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中田耕治を語る

タクサンノコトバ

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不肖の弟子から

 私が中田耕治先生にお逢いしたのは、私がまだ作家になる前……それはそうだ。私が作家になったのは、中田先生との出会いがきっかけなのだから、当然のことである。
 私はまだ二十代半ばの編集者で、『世界の旅路』という本の原稿をお願いするために、明治大学のすぐ近くにある「山の上ホテル」で中田先生と初めてお目にかかった。
 明大の先生で、しかもイタリア文学の研究者ということなので、どうせカタブツだろうと思い込んでいたのに、先生の初対面の印象は全くそうではなかった。
 話は当然のことながら、原稿の依頼に関するものから始まったけれど、そのうちに、私の亡くなった父も大学教授で文学者だったこともあって、次第に話が弾んで、場所もロビーからバーに移して……初対面だというのに、私はすっかり先生に御馳走になり、いつの間にか、父の思い出話やら、仕事の愚痴を話し始め、その勢いで「私、本当は作家になりたかったんです」という、私の心にしまっておいた夢まで、先生に話してしまったのだ。
「作家になりたいんなら、なればいいのに……君は若いんだし、才能さえあれば、これから頑張ったってまだまだ時間はあるよ」。先生は、こともなげに言った。

丸茂ジュン(作家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

後姿の「あいつ」

 私が中田先生と一緒に山を登るようになったのは「日本経済新聞」の映画記者になったときからだった。先生は「日経」の「映画評」をじつに十年以上の長きにわたって執筆なさった。「輪転機がブンブン回っているような場所で書くのが好き」という先生であった。
(中略)
 先生はニコニコしながら歩いているように見えながら、いつもきびしく、優しく、何かを教えてくださるのだった。突発的に遭難の危険がおそってきても、先生は少しもたじろがない。私たちもどんな事態にも冷静に対処できるようになっていた。先生はのちに、ある学校で翻訳を教えられるようになったが、ここの生徒さんたちにも、きっと登山のように実戦的で、綿密、かつ豪快な教えかたをなさっているのだろう。
 夏休みには北アルプスを縦走するのが恒例になっていた。ある時、富士側から入り、太郎兵衛平〜黒部五郎〜三俣蓮華〜双六を経て、新穂高に下りる予定だった。この時、仲間のひとりが、いい出した。「先生、やっぱり槍をやりたい」
 先生はわれわれの有名山病を許してくださった。
 こうして、双六小屋で先生とわれわれ数人は別行動をとることになった。週刊誌の連載をかかえていた先生は、単独で下山することになって、われわれは先生を見送った。この時、われわれは異口同音に感嘆の声をあげたのだった。「うわっ、速い。カッコいいなあ」
 先生はそのまま新穂高めざして、それこそ飛鳥のようにまっしぐらに駆け下りていったのである。

吉沢正英(元・日本経済新聞社 出版局編集委員)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

アナイス

 中田先生の事を「うちの翻訳の方の親方が……」と私は人前で話す。翻訳などは、先生のやたらに広い活動範囲からすれば、ほんの一部に過ぎないことはわかっているが、当方は翻訳しかしないのだから、「小説の方の」とも「批評の方も」とも言えないのである。しかし、この場合肝心なのは親方というところだ。親方とは、ルネサンスの歴史を彩る傭兵隊長のように、清濁あわせ飲む太っ腹な人間でなければならない。面倒見のよい人間でもある。また、常に天下を睥睨し、時期に応じて適切な判断を下し、必要とあらば、即実行に移せる才能の持ち主である。要するに、私にとって、中田先生とは、戦国乱世を生きぬいてきたそういう凄いコンドッティエーレ的人間なのである。
 その中田先生の先見性に、私より一足早く取り込まれていたのがアナイス・ニンだった。二十数年前、ようやくアメリカで注目を浴び出した頃である。彼女は、早速、小説『愛の家のスパイ』を邦訳してもらい、第一巻が出たばかりの「日記」について、恐ろしい洞察力と先見の明にみちた論評を書いてもらい、日本に招待され、当時の錚々たる若き文学者たちと対談させてもらっている。なんと、凄い面倒見のよさではないか。

杉崎和子(名城大学教授、翻訳家、アナイス・ニン財団理事)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

文芸科のころ

  中田君と僕は1949年4月に発足した新制明治大学文学部文学科の母体である旧制文科専門部文芸科の第13期生。太平洋戦争敗北の前年44年4月入学組である。同期生は約50名、その多くの学生は詩歌、小説、評論、演劇、映画の世界を夢見る青年達で、教室は戦時中にも拘わらず若者特有の生気に溢れていた。軍国主義の風潮に背を向けていた訳ではなく、迫っていた兵役に就くまでの一時を存分に生きたいとみんな願っていたのだと思う。
(中略)
 3年次末には卒業制作(ジャンルは自由)を提出しなければならない。級友に何を選ぶのかは聞きづらいもので、中田君が書くものは結局分からずじまい。なんせ三度も戦災に遭ったのだからまだ住家に困って登校どころではなかったのではないか。僕は小林秀雄『無常といふ事』(46年2月)の読後感を四百字約二十枚に纏めてお茶を濁した。卒業して一年後どういう風の吹き回しか文芸科研究室に残った。ある日戸棚を整理していたら卒業制作の束が出てきて、その中に中田君のも僕のも見付かった。彼のは「小林秀雄論」で百枚ほどの労作だった。

小川茂久(元明治大学教授)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

 中田耕治さんのお仕事

 どうも中田さんはマリリンを偏愛しているようなところがある。なにも世界中にマリリンひとりではあるまいにと思えるが、中田さんはそうはいかぬらしいのである。そして、ただ一筋にマリリンに惹かれる中田さんの心情がわからぬでもないが、これはちょっと異常である。そういう異常なところがまた魅力があって、『マリリン・モンロー論考』を一気に読んでしまった。中田さんはマリリンのような儚い女が好きなのであろう。そこがぼくと少しちがう点である。ぼくはあんなふうには一人の女を追いつづけることは出来ない。そこが中田さんの独特なところで何でも一途に驀進する真似の出来ない点である。
(中略)
 中田耕治さんのこの膨大な、ルネサンスの妖精、『ルクレツィア・ボルジア』の著作は、ぼくはこれを読んで肝をつぶしてしまった。それはこんなお仕事をよくやったなあと感心したわけで、これがどれほど驚くべき仕事かということを考えてみたとき、ものを書く人間にとってこういうものを目の前に見せつけられることは、自分の仕事と考えあわせて、まったく「ぐの音」も出ない思いにさせられるのである。文章も美しい。
(中略)
 中田さんは大変な勉強家で豊かな才能を持っておられる。翻訳に創作に演出に活躍しておられるが、ある時、中田さんのお訳しになったヘミングウェイの『蝶々と戦車』を読んでその名訳ぶりに感心して、中田さんを「あなたは現代の上田敏であり、堀口大學だ」と賞賛したことを思い出します。

宮 林太郎 (作家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

マリリンを愛した最初の男(ひと)

 中田耕治は、日本で最初にマリリンを愛した男性であり、最初にマリリン・モンロー伝を叫んだ男性でもある。ここに中田耕治が叫んだ台詞がマリリンの極限として脳裡に焼きつく。「マリリン・モンローはどこにもいない。マリリン・モンローとは彼女が生きてかかわりあう、そのかかわりあい、関係のなかの宿命的な部分である」 中田耕治は、マリリン・モンローの生(エロス)と死(タナトス)――消滅の美学――の極限を、彼の全エネルギーで受けとめているのだ……。

スズキ シン一(画家)

――中田耕治コレクション(青弓社) 月報より――

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