まったく無名の画家が、ある日突然有名になる。べつにめずらしいことではない。
しかし、ステラ・ヴァインという女流画家のことを知って、さすがに驚いた。本名は、メリッサ・ロブソン。本職はストリッパ-。 (「花椿」06.4月号)
ストリッパ-が絵を描いても不思議ではない。イ-スト・エンドの小さな画廊で個展を開いた。たまたま有名なコレクタ-のチャ-ルズ・サ-チが買い求めた。この絵を自分の美術館に展示したことから、ステラ・ヴァインの名が知れわたった。
ステラの絵は、ポツプ・ア-ト系のポ-トレ-トが中心で、どの絵もスキャンダラスな有名人をモデルにしたもの。むろん、ただのポ-トレ-トではない。
ブル-のカクテル・ドレスで、どこかに出かけるらしい女性。やたらに眼を大きく見開いている。そのまなざしは見る側につよい不安をつたえてくる。
青紫のバックに白い字で大きく、“MURDERED? PREGNANT? EMBALMED”と書いてある。ダイアナ妃の悲劇を知っているひとは、この最後の一語に思わずドキッとするだろう。
ほかの絵もほとんどが女性のポ-トレ-トで、スキャンダルを起こしたり、なんらかの傷を受けている「おんな」なのである。画風は現代イタリアの狂気の画家、クレメンテに近いが、あれほどむき出しに、おぞましいセックスを連想させるものではない。女性らしく繊細で、新しい美人画といった趣きもある。ただ特徴的なのは、「おんな」の眼や顔からオツユ描きのように絵の具が流れていること。だから涙を流したり、顔(表情)が内側から崩れているように見える。
描かれた対象の苦悩や涙にちがいないが、じつは対象を見る画家自身の内面の不安、恐怖を暗示している。それがステラを見る私たちの内面に折れ返ってくるのだろう。
ぜひ、日本で彼女の個展を見たい。
267
もう悪口をいってもいいだろう。
「オペレッタ狸御殿」(鈴木 清順監督/05年)を見て、その阿呆らしさにあきれた。この十年で最低のワ-スト映画だと思う。
太平洋戦争のさなか高山 広子主演の「狸御殿」(木村 恵吾監督)が、たいへんな人気になった。たあいのないファンタジ-だったか、この映画に熱狂したファン心理には、果てしもなく続いている戦争の息苦しさから、ほんのいっとき解放されたいという現実逃避の思いがあったと見てよい。戦後の「美空ひばりの狸御殿」には、ごく庶民的な大衆のアイドルが、じつは歌って恋をする美しい姫なのだ、という仮説があやかしと歌のドップラ-効果のように作用したのではなかったか。
ところが「オペレッタ狸御殿」には、なにひとつそうしたクリスタリザシオンがない。もともと鈴木 清順をまともな映画監督と思っていないが、この映画になると才能が衰えたとか枯渇したというレベルの話ではない。これほどひどい映画を撮ったとは思わなかった。
チャン・ツイィ-は本気でまっとうな芝居をしているが、監督がこの女優の魅力を出せないのだからどうしようもない。老齢の映画監督がくだらない映画を作るほど、無残なことはない。まして、才能もない老監督が、無残な老醜をさらすのはいたましいとしかいいようがない。
266
ブ-タンの首都、ティンブ-でDJをやっている若者のドキュメントを見た。
インドとチベットのあいだに位置している仏教国。いまでも経文が書かれた布の旗(ダルシン)が山々の峰に立ち並び、きびしい寒風に吹きさらされている。女性は丈の長いキラという服を着ている。
しかし、99年にインタ-ネットが導入され、テレビで外国のさまざまなプログラムを見ることができる。携帯電話も普及している。いまや生活も激変しつつある。外来文化と伝統のせめぎあい。ブ-タンでただひとりのDJの若者はビリヤ-ドをやる。そして新しい音楽(電子音楽)を紹介するパ-ティ-。しかし、客が帰ってしまって、はじめての音楽パ-ティ-は失敗する。夢やぶれた彼は店を両親にわたしてインドに旅立つ。
ブ-タンのような小国が古来の伝統をまもり抜くのはむずかしいだろう。否応なく西欧文明が席巻してゆく。そのせめぎあいのなかで、ヒップホップを紹介することがどこまで必要なのか。そう思う一方、彼は自分の国の音楽よりも、先進国のポツプスのほうがはるかにすぐれていると思っている。いわば確信犯なのだ。
テレビのドキュメントを見ていて、この若者が可哀そうになった。
265
昔の映画を見る。
たとえば「存在の耐えられない軽さ」(フィリップ・カウフマン監督/88年)。
若き日のジュリエット・ビノッシュを見たくなって。
ジュリエット・ビノッシュは、18歳でコンセルヴァトワ-ル(国立演劇学校)に入学して、ベラ・グレッグの教えをうけている。ベラ・グレッグの先生は、タニア・バラショヴァ。こんなことから、「戦後」のルイ・ジュヴェのコンセルヴァトワ-ル教育が、ジュリエット・ビノッシュの内面に流れているらしいことが想像できる。
ジュリエットが先生から芝居(演技)についてまなんだことは、演技術ではなく、自分の内面にあるものに気がつくことだった。作りものの演技と、ほんとうの演技の違いがそこから生まれ、やがては演技は「言葉で語らない」芝居になる。
彼女がチェホフの『かもめ』公演のあと、すぐに「ポンヌフの恋人」に出たと知って、私は彼女の芝居(演技)について考えるようになった。
「何かを演ずるとき、必要なものはいつもそこにある」とジュリエットはいう。
若い頃から映画で全裸になったり、性交する女をエロティックに演じたことも、作りものの演技ではなく、女としての真実をどこまでも女優として表現しようとしたからだった。いまやフランスを代表する女優といっていい。
二度もセザ-ル賞を受けているし、ハリウッド映画でもアカデミ-賞も受けているが、フランス人は自分の成功をうけいれることがむずかしいという。成功にうしろめたさを感じるから。
私にいわせれば、天性そういう「含羞」をもった女優こそ、もっとも成功する確率が高い。
ときどき昔の映画を見直すのは、その時代のスタ-をなつかしむためではない。ひとりの女優が、いつ、どこで、どのようにして他の女優たちと違っていたのか、違ってきたのかそのあたりをたしかめる発見があるからだ。
264
今では誰も知らない歌人だが、山川 登美子。与謝野 晶子に恋人を奪われ、傷心のあまり肺を病み、やがて夭折した薄幸の歌人。亡くなる半年ばかり前(明治四一年)に詠んだ歌がある。
わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
山川 登美子としては、あまりできのいい歌ではない。
おそらく、小野 小町の「あはれなり わが身のはてや あさみどり つひには野辺の 霞と思えば」を意識したか。
さびしみのなかに、どこか華やぎがある。できのよしあしなど、どうでもいい。私の好きな一首。
福井に行ったとき、ある研究家から「山川 登美子歌集」をいただいて、山川 登美子を知った。そのときから、この歌人に心を惹かれた。
263
小説離れ。小説が読まれなくなっている。
いろいろな理由があるだろう。
戦後の教育のいちじるしい劣化がこうした作用的結果をもたらしたと見ていい。教えられたことをノ-トする、あとは暗記するだけ。試験だけ受かればおしまい。この傾斜は、今後も進むと思われるから、小説の読者層が失われてゆくことは必至と見ていい。そのかわり、小説に比較して映画、テレビ、ゲ-ム、コミックのほうがおもしろい。さらには、安手なノン・フィクションのほうが読者の心をとらえているから。
では、「小説の時代」は終わったのか。
ハチャメチャないいかたになるが・・・明治になって、江戸の稗史小説の流れは硯友社までで壊滅した。むろん、その流れは遠く浪六あたりまでつづくけれど。自然主義、反自然主義の流れは、一方で大衆小説のうねりに巻き込まれて昭和前期までつづく。これは戦争によって断ち切られる。戦後の文学の流れは20世紀とともに終わった。巨視的に見れば、現在は新しい表現がようやく生まれようとしている予兆の時代と見ていい。
はっきりしているのは・・・私が深い敬意をもって見てきた「文学」、私の内部にいつもつよい影響をあたえてきたすべてが断罪されようとしている。残念だが。
悲しむにはあたらない。いつの時代もそういうふうにして交代してゆくのだから。
262
相田 翔子、鈴木 早智子というふたりの美少女のデュオ、「WINK」をおぼえているだろうか。
1988年にデヴュ-したあと、3曲目の「愛はとまらない」が大ヒットして、平成のス-パ-・アイドルといわれた。96年に「WINK」は活動をやめている。
その後、相田 翔子は芸能界からしばらく姿を消していた。その頃、住んでいたマンションの管理人に、いわれた。
「この頃、テレビで見かけないな。すっかり落ちぶれちゃったんだね」
相田 翔子はこれがきっかけで芸能界に復帰して、現在はポップスではなく、いろいろな番組で活躍している。
私が関心をもつのは、ここに大衆心理の典型的な本質が見えるからである。私たちの内面にはスタ-崇拝(ウォ-シップ)がひそんでいる。それは何かのチャンスには、かならず軽蔑や嘲笑に転化する。相田 翔子はこのときの管理人のことばに「悪意」を聞かなかったはずである。
私にも似たような経験がある。
友人の松島 義一が編集者をやめたときの集まりで、たまたま批評家の奥野 健男が私を見てにやにやしながら、
「この頃、どこでも(きみの書いたものを)見かけないな。消えちゃったんだね」
私もにやにやしながら、
「だから逼塞しているよ」
このとき、私はひそかに奥野 健男を軽蔑したのだった。当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていた。ラテン・アメリカを巡業していたルイ・ジュヴェの暗澹たる状況に自分を重ねていたような気がする。
私は気がつかなかった。軽蔑にはしばしば羨望がかくされていることを。
261
山本 音也という人が書いていた。定年後に散歩をはじめたらしい。(「文芸家協会」ニュ-ス/06.2)
「散歩とは名ばかりの徘徊」で、川の鯉にバンをちぎってやったり、ス-バ-でアジを買ってきたり。
「張り合いなしの希望なし」、長生きなんかしない方がいいなあ、という。
公園で遊んでいる幼児を見ていると、若い母親たちに睨みつけられる。
「ほんとに厭な世の中になってきました」。ああ、いやだいやだ。
思わず笑ってしまったが、私だって似たようなものかも知れない。山本 音也という作家の書いたものは読んだことがないのだが、このフレ-ズは気に入ったね。
テレビで、認知症の老人たちが「大人のぬりえ」をやっていた。数字がついていて、指定された通りにぬってゆけば、まともな絵になる。みんな楽しそうにやっていた。
デュヴィヴィエの映画、「旅路の果て」でルイ・ジュヴェがつぶやく。
「老年は醜い」。
昔の映画のセリフをすぐに思い出すなんて、ああ、いやだいやだ。(笑)。
260
ある人が先輩にいわれた。
チャンスはピンチ、ピンチはチャンス。
いいことばだと思う。
だが、チャンスがチャンス、ピンチがピンチだったら。
私は考える。
チャンスはチャンスであるチャンス、ピンチはピンチであるピンチなのだ。
そんなふうに考えるから、チャンスに恵まれなかった。ピンチらしいピンチに見舞われなかった、といいわけができる。
259
オデットから花をもらったような気がする。
大切そうにかかえていたマリーゴールドだったと思う。偶然、出会った街のなかで。花などをもつにはいちばんふさわしくない彼が、これをもって帰ったときの晴れがましさ。花でなくても、その人の大切な気もちがこめられていればいるほど、もらう、あげる、という行為のありがたさ、と同時に、こわさみたいなもの。ささげるといってもいいような。なんだ、こんなもの、と鼻であしらうわけにはいかない。くれた相手が、格別、それを愛しているとわかっているだけに、こちらにその気もちがかかってくる。 「インドのバラっていうみたい」彼女がいった。
花を知らない。インドのバラだろうが、マリーの黄金だろうが、どうでもいいようなものだった。単純にうれしいには違いないのに、なぜかその花に対して劣等感のようなものをおぼえて、少し動揺した。美しいものにたいする眩暈(げんうん)といおうか。それは、彼女の若さに対する引け目だったかも知れない。
片手に明るい赤のマリーゴールドの花をさかさに握り、野の花のように風に吹かれているふぜいで、たよりなげでとても綺麗だった。
コーヒーを飲んで別れたが、彼女をつつむ空気がそこだけ澄んでいる、重たい春の黄昏に彼女とホテルに行った最後の日になった。
258
いよいよご臨終。できれば手鏡をとって、いってやる。
「あばよ。やっとてめえの面を見なくてすむ。これでせいせいするだろう」って。
257
未知の人から思いがけないメ-ルが届いた。
お尋ねしたいことがあるのですが、モンロ-が来日した際、日本の著名人からビ-ズの刺繍がほどこされたジャケットをプレゼントされたという事実があるようなのですが、誰からプレゼントされたのか、その際の写真、または映像を確認できるか知りたく・・
後年のビ-トルズの来日のときほどではなかったが、マリリンが来日したときの騒ぎはたいへんなものだった。
当時、「東宝」は外国の映画人と合作の話がいくつか出ていたし、ルイ・ジュヴェがアメリカ、カナダ公演に出たので日本公演の可能性を打診していた。
「東宝」の企画した映画は、スタンバ-グの「アナタハン」と、イタリアの監督、カルミネ・ガロ-ネの「蝶々夫人」として実現した。残念ながら、ルイ・ジュヴェはフランスに帰国後、その夏に亡くなってしまった。そんな空気があふれていたので、マリリンが来日したときも上層部はコンタクトをとったと思われる。製作本部長は森岩雄、砧の撮影所長は渾大坊 五郎。「東宝」からビ-ズの刺繍のジャケットをプレゼントした可能性は大きい。それを届けたのは椎野 英之だった。
当時、私は「東宝」の社員だった椎野 英之に呼ばれて、映画のシノプシス、ダイアロ-グ、シナリオを書いていた。私といっしょに呼ばれたのは、同年代の矢代 静一、八木 柊一郎、西島 大、池田 一朗の五人だった。今からみても、そうそうたるメンバ-だった。
やがて私は、翻訳をつづけながら小芝居の演出に移ったため、映画の仕事からまったく離れたが、矢代 静一、八木 柊一郎は、それぞれの時代を代表するすぐれた劇作家になった。西島 大は、「青年座」の代表になっている。池田 一朗は、はるか後年、隆 慶一郎として流行作家になった。西島と私以外は、すべて鬼籍の人になっている。
椎野 英之は「東宝」で藤本 真澄、本木 荘二郎につぐプロデュ-サ-になって「三匹の侍」などをプロデュ-スした。
椎野がマリリンに会いに行った日、私は「東宝」本社のすぐ前(日比谷映画劇場のうしろ、マリリンが泊まっていた帝国ホテルから歩いて2分)の喫茶店で椎野を待っていた。
思いがけないメ-ルのおかげで、このときのことを思い出した。まるで夢まぼろしのように。残念ながら、このときの写真、または映像はない。
256
人跡未踏とはいえないが、ほとんど人の立ち入らない森を歩いていて、思いがけない立て札を見かけた。
「森林ハ 兵器庫ダ 営林署」
戦争が終わって数十年たっているのに、昼なお暗い、鬱蒼とした森林のなかで、朽ちかけた立て札が戦意高揚を訴えかけている。
立て札をひっこ抜いて、アックスでたたき割ってやろうと思った。しかし、こんな場所でまだ戦意高揚を訴えている立て札があわれに思えた。
これを立てた営林署員は、本心から森林は兵器庫なのだと信じていたのか。はじめから誰の眼にもふれないと承知して立てたのかも知れない。こんな森が爆撃の目標になるはずもない。もしかすると、べつの意味で森林こそ国の兵器庫なのだと信じて、わざわざこんな場所に立てたのか。
自然破壊や、環境の公害が問題になっていなかった頃のこと。どこの山を登っていたのかそれももう忘れたが。
255
登山に熱中していた時期がある。その頃の私のスタイルは、ア-ミ-・キャップ、黒いカッタ-・シャツ、黒いズボン。ヴェトナム戦争で放出された迷彩服のジャケット。冬はその上に50年代にはやっていたスキ-用のアノラック。当時でも、まるっきり「流行おくれ」(デモド)スタイルだった。
当時の私のカリカチュアには、「まるで忍者スタイル!」というキャプションがついていた。
名もないような山を地図でさがしては登っていた。そういう山には整備された登山道があるわけではない。いきなり崖に出て動きがとれなくなったり、地図上の峠が実際には荒れ果てて歩けなくなっていたり。そんな山ばかり登っていた。誰も知らない、見捨てられたような山でル-ト・ファインディングや、ビバ-クするのが性分にあっていた。
日が暮れる頃、山から麓に向ってとぼとぼ歩いていると、よく村人に「ご苦労さんです」と声をかけられた。営林署の役人に間違えられたらしい。
*「NEXUS」43号(06.2)参照
254
好きなことば。
メネ・テケル・ペレス。
この呪文は、バビロン王に呼ばれた予言者がこのことばを読み解いて、王国の崩壊と判読したという。数える、計る、分ける。そういう意味らしい。
原稿を書いているとき、いつも残りの枚数を数えては、締切りまでの時間をはかって、相手にわたすまでの所要時間と、わたしたあとで飲む時間をわけていた。
連載なんかだと、あと何枚だからまだダメネ。おやおや、困った、待っテケレ。できたぞ、これから飲むペレス。そんなダジャレをつぶやきながら書いていた。
ファックス、メ-ルもない頃は、総武線の電車の中で原稿を書いていた。けっこうスリルがあった。今ではこれもうダメネ。
253
・・・「ロシアで『ドヴルイニャ・ニキ-チチ』(イリヤ・マキ-シモフ監督)という長編アニメ-ションが作られていますが、日本で公開されたらごらんになりますか?」
いちおう見たいと思っている。主人公はロシア中世の三人の豪傑らしい。ただし、ディズニ-の長編の影響らしく、ヒロインの顔がディズニ-そっくり。あきれた。
・・・「ディズニ-・アニメはあまりごらんにならないんでしょう?」
「美女と野獣」を見てひどく失望したからね。
・・・「どうしてですか?」
見ているこっちが野獣になれない美女なんて、美女でもなんでもないだろう。
・・・「おすすめの長編アニメは?」
「香港のツイ・ハ-クが作った長編アニメ。(題名失念。調べればすぐわかる)。韓国のエッチなアニメ、「閻魔王」。フランスのジャン=フランソワ・ラギオニ-の「ある日突然爆弾が」とか「悪魔の仮面」、カナダのTVアニメ「サウスパ-ク」シリ-ズ。
・・・「どれも、あまり知られていませんね」
じつは長編アニメほど、その国の文化的な状況、政治的な環境を物語っているものはないんだよ。「閻魔王」は閻魔さまが、ヤラしくて、おおらかで、いじけていて、なかなかいい。「サウスパ-ク」はDVDで長編アニメが出ている。サダム・フセインを思いっきりコケにしている。アカデミ-賞にノミネ-トされたが、ハチャメチャで、エッチ、下品で、猥雑、差別、アイロニ-がいっぱいという非常識な作品だったから、みごとに黙殺された。
・・・ 「そんなアニメが好きなんですか?」
いや、そういうわけではない。しかし、ほんらいアニメ-ションに必要な「毒」がたっぷり。大女優のバ-ブラ・ストライサンドが、途中からメカ・ゴジラに変身して、あばれまわる「Mecha-Streisand」なんか笑えるよ。
ディズニ-・アニメのようにいつも良識ばっちり、そのくせ貧寒な想像力だけのアニメを、いくら高度な技術を駆使して作ったところで、いいものができるはずがない。
「牡牛のフェルジナンド」がピ-ク、傑作といっていい「白雪姫」までで、私においてディズニ-・アニメは終わってしまった。だから、つまらない。
252
気分的に落ち込む。誰にでもあることだろう。
ある女性は気分的に落ち込んだとき「雨に唄えば」を見ると話してくれた。それが心に残った。そのときから、私も好きな映画をビデオ、DVDで見るようになった。「雨に唄えば」ほどにも有名な映画ではない。
「ウォリア-ズ」、「ファウルプレイ」、「Mako」、「芸術に生きる」、「ヴォルポ-ネ」など。
もう誰もおぼえていない映画、まるっきり評判にならなかった映画ばかり。
251
コ-ヒ-を飲む。ずっと紅茶党だったが、十年ばかり前からコ-ヒ-しか飲まなくなっている。
オスカ-・レヴァントのCDがほしい。ほんらいは一流のピアニストだったが、役者でもないのによく映画に出ていた。小柄なのに、タキシ-ドがよく似あう。生活は昼夜が逆で、夜行性のパ-ティ-人種。いつも、眼をギロギロさせて、近頃おもしろくないねえ、みたいな仏頂面。分厚い唇、すすけた顔つき。顔色がどすぐろい。セリフは、皮肉のきいたひとことかふたこと。彼が、鼻の大きいジミ-(シュノッズル)デュランテといっしょにいると、それだけでおもしろかった。ジミ-の「スタ-ダスト」の演奏は最高だった。 コ-ヒ-を飲みながらオスカ-・レヴァントを思い出すのは、彼がコ-ヒ-の飲み過ぎで顔色がどすぐろくなっていたから。
250
イカサマ。誰でも知っているわるいことば。インチキとおなじ。
しかし、違った用法で「いかさま」という副詞があった。如何様からきている。
謡曲の『羽衣』に・・・天人の羽衣を見つけて、「いかさま取りて帰り、家の宝になさばや」という。これはどうしても、とか、ぜひにも、という意味。これも死語。
しかし、自分がはっきり確信していういいかたの「いかさま」は、相撲名解説者だった玉ノ海のあとをついだ神風が使っていた。
「いかさま大鵬は柏戸の動きを読んでいましたね」というふうに。
おやっと思った。その当時でもめずらしいいいかただった。
もう一つ。
「いかさま腹がへってやりきれねえ。何かうまそうな料理と、熱燗で二、三本たのむよ」といった。
戦後すぐに、ある作家の短編で見つけた。
なつかしいいいかた。
249
あまり手紙を書かなくなっている。
むろん、メ-ルのやりとりもしない。
もともと友人が少なかった。ほんとうに親しかった友人たちももう生きてはいない。
都会そだちの人間は、人づきあいがいい反面、気よわなところがあって、引っ込み思案なのだ。必要以上に、相手に気兼ねするのが自分でもやりきれない。わずらわしいとも思う。
同窓会にも出なくなった。