまう。書くことで事実になるんだよ」というようなニュアンスだった。なかなかの衝撃を受けた。そんなことを、わたしは考えたことすらなかった。

 どんな形であれ文章になっていれば、起きなかったことにはならないのだ。頭の中に置いているだけではだめなのだ。だからだ、読んでもらえる文章に少しでも近づかなければならないのだ。文章を書く意味を思い知らされた。

 実は、中田先生の訃報に触れてしばらく、わたしは受け入れるのを拒んだ。卑怯なことに自分だけでも、中田先生はご存命だという体で暮らしていけないか、いけるところまでそれで押し通そう、と思ってしまった。コロナ禍でもあり、お会いできない期間が長かったのも後押しになった。――ということも、前述の経緯もあり、恥ずかしながら書いておこうと思う。

 ほかに書いておかなければならないことは何だろうか。なかったことにしたくない、してはいけないことあれこれ。沢山ある気がする。本当に沢山。こんなわたしごときだが、わたしが拝見し、触れてきた中田先生の姿。なかったことには絶対にしたくない。

 何度か書いたが、バベルに通い始めるとき、通信で研修過程に行ける資格は取れていたが、事務局の人にいきなりは無理、と言われて半年間通常過程を受講した。その初日、バベルの入ったビルの真ん中を突っ切る今思えば不思議な階段の途中で、わたしは写真すら見たことがない中田先生と遭遇し、なぜか「あ、中田耕治先生だ」と認識したのだ。だからどうというわけではないが、運命的な気がするし、実は今でもちょっと自慢にしている。

 中田先生は折に触れ、「ノートを取ってね」と仰って講義をされた。頑張っていつもとっているのだが、情けないことに後から考えたら、どうも肝心なことは書きそびれている気がしてならなかった。やっぱりだめな生徒だ。ノートはもちろん、大事にとってあるのだけれど。

 いつかのネクサスで中田先生について書いたとき、「珍しく褒められると、嬉しくて走って帰る」と書いたことがあった。猿楽町から新御茶ノ水まで、けっこうなスピードで帰ったことが何回かあったのだ。男坂もスイスイ行けた気がする。猿楽町ではなくなってからだったか、先生とお話しさせていただいていた時、にっこり笑ってこうおっしゃった。「今日も走って帰る?」

 泣きたくなるくらいうれしくて、「はい!」と答えた。そして家まで、走れるところは本当に走って帰った。

 先生に笑ってもらったことと言えばこれも。

 宿帳に小学校低学年の息子とのやりとりを書いた。「わかんない」「ちゃんと読めばわかるよ」「うーん」(息子、床にプリントを置いてしゃがんで読みだす)「そんな恰好で読んでるからわからないんだよ」「そんなゴチャゴチャ言うから余計わかんないんだよ!」

 次の授業で、先生はチェーホフの戯曲のワンシーンにこれをつけ足されていた。

 授業後の雑談。先生にではなく仲間に、地下鉄の話をしていた。「神保町から半蔵門線に乗って帰ろうとすると、なぜか毎回、必ず反対に乗って九段下に行っちゃうんだよね」とわたし。そのとき斜め後ろに座っていらっしゃった中田先生が、フフッと笑って下さった。反対の電車に乗っていてよかった、と思った。

 なかったことにはしたくないことを、つらつら書いてきた。まだあるけれど、追悼文をと言われているのにこんなことばかり書いて呆れられている気はする。また謝りたくなる。中田先生ごめんなさい。

 先生の存在が大きすぎて、そして自分が微生物レベルに小さすぎて、先生が道標です、なんて大それたことは言えない。でも、先生に笑っていただいたエピソードは宝物だし、先生に教わったたくさんのことは、もっともっと光り輝く宝物だ。

 二十数年前、講義で「女子大の優等生みたいな訳」と言われた。通い始めた当初はそれさえ言っていただけなかった気はするけれど。

 そして昨年十一月、最後に中田先生とお話しさせていただく機会があった。ご尽力くださった皆さんありがとうございました。そのときわたしの直近の訳書を読んでくださっていた先生は、「きみの訳は女子大の優等生みたいだから」と仰った。全くやっぱりわたしときたら、ぜんぜんどうにかなっていない。頭を掻きながら恐縮するしかなかった。せめてもうちょっと、どうにかなっていたかった。次の機会があったとして、どうにかなっていられた自信はないけれど。いや、いっそのこと、どうにかなるまで叱り続けていただきたかった。(ひどい)

 それでも中田先生、わたしは翻訳を続けていきます。中田先生に出会っていただけたからです。先生に教わることができたからです。先生とわたしの接点が、全然大したものではないにせよ、そこにあるから。それをなかったことには絶対にできないから、わたし自身がいなかったことにはできないのと同じくらい、いやそれ以上に、大切だと思うからです。

 だから、なかったことにしたくないことをとにかく書きました。拙文ご容赦ください。やはりまだ自分のためだけに書いています。

 中田耕治先生、本当に本当に、ありがとうございました。どさくさに紛れて言ってしまいます。大好きです。そして、こんな生徒でごめんなさい。

 ああやっぱり、謝らないではいられない。

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