笠井 英子

 中田耕治先生が亡くなって半年が過ぎた。
 御年94歳。学校の先生はじめこれまで数多くの先生と呼ばれる人たちと接してきたが、わたしが先生と呼べるのは中田先生だけ。
 若かりし頃、翻訳家に憧れて、ある翻訳学校の超人気講師だった先生の講義が受けたくて、運よく先生のクラスに入れて、嬉しくて一生懸命勉強した。先生がご自身で翻訳の教室、SHAR(シャール)を開くと聞くとすぐさまその教室に駆けつけた。その中でクラスの仲間たちが次々と翻訳家としてデビューしていったが、わたしは自分の力のなさを思い知り翻訳の道をあきらめた。けれど、シャールの世話役を引き受けたこともあったが、先生がシャールをやめるとおっしゃるまでの25年、そこを離れようと考えたことは一度もなかった。
 シャールでは翻訳の授業の他にもう一つの授業があって、それがおもしろかったのだ。「君たちはこんなの観たことないでしょ」と先生選りすぐりの映画のビデオを観たり、エッセイを書いたり、グループで小説を完成させたり、ある時は、いきなり絵を描こうと言いだされ、クラスメイトの似顔絵を描くことになった。これには参った。とにかく絵が大嫌いだったから。ヘタクソな、誰を描いたかわからないようなわたしの絵に、先生は絵の具でちょん、ちょんと色づけして「ほら、なかなかいいでしょ」となんだか楽しそうにおっしゃった。そしてその絵はモデルになってくれた人に渡されたのである。その人には今でもごめんなさいと思うが、わたしの家の引き出しには友人たちが描いてくれたわたしの似顔絵がある。そこに描かれている顔にはしわもなくシミも一つもなく、瞼のたるみもない。自分の言うのもなんだがいい顔をしている。
 授業が終わると、月島で行っていた頃はみんなで銀座へ出て画廊巡りをしたり、春には桜を見て、夏には冷たいビール、冬は忘年会。みんなの真ん中にはいつも先生がいた。そして宴席になると真ん中にいた先生は動き出してそこにいる一人ひとりとお話しになった。
 先生はみんなを翻訳家に育てようと親身になって教えてくれたのにそれに応えられなかった心苦しさはある。けれど、先生と過ごせた時間はわくわくした。自分の知らない世界を知るおもしろさを教えてもらった。夢中になれる楽しさを教えてもらった。
 「お元気ですか?」と聞くとは先生はたいてい「元気ありません、ハハハ」と笑ってお答えになる。その穏やかなお顔と温かいお声。

  先生、わたし、今でも絵を描くのは苦手ですが、たまに美術館に足を運ぶようになったんですよ。

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