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中田耕治を語る

タクサンノコトバ

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出会いの風景

 三十年ぶりとなるリメーク版が世界同時公開されて、話題を呼んでいるホラー映画「オーメン」。その原作(デヴィッド・セルツァー著)の翻訳者である中田耕治先生に初めてお会いしたのは、もう二十年も前のことだ。大学で英文学を専攻したものの、不勉強なまま卒業し、後悔していた私は東京・神田にある翻訳学校に通い始めた。人気の高い中田先生のクラスにすぐに入れたのは、今思えば本当に幸運なことだった。
 授業の初日、ラフなジーンズ姿にトレードマークのぴったりした毛糸の帽子をかぶり、さっそうと教室に入ってこられた先生は、いきなり「訳文をください」と言って、私たちの訳稿を集め始めた。そして、それを次々に読み上げていったのだ。当てられた人が訳を発表するという、普通の授業ではなかった。
 先生は、めったに誤訳を指摘されない。何人もの訳を聞いていれば、自分の訳のまずさや間違いはおのずと分かってくるからだ。他の人の訳と比べて読み上げられるとなれば、いい加減な訳は出せないし、自分の訳がいつ読まれるかと思うとドキドキする。その緊張感は、本当にいい刺激となった。
 そのかわりに先生は、原文に書かれていない状況や人物像を徹底的に質問してくる。この部屋の広さは? 壁の色は? この人の髪型は? 身長は? 年齢は?…。つまり、そこまで想像力を働かせて、自分の中で確かな情景や人物の姿が描けてなければ、良い訳はできないということだ。
 こんなこともあった。老人のせりふを「ワシは…じゃ」と訳した生徒に、先生はその老人を何歳くらいと思うかと尋ねた。生徒は「六十歳」と答えた。すると先生は、ハハと笑って「じゃあ、僕も明日から『ワシは何々じゃ』って言うことにしよう」とおっしゃった。
 まさに目からうろこだ。私たちは深く考えずに「old man」といえば六十歳くらいと考え、そして老人なら「ワシ」とか「〜じゃ」という言葉遣いをすると決めつけている。しかし実際、六十歳の人が「〜じゃ」と言うだろうか。八十歳でも言わないかもしれない(徳島の方言「〜じゃ」は別にして)。
 翻訳学校に数年通った後も折にふれ、声をかけていただき、他の教え子たちとともにいろいろ挑戦させてもらった。俳句作りからオペラ談義、画廊巡りに山歩き、何でもござれ。百聞は一見にしかずというが、見るだけではなく実際に体験してみないと分からないことも多い。そして、そんなことが文章や訳作りに役立っていく。翻訳の仕事は本来、一人で机に向かう孤独なものだが、私たちにはこうして先生を中心としてネットワークがある。相談したり遊んだり。仲間は本当に大きな財産だ。
 中田先生は戦後すぐ、十代で文芸雑誌『近代文学』に評論を書いて注目され、その後、青年座などで多くの舞台演出を手掛けられた。そして早川書房のミステリー翻訳(後のハヤカワ・ミステリー路線のさきがけとなる)を皮切りに、多数の本を訳されている。
 また、ルネサンス期のヨーロッパ文化に精通し『ルクレツィア・ボルジア』や『メディチ家の人びと』などを書かれ、二〇〇〇年には『ルイ・ジュヴェとその時代』という二千枚を超える大作を上梓(じょうし)された。フランスの俳優・演出家ジュヴェの足跡をたどるとともに、その背景となる二十世紀前半の”戦争と革命の激動の時代“を鮮やかに描き出して、絶賛された評伝だ。
 数年前に体調を崩して入院されたとき、お見舞いに伺うと、病床で米国作家フィッツジェラルドの分厚い原書を読んでいらした。後に、私も含めて教え子たちが訳し、先生が編んで『スコット・フィッツジェラルド作品集〜わが失われし街』として出版されるのだが、その準備をしてくださっていたのだ。
 今年初めに私が『夕光の中でダンス』(オープンナレッジ社)を翻訳出版した際にも、拙書をお送りしたところ、数日後にはもう読んだとのお手紙をくださった。先生は多忙にもかかわらず、いつもそんな風に気にかけてくれる。その後押しに支えられて、実に多くの教え子がプロの翻訳家や作家として世に出ている。
 昨年、喜寿を迎えられた先生は「僕はもう片足突っ込んでるから」などとおっしゃるが、なんのなんの。今も精力的に膨大な量の仕事をこなされ、私たちにパワーを与え続けてくださっている。今度お会いしたときには、どんな刺激をいただけるのか、今から楽しみにしている。

     

船越 隆子(翻訳家)

徳島新聞(2006年6月14日付)文芸欄

「耕治君」5首

 十年の中田耕治の労作を天眼鏡で読む ルイ・ジュヴェの夢

 真四角に座って耕治君いつも来たっけお姉様御本有難う

 想い出にずいともぐりこむジュベの眼と中田耕治君の坊主頭と

 ルイ・ジュヴェのギョロ眼がうごく点々の記憶のなかの舞踏会の手帖

 ジュヴェに会った頃にフラッシュバックするパリの北駅アルレッティの唇

                   歌誌「香蘭」(平成14年6月号)

堤 瑠璃子

2006/06/19

「茂ちゃんの想い出」より

  中田先生が弔辞を読まれるのを聞いているうちに、私の頭の中にあることがす−と蘇った。これは彼が生前から特別のお願いとして、言い残していったことに違いない。それほど、中田先生には畏敬の念を持ち続けていたのだろうと思ったのである。
 彼は私の父と従兄弟の間柄で、私とは俗に従兄弟違いと呼ばれる関係であったが、いつも他人から問われると、従兄弟で通していた。私は、昭和二十年大学入学にともなって上京し、大森にあった鴻谷という叔父の家に寄宿したが、小川の家とは隣合わせで、その時から彼との交友が始まったのである。その頃私は「俺の仲間に中田というすごいやつがいる。どうしても彼には追いつけないんだ」としょっちゅう彼から聞かされていた。中田先生は、既に学生時代から新聞などにコラムを書いておられたそうで、「自分にはとても同じようには書けないんだ」と相当悔しそうに、半ば自嘲的とも思えるように言っていた。五十年も前の話だが、私は今でもはっきり覚えている。その後の中田先生とのお付合いがどんなであったかはあまり聞くこともなかったが、それほど強い畏敬の念を持っていたのだから、相当深いお付合いであったろうし、死んでからもまだ最後の話がしたかったのだろうなどと、弔辞を聞きながら、当時のことに思いをめぐらしていた。
 その大森時代の生活も長くは続かなかった。

            「茂ちゃんの想い出」 田村 敏夫 小川茂久追悼文集
                初出 『うつつとも知らず』 (平成11年2月)

田村 敏夫

2006/04/10

『無縫庵日記』より

 死という問題について、もっと考えてみよう。このごろは死を考えることによって人間というものの意味が少しずつわかってきたような気がしてくる。(中略)
 十月十八日  今日、中田 耕治さんが千葉から来てくれた。今度ぼくが出版する『私のヘミングウェイ』の表紙の絵を相談してみたら早速承諾して、今日持参してくれたのである。ほんとうに心の底から感謝した。ぼくの単行本の表紙はすばらしいものになりそうな気がする。二人で話をするうちにすっかり気があってしまって楽しかった。会話の最中に中田さんはバッグからカメラをとり出してぼくの写真を一枚撮ってくれた。この写真についての話が長くなるが、この写真の件は昭和六十二年の八月の日記から引用してここへ書いておくことにする。(中略)
 中田さんは『夏至の夜明け』という短編小説を書いておられる。ちょっと転載させてもらうことにする。

 よわよわしい朝の光が寝室の窓からさし込んでくる。もう夜明け。 ベッドに横になったまま、身じろぎもしなかった。眼が冴えきって、どうしても眠れない。
 昨日、ある先輩の作家から思いがけない手紙を受けとったせいだろうか。その手紙は、 「写真をありがとうございました。よく写っています。しかし、年をとると写真を撮られるのはあまりいい気もちではありません。年齢がリアルに出て、いつももうあと何年生きられるかなあ、などとかんがえてしまいます。
 あなたの訳された『パパ・ヘミングウェイ』を何度目か読み返し、ヘミングウェイの死についてお書きになったものも読ませていただきました。ヘミングウェイの死とマリリン・モンロ−の死と似たところもありますね。それは名声とか、名声を得た人間の最後とか、まあむごたらしい死には違いありません。ぼくも年をとってくると、死を考えます。それは自殺に近い誘惑で、不能に対する生きている人間の敵意です。何をしてもつまらぬ毎日です。なにもできません」。
 この手紙を読んだときの彼は、ほとんど声を失っていた。
 手紙をくれた作家は彼より年長で、七十代の後半にさしかかっていた。それでも毎年、連作の長編を発表していたし、最近は自分の敬愛する作家ヘミングウェイについて闊達な語り口で論じた『私のヘミングウェイ』という本を出していた。
 その作家が老齢に達して、毎夜のように眠りぎわに死について考える習慣がついたという。夜と孤独がそうした想念を誘い出すというのだった。
 (中略)
 何をしてもつまらない毎日。そして何もできなくなっている毎日。さりげなく訴えている老作家の死に対する恐怖と孤独の深さが想像できた。(後略)
 そんなふうに小説はつづいてゆくのであるが、ぼくのいいたい部分はそれだけなので、一応ここいらでとどめておこう。何故この『夏至の夜明け』を引用させてもらったかというとまずこの作品を読んで、ぼくが出てきたことに驚いた。そして、ぼくのことを老作家とよばれたことにガクゼンとした。ああ、老作家、老作家・・。われ老いたり。もう何もできない。なにをしても駄目だ。死を待つのみだと考えて泣きたくなった。ああ、ああ。中田さん、こんなことを言って赦してください。ぼくはぼくの人生のうえではすることが一杯ある。書きたいものも山ほどある。それなのに他人にはこう見えるのかという悲しみが湧いてきた。人は何故老いてゆくのであろう。でも、ぼくはまだ元気だ。死ぬまでは何かやれる。(後略)

               『無縫庵日記』  宮 林太郎
                初出 「小説と詩と評論」(昭和63年3月号)

        

宮 林太郎

2006/03/18

『酒蔵と猫』 あとがきより

 何年前のことだろうか。翻訳家になろうかと思っていた私が、中田耕治先生の翻訳講座を受講した日、先生の顔を見る前からとにかく怖くて仕方がなかった。いまだに何故なのかはわからないが、講座案内に載っている先生の写真を見ただけで、胸がざわざわする不穏な気分に捕らわれた。
 案の定、最初の授業で、課題文を訳した私の訳文は滅多切りにされ、辞書を引いて横のもの(英単語)を縦のもの(日本語)に置き換えただけの悪い例と言われてしまった。
 それが、私の出発点となったことは言うまでもない。

竹本祐子(酒造店社長・翻訳家・エッセイスト)

2005年8月

中田先生のこと

 私が中田耕治先生に出会ったのは、ちょうど『女神――マリリン・モンロー』(アンソニー・サマーズ著 サンケイ出版〔現・扶桑社〕が出版された頃だった。
(中略)
 ルネッサンスとはどういう時代であったか。到底、ひとことで言い表せることではないが、闘争と戦争の時代であったことは確かだ。その時代を強く、たくましく、そしておおらかに生き抜いたルネッサンスの女性たち。一方、マリリンは、守ってあげたくなるほど、無防備で傷つきやすく、はかない女性だった。まったく正反対に見える女性のタイプだが、マリリンからルネッサンスの人々へつづく中田先生の女性観、人間観、人生観といったものが浮かび上がってはこないだろうか。

大島育子(翻訳家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

異端文学者の素顔

 先生の授業は、まるで中田耕治自作自演の芝居のようだった。先生は持てる時間を自在に操り、生徒であるわたしたちを一気に中田ワールドへひきずり込んでしまう特異なパワーを持っておられた。先生はあまり多くを語らない。けれどわたしたちが受けるインパクトはずっしりと重い。それは先生の絶妙な呼吸の取り方と、そこから生み出される緊張感によるところが大きいと思う。それに加えて、事象の明暗をとらえる敏感な感性や、毒や翳りあるものへの偏愛に彩られた先生の濃密な存在感といったものも忘れてはならないだろう。

藤田佳澄(翻訳家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

中田先生の世界

 中田先生の世界は万華鏡。
 視覚的な彩りの幻惑に目が眩むような世界。色とりどりのセロファンを好きな形に切って筒に入れると世の中が変わる。いつまでも見飽きない異次元です。でも先生のそれには、セロファンじゃなくて、人間が入って様々の人生を繰り広げる。それに視覚だけではなく聴覚も嗅覚も研ぎ澄ましていなくては、先生の万華鏡の凄さをわかることは出来ないでしょう。ひょいと出される切り口についていけないというわけです。
(中略)
 私と先生との出会いは、ニューヨークという都市を介してでした。そのとき以来、先生は私にいろいろなことを教えてくださいましたが、そのことにも、不思議な華のめぐりあわせといったものを感じます。そして、あのニューヨークには、目の眩むような華の濃厚な匂いがあるのです。

吉崎由紀子(翻訳家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

「読んでくれる人の為に書く」ということ

 少なくとも作品を成り立たせる八割くらいの要因は、その人が取得した技術にあると私は常々考えるのだが、表現を言葉という抽象的手段にたよる小説の場合、例えば絵画や彫刻に相当する技術の修行、取得ということがあり得るのかということを、いつも考えてしまう。確かに技術取得の必要性はこの世界でも不可欠なのだが、色や線や形の効果的な捕らえ方を人から教わるように、言語表現の技術を学べるものなのかという疑問がなかなか私のなかで消えないのだ。小説の勉強なんてことは、よい作品をこつこつ読むくらいが、せいぜいのところではないのか、という感慨に落ち込んでしまうことがしばしばある。
 このことを何時だったか、中田先生にお話しした。先生はいつものように、半分くらいは共感された様子で私の話を聞いておられたが、それから幾日も経ぬうち、再びお会いする機会があった。その時、先生は何げない様子で一本のカセットテープを私に下さった。
 家に戻ってから、そのテープを再生してみると、それは先生が翻訳家志望の人達にむけて行ったラジオ放送の講義録音であった。
 一行の英文を日本語に直すにあたって、どう訳したらそれが日本語として陰影のある、読者の方へ立ち上がってくる文章になるかを先生はそこで説き明かしていた。英語が全く不得手の私にも、話の内容はよく理解できた。その講義は、言語を駆使して表現活動を目指すものたちに対しての先生の徹底した技術指導なのだった。それはあたかもカンヴァスに向かっている学生の後ろに立った画家が、陰影の効果や線の修正の為に、腕を指し延ばして筆を加えている姿に似ていた。実作者として創作現場にいるものにして初めて語れることで、こういう困難な技術指導を先生はとっくの昔からして来ていたのだなあと改めて思った。テープを聞き終えたとき、これが先日のわたしが投げかけたことに対する答えであることが分かった。先生がしばしば言われる「小説はそれを読んでくれる人のために書くものだから」という言葉の真の意味がこの時理解できたように思えた。

竹内紀吉(元浦安図書館長)

――「NEXUS」25号――

猿飛佐助の遁走術

 それから数年間、中田先生の講義に通いつめた。二週間に一度の山登りも必ず一緒だった。あれほど幸福な時間は、もうないかもしれない。
 ある時、北アルプスを縦走中、双六の小屋で私たちは槍ヶ岳をめざし、原稿の締め切りが間に合わない先生ひとり飛騨側に下りることになった。歩きだして振り返ると、先生はもう遥か彼方を走っていた。あれは飛鳥だ。しばらく私たちは見とれていた。それから気づいた。猿飛佐助の遁走術のリアリティのわけを。あれは先生そのものなんだ。
(中略)ずっとあとになって、先生をモデルにした小説の中に、こんな文章を見つけた。
「村山さんは背は小さいけれども、はじめて会った時から仰ぎみる存在だった。まず翻訳の文体が歯切れがよくて、語彙が豊富である。僕は村山さんの翻訳の文体を真似しようと努めているうちに、一時期、筆跡まで似てきて、沙知に笑われた。」「『あっ、そう』ぼくは村山さんの口真似をした。『あなた、話し方まで村山さんに影響されたのね』それでもいいのだ、と僕は思っていた。しかし、いつかはそこから抜けだせるだろう。たとえば、僕がひとり立ちしたとき。」(常盤新平『片隅の人たち』)

安東つとむ(ノンフィクションライター)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

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