228

きみが、私のHPを読んでくれていると知ってうれしかった。ごらんの通り、「中田耕治のコ-ジ-ト-ク」は(たとえばきみのように)親しい友だちに読んでもらう手紙のようなものなんだ。べつにどうってことのない内容ばかりで、われながら忸怩たる思いだが、とにかく思いついたことを書きとめておく。雑然とした内容でも、読む人にはいまの私の内面の動きだけはつたわるだろう。むずかしいことを書いてもはじまらない。へえ~~、こんなことがあったのか、とか、中田 耕治はへんなことばかり考えているなあ、と思ってくれればいいんだ。
インタ-ネットに大量にあふれているスパム(迷惑メ-ル)のなかで、ボケかかっている作家が、くだらないことをつぶやいている。スパムだと思って読んでくれればいい。
アフォリズム以上エッセイ未満だが、私にとっては表現形式のひとつ。いってみれば、私流「Razzle-Dazzle」だからね。
自分でも自分のことがわからないから書く。ただし、自分で自分のことがわからないといって、眠れない夜にいくら反省してみたところで、たいして才能もないもの書きに哲学的な問題が見つかるはずもない。
ふと、心をかすめるよしなしごと、折りにふれてつぶやき、いろいろと書いておけば、その先はきみたちの誰かが考えてくれるかも知れない。そんな虫のいい思いもある。
短かいものだけに、読んでくれる人のためにそれなりに工夫はしている。少しでもおもしろいものにしようと思って。なにしろ短いものなので書くのは簡単だし、けっこう楽しんで書いている。もっとも、書いたそばから忘れてしまうけれど。
お元気で。

227

学校から帰ると、母の宇免(うめ)は、手拭いを姐さんかぶりで、庭の樹に張り板を立てかけて、お張りものにいそがしい。
湯気のたちのぼる張り板をさっと掌で撫でつける。洗濯したばかりの布を押し当て、張り板に張ってゆく。妹が遊びに行って誰もいない午後、宇免の午後はいそがしかった。
私は庭に面した廊下で腹這になって、届いてきたばかりの「少年倶楽部」を読みふけっていた。
雑誌に倦きると、愛犬の「トム」を相手に庭を駆けまわる。小柄なテリアで、私によくなついていた。
「宿題はしたのかい」
宇免が声をかけてきた。私は聞いていない。
「なんか、ないの?」
おやつは、せいぜい羊羹のひと切れか、ビスケットの二、三枚。何もないときは、ムギコガシ。大麦を煎って粉にしたものに、ほんの少しお砂糖をまぜる。茶飲み茶碗に半分ほど。お匙ですくつて食べるのだが、粉なので、うっかり咽喉にくっつくと、むせ込んだりする。
おやつを食べたら、あとは一目散。愛宕橋をわたって、岡の上の愛宕神社の境内まで走ったり、その裏山の藪に踏み込んだり。ときには、愛宕橋の私の家のすぐ下の崖から、広瀬川のへりをたどって、小さな砂州に飛び移ったり。誰ひとりいない島を探検しているような気になるのだった。
広瀬川のへりが少年の王国だった。

226

明治維新まで、市ヶ谷に屋敷を構えていた五百石の旗本、榊原家は、神田、末広町に引き移って、お汁粉屋をはじめた。
なにしろ、趙 子昂(ちょう・すごう)の筆法で、御汁粉と、墨痕あざやかな看板を出した。
殿様自身がアンを煮たばかりではなく、奥方がお鍋のアンコをかきまわし、お嬢さまが女中になって店にお膳をはこぶ。
お客がひやかしにきたが、お帳場に紋付き、袴の殿様がおすわりになり、奥方がお客にうやうやしく頭をさげる。お嬢さまがおはこびになられるお膳の器(うつわ)は、源氏車の金高蒔絵の定紋つき。
アンはアク抜き、白玉を浮かして、まことにお上品な味。おまけに値段がめっぽうやすいときている。たちまち繁盛した。
殿様もご機嫌ななめならず、イヤ、商いというものは多分の儲けのあるものよナ、と仰せられた、とか。
ところが、客が入れば入るほど、だんだん資本が足りなくなってきた。売れていながら、金子(きんす)につまるというのは奇怪至極。殿様、大いに頭をいためた。
殿様、奥方、お嬢さまと額をあつめて考えたあげく、ハタと思い当たったことがある。 毎日の売り上げを残らず儲けと思っていたことに気がついた。これでは、繁盛すればするほど資本がつまってくる。
旧旗本の殿様がはからずも資本主義の経済原則にめざめたわけ。
明治の講釈師、悟道軒 圓玉が榊原の殿様からじかに聞いた実話。

225

「私のお墓に、みんながどういう文句を書くかわかる? 彼女はきびしい生きかたをしてきた、って」・・・・ベット・ディヴィス。
「つらい生きかた」と訳してもいいと思ったが、あえてこう訳してみた。そのほうが、ベテイ・ディヴィスらしい気がして。
たいして美人ではないが、育ちがよくて、教養があって、それだけに権高で気のつよい女性を演じたら、まずは最高の女優だった。当時、ウ-マンリヴなどという言葉もなかった時代に、女性の権利を一身に体現したようなところがあった。「化石の森」、「小麦は緑」のベテイ・ディヴィスなら今でも見直してみたい。
あまり好きな女優さんではなかったが、「イヴの総て」が代表作のひとつ。
ベテイ・ディヴィスが生きていて、現在では彼女の代表作「イヴの総て」が、まるっきりの端役で出ていたマリリン・モンロ-の映画として見られていると知ったら、どんな顔をするだろうか。

今日4月5日は、ベティ・デイヴィスの誕生日。

224

アンケ-トにほとんど答えたことがない。
XXについて。簡単でいいからお答えください。XXの好きな作品をX本選べ。好きな女優をあげて、その理由をのべよ。
私がどうしてこんな質問にこたえなければならないのだろう。もっとほかに適当な回答者がいるだろうに。そう思う。
それに、自分がつよい関心を寄せているテ-マだったりすると、つい、回答する場合がある。いちいち気にするほどのこともないじゃないか。そう思う反面、そのテ-マをアンケ-ト形式で答えてしまえば、それでもう考えたことになってしまうかも知れない。それでいいのか、などとこだわったりする。
たとえば、フランス映画で好きな女優を3人あげてください、などと聞かれたら、どう答えたらいいのだろう。
フランソワ-ズ・ロゼ-、アルレッテイ、マドレ-ヌ・ルノ-、ジャンヌ・モロ-をあげてもいい。しかし、いまの人々の誰が彼女たちをみているだろうか。それに、ほんとうに好きといえるだろうか。むしろ、ミレイユ・バラン、ダニエル・ダリユ-、ミシュリ-ヌ・プレ-ル、ロミ-・シュナイダ-のほうがいい。しかし、彼女たちをあげれば、どうしても私の女性の好みが出てしまう。
イザベル・アジャ-ニ、デルフィ-ヌ・セリ-グ、エマニュエル・ベア-ルをあげようか。いや、アナベラや、フランソワ-ズ・アルヌ-ルを落とすわけにはいかない。
いっそのこと、無声映画のジョゼット・アンドリオやファルコネッテイをあげて、みんなをケムに巻いてやろうか。
こうして、私は追憶、ノスタルジ-、さまざまな逡巡、懊悩、こうした質問に答えようとしている自分への憐憫、はては質問者にたいする呪詛といった思考の迷路にみちびかれる。
だから、私はアンケ-トがきらいなのである。

223

キャサリン・ヘップバ-ンは頬骨が高かった。だから名女優と呼ばれてもセックス・シンボルなどといわれたことはない。
コラムニストのア-ト・バックウォルドが書いていた。
「ド-ヴァ-の白い崖いらいの偉大なカルシウムのかたまり」だって。
他人の肉体的な特徴を話題にするのはいい趣味でははない。しかし、こういう表現はいいね。もし私が小説でこういう比喩をつかったら・・・掲載されないだろうなあ。
キャサリンは多数の映画で共演したスペンサ-・トレイシ-と、25年にわたって事実上の婚姻関係にあった。このことは、1967年、トレイシ-が亡くなるまでジャ-ナリズムもまったくふれなかった。
私の好きなキャサリンの映画は、「ステ-ジ・ドア」、「旅情」、「アフリカの女王」、「冬のライオン」、「トロイアの女」。スペンサ-・トレイシ-と共演した映画は、今の私にはだいたいつまらない。

222

運命というほどではないが、ツキ、ラック、運といったことを考える。とくに芸術家には、自分ではどうしようもない、おのれのあずかり知らぬ運、不運がある。
「危険な情事」という映画にはじめてグレン・クロ-ズという女優が登場した。まだスト-カ-という言葉もなかった頃に、おそろしい悪女を演じて強烈な印象をあたえた。
当時、ブロ-ドウェイでは、イギリス、ロイヤル・シェイクスピア劇団が『危険な関係』を出していた。グレン・クロ-ズはそのオリジナル・キャストに交代して出ることになっていた。彼女も、この舞台に立てるものと期待していたはずである。ユニオンの規定で、外国の舞台公演は、一定の期間オリジナル・キャストで上演したあと、アメリカの俳優、女優と交代しなければならない規定がある。
ところが、この公演はフロップして、グレン・クロ-ズは舞台に出られなかった。
舞台が打ち切られた直後に、グレン・クロ-ズの「危険な情事」がヒットした。ラストはクル-ゾ-のパクリだったが、このシ-ンのグレン・クロ-ズは衝撃的だった。
舞台のプロデュ-サ-はさぞ後悔したにちがいない。グレン・クロ-ズが舞台に出れば大ヒットしたはずだから。
1988年、映画で「危険な関係」がリメイクされて、グレン・クロ-ズは映画「危険な関係」でも成功して、演技派の女優として高い評価をえている。
なぜ、グレン・クロ-ズに関心をもったのか。じつは、映画「危険な情事」が公開されたとき、その原作を訳したのは私だった。だから、その後もこの女優さんに関心をもった。まさかディズニ-映画にまで出るようになるとは思っても見なかったが。

221

さる料理屋の暖簾(のれん)をくぐった。名は・・・伏せておく。場所は、赤坂。
江戸の昔から、暖簾は粋なものとされている。この店の主人も、いなせで粋なものとしてかけているのだろう。柿色暖簾だった。
大正に入って、牛肉屋、タバコ屋の軒先にかけられていたのも柿色暖簾。
この色がひろく使われるようになったのは、歌舞伎の影響だろう。お披露目の口上などの儀式ばった舞台に、役者が柿色の裃(かみしも)をつけてあらわれるのも、河原者と呼ばれた頃のなごり。
もともと柿色暖簾は売色のエンブレムだった。
安永(1773~80年/恋川 春町、並木 五瓶の時代。平賀 源内が獄死。)の頃に、
へその下谷に    出茶屋がござる
柿ののれんに    豆屋と書いて
マツダケ(松茸)売りなら 這入りゃんせ
というわらべ唄があった。まつたけと濁らなかったことがわかる。「豆屋」もタブル・ミ-ニングだが、せっかく廓に通いつめても、客を「待つだけ」にするつれないあしらいまで見えてくる。

この料理屋、いかにも当世ふう。あまったるくて値が張って。おかげで、すっかり熟柿くさくなっての帰り。(こんなイディオムももう通じないだろうな。)

220

前に、この「ト-ク」で「シンシナティ・キッド」(ノーマン・ジュイソン監督/65年)にふれた。もう一度、エドワード・G・ロビンソンのことを書いておきたい。
映画は、ニュー・オーリーンズを舞台に、スタッド・ポーカーの達人、「シンシナティ・キッド」と、「ザ・マン」と呼ばれる老人の対決。小味だが、いい映画だった。
この映画のロビンソンは戦争中の「運命の饗宴」、戦後すぐの「他人の家」、さらにそれ以後をつうじて彼の最高の演技だと思う。
ずんぐりと小柄だが、牡牛のような体躯、ひろい額に細眼のまなざし、いつも葉巻をくわえている酷薄な唇、残忍なギャングスタ-をやらせたら最高の役者だった。何かあると、ゆっくりひろがってくる不敵な笑顔がすごい。
おれを知らないやつでも、にやりと笑ったおれの近くに寄ってきたらおもわず恐怖におののくに違いない。そんな笑いかただった。
私にとっては、なつかしい映画スタ-のひとり。

219

どうすれば作家になれるのか。
1944年、勤労動員先の会議室に集まった学生のひとりが小林 秀雄に訊いた。私ではない。小川 茂久だった。ただし、そのときの小林 秀雄の答えは今もあざやかに私の心に残っている。
ようするに、一瞬に心に去来するものを、いつでも自分の内面にいきいきとよみがえらせる能力を身につけること。正確に小林 秀雄がこう答えたわけではないが、私が受けとった答えは、そういうことだった。
これに似たことを、里見 敦が語っている。(1946年)
たとえば、電車に乗っていて、向こう側にすわっている男女の、話声は聞こえずとも、口許をかすめた微笑ひとつで、ながらくつれ添う夫婦ものか、兄妹か、恋人か、恋人でもすでにからだの関係があるかどうか、てだしはまだかに至るまで、いきなりピンとくるような観察。
もっとも里見 敦は、どこまでが「観る」で、どこからが「察する」のか、その境界さえ曖昧模糊たるもので、実は「観察」などとはおこがましく、「観ながら空想する」ぐらいがせいぜい、と謙遜しているが。
似たようないいかただが、じつは大きな違いがある。小林 秀雄は、このときベルグソン的な直観を語っていたはずだが、里見 敦は日本の作家の修練について語っていたと思う。
私の内部でふたりのことばはさまざまな方向に発展して行った。

218

伊勢に足をはこんだ芭蕉が、
宮川に芋洗う女、西行ならば歌作らむ
と詠んだ。すごい字あまりだが、さすがにいい句だと思う。
はるか後年、「大阪朝日」の水島 爾保布がこれをもじって、漫画、漫文に、
宮川に芋洗う女、弥次郎兵衛ならば何とせむ
とつけた。弥次郎兵衛は、いうまでもなく『東海道中膝栗毛』に出てくるヤジさんのこと。これを岡ッ引きが見逃すはずがない。
たちまち不敬罪ということになって、水島 爾保布はトッちめられた。
戦前の「治安維持法」がどういうものだったか。東ドイツの「シュタ-ジ」どころではなかった。
もっとも、今だってうっかりマンガも描けない時代になってきた。

217

10年前。
作家、遠藤 周作が亡くなった。
私は彼の葬儀に参列したが、式場は参列者でいっぱいだった。大勢のファンが長い列をなして在りし日の作家を悼んでいた。私は教会の外の庭に立って、立錐の余地もないほどつめかけた会葬者のなかで、若き日の遠藤 周作を偲んだ。やがて聖歌の合唱になって、隣りにいた若い女性が美しい声で唱和していたことを思い出す。
当時、私は長い評伝(『ルイ・ジュヴェ』)を書きつづけていた。遠藤 周作が生きていたら読んでもらいたかった。しかし、評伝はいつになったら完成するのか、自分でもわからなかった。それに、完成しても出版できるかどうか。私は自分の内部にうごめいている不協和音、混乱ばかり気になっていた。私の内部ひどく暗くていびつに歪んだ穴がぽっかり開いている。それまで私の周囲にいてくれた人が不意にいなくなって、私をしっかりとり囲んでいた輪がくずれようとしている。そんな思いがあった。このときの私はほんとうに懊悩のなかを歩きつづけていた。
この年、飯島 正、司馬 遼太郎、武満 徹、大藪 春彦、増淵 健、宇野 千代といった人々が亡くなっている。
ジ-ン・ケリ-、アナベラ、クロ-デット・コルベ-ル、ドロシ-・ラム-ア、マリア・カザレス、マルチェッロ・マストロヤンニたちも。
「Shall we ダンス?」、「岸和田少年愚連隊」、「トキワ荘の青春」といった映画をやっていた。「楽園の瑕」や「天使の涙」なども。「42丁目のワ-ニャ」をみて、その監督をひそかに軽蔑したことをおぼえている。
私の内面に死というイデ-が浮かんできたのは、このときからだったような気がする。

216

テレビ。高野 悦子女史の「ポルトガル紀行」(1994年)の再放送。
鉄砲伝来をテ-マに自分のシナリオ、ポルトガルの監督で映画化しようとして「大映」に話をもって行ったところ、いつの間にか、別の監督、シナリオに変えられて映画化されたという。よくある話だ。
映画は日米合作の「鉄砲伝来記」。監督は森 一生。シナリオは長谷川某。主演は、若尾 文子。こんな映画なんかもう誰もおぼえていないだろう。
高野さんは、最後には訴訟に持ち込んたが、映画のタイトル・クレジットに原案・高野 悦子と出ただけだった、という。
「大映」の永田 雅一ならそんな悪辣なことも平気でやったろうな。「羅生門」が世界的に知られたとき自分がプロデュ-スしたと吹聴して歩いた。あの温厚な山本 嘉次郎(映画監督)が、めずらしく憤懣を文章にしている。
芸能界にはこういうゲスが掃いて捨てるほどいる。今だって変わらない。

215

国分寺の駅から表通りに出た。少し歩いたとき、見知らぬ若者に呼びとめられた。知り合いではなかった。にこにこして話しかけてくる。どうやら路上でインチキ商品を売りつけようとしている。さりとてヤクザではない。アルバイト学生でもない。少し警戒しながら立ちどまった。たいして利口でもなく、詐欺を常習とするほど悪辣でもない。こすッからい感じがなかった。予想した通り、携帯電話そっくりに作ってあってボタンを押すと時間が出てくるトゥ-ルを買ってくれという。
人のよさそうな微笑をうかベながら、不況で会社が在庫処分に踏み切ったもので、品質は保証するという。明るい表情で、誠実そうな若者だった。
だますやつと、だまされるやつ。私はだまされるほうがわるいと思っている。さては私をくみしやすし、と見たか。
彼がどういうふうに私をだまそうとしているのか興味があった。ひとしきり話を聞いてから私は男をふり切った。
なかなか興味があったよ。品物に、ではなく、きみに。私はいってやった。
しばらく歩いているうちに気が変わった。たしかにペテン師には違いないが、やたらに明るくて気のいい男なので憎めない。Made in China のオモチャなのだから孫にくれてやってもいい。戻った。男の顔に不審な表情が浮かんだ。
こんなものはいらないのだが、あんたの気のいいところが気に入った。買ってやるよ。私はだまされていると承知した上で、きみの人柄が気に入ったといってやった。
男は唖然とした顔になったが、明るい声で、ありがとうございます、といいながら、私にオモチャをわたしてくれた。私の顔を見て、「失礼ですが、ご住職さんで?」
「冗談じゃない。おれが坊主に見えるかい。だいいちそんな人徳のある御方じゃないよ。きみにだまされるくらいだからな」
別れるとき手をふってやった。ちょっと楽しい気分だった。

214


好きな絵。
その前に立っていると、見ている私に無言で語りかけてくるような絵。
はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵。
そういう絵は・・・・少ない。
ヘミングウェイは、プラドに行くと、ゴヤ、ル-ベンス、ベラスケスに眼もくれず、まっすぐスペイン絵画の展示室に寄って、いつまでも一枚の絵を見ていたという。
私も行ってみた。かなり狭い部屋で、その絵は小品といっていいサイズだった。おなじ8号ほどの二枚がならんでいる。それぞれ美少女が描かれている。
十六世紀に生きていた若い娘の肌のしっとりした匂い。何か超自然的な美しさに女のいのちのなまなましさが重なりあっているようだった。
ヘミングウェイはどちらの少女に惹かれたのだろうか。私はどちらともきめかねて見較べていたが、そのうちにそんなことはどうでもよくなってきた。
はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵だった。

213

誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。たしかヴォルテールが『神曲』をあげていた・・・と思う。私は『神曲』は読んだが、ヴォルテールは読まない。
「貫一の眼は其全身の力を聚めて思悩める宮が顔を鋭く打目戍(うちみまも)れり。五歩行き七歩行き十歩行けども彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて大息したり。
『宜し、もう、宜し、お前の心は能く解つた。』
有名な小説の一節。誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。
大学で紅葉の作品をいちおう読んだけれど、批評家として論じたことはない。そこで、最近やっと『金色夜叉』を読み直した。紅葉は、短編のほうがずっといい。
『金色夜叉』がつまらなかったのは、文体のせいではない。貫一が五歩行き七歩行き十歩行ったとき、よく歩数をかぞえたなあ、とバカなことを考えたけれど。
岡本 綺堂さんのお墓のすぐ近くなので、ついでに紅葉さんのお墓に詣でた。
最近まで『金色夜叉』を読み直しませんでした。ごめんなさい、紅葉さん。

212

ファッション雑誌の記事。
靴のブランド「イレギュラー・チョイス」の春夏は、女心をくすぐるロリータ的なデザインがいっぱい。分厚い麻のウェッジソールに小花プリントの組み合わせがロマンチックです。
へえ、こういうのがウェッジソールなのか。ナボコフが読んだらよろこぶかも。
スポーツウェアなどに用いる機能性の高い合繊を使ったヌードカラーのドレス。重ね着したようなドットのスカートはドレスと一体になっています。
ふ~ん、ヌードカラーとは恐れ入ったなあ。
それで、思い出したことがある。
二十世紀に入ったばかりのドイツは、外国語がどっと流れ込んだ。洗濯屋(ワイスワレンゲシェフト)はランジェリー、下着屋(ヘムデンゲシェフト)はシュミズリーになつたが、ローブ、ジュポン、コルセットといった名詞は、まったく存在していなかった。
外国語の氾濫とあまりの変化にたまりかねた国語擁護派が、ドイツ国語省を新設せよ、と騒いだが、第一次大戦で、お風呂屋(バーデル)、理髪屋(ハールクロイスラ)、お菓子屋(ツッカーベッカー)、お裁縫(シュナイダー)、宿屋も小料理もドイツ語が消えてしまった。お裁縫はテイラー、宿屋はホテリアー。
日本は・・・もう、ヤバいかも。

211

外国語の研修について調べているうちに、明治44年、東京外語のドイツ語学科の修学旅行が、清国、膠州湾、青島(チンタオ)だったことを知った。この年、7月29日、横浜出帆、8月3日、青島(チンタオ)着。滞在期間は4週間。
「ドイツ語の実地練習、地理および開化史的知識の増進、ことに大洋航海、植民地におけるドイツ人の生活観察」が目的という。
旅費は、船賃が往復で33円。青島(チンタオ)滞在費、21円。計、60円。
こまかい規定がある。旅装は・・・制服制帽、シャツ、スボン下、着替え。鉛筆、万年筆、小刀、筆記帳。洗面用具、うがい用具。毛布、袷(あわせ)帯、清心丹など。洋傘、望遠鏡、地図。
いまの小学生の林間学校なみだね。
おもしろいのは、団長の許可なくして、料理店、旅館、私宅、海水浴などに「立ち入るべからず」。武器の携帯禁止。禁制の場所にて写真撮影すべからず。
最後に「清国学生と政治上の談話をなすことを禁ず」とあった。

210

1906年、ライト兄弟が、世界最初の空中飛行に成功した。日露戦争が終わった翌年だったことは、あまり人が気づかない。
レオナルド・ダヴィンチが空中飛行を考えていたことは、よく知られているが、実際に、翼をもつ飛行物体を作ったのは、1670年、イタリアのボレツソ。この人のことは、私も知らない。
飛行機らしきものを作ったのは、1796年、イギリスのジョ-ジ・カレ-。この人のことも、じつは知らない。

→「仕立屋さん 空 飛んだ」

209

巴里に於ける飛行椿事・・・五月二十一日、巴里に於いて挙行せる巴里マドリッド間の飛行競争会に於いて、出発後、一大椿事起こり一飛行機は群衆の頭上に墜落して、数多(あまた)の重傷者を生じ、内閣総理大臣、モニ-氏、陸軍大臣、ベルト-氏、及び高級武官一名、重傷を負ひしが、陸軍大臣は遂に負傷の為に死去せり。独逸大使は仏国政府に対し、独逸宰相、並びに同政府の悼詞を述ぶべく伯林(ベルリン)より電命令せられたり。
これは、明治44年の新聞記事。
この事故は、20米突(メ-トル)の空中から一機が墜落したもの。当日、このレ-スをみようとつめかけた観衆は「実に二十万人に上れり」という。
首相は、両足を骨折したほか、外鼻骨を挫折、視力障害を起こした。
この事件で、セルビア国王のパリ訪問が、急遽、延期された。
おなじ時期、日本でも、ブレリオ式飛行機の事故で、徳川大尉、伊藤中尉が重傷を負っている。こちらの記事には・・・「とにかく、日本飛行家は未だ飛行に於いて充分の成功を収めざるが如し」とあった。
こんな記事を読むと、じつにいろいろな感想がうかんでくる。