1247

すっと読んだだけでは、さほど優れているとは見えない。しかし、人事、風俗に関して、好きな俳句がある。

行く女 袷(あわせ)著なすや にくきまで   太祇

袷(あわせ)は、おもて、裏をあわせて作った着物。つまり、裏地つき。
昔は、四月一日から五月四日まで、そして九月一日から八日までと、着る習慣になっていたとか。つまり、期間限定だったらしい。
「著なす」は、着こなすの意味だろう。心にくいほどの着こなし、という。さぞやいい女だろうなあ。こんな句に思わずうっとりする。

蚊帳に居て 戸をさす腰を ほめにけり    太祇

たいして優れた句ではないが、繰り戸を閉める女の腰にいささか力がこめられて。それを見ている風情は、なかなか粋だねえ。
この夏、尖閣諸島沖で、領海を侵犯した中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に故意に衝突した事件が起きた。このとき、官房長官の仙石某が、わが国の外交方針を「柳腰」と唱えた。(’10.9月)私は仙石某の無知にあきれたが――こういうバカはこの句を読んでも何ひとつ見えるはずもない。

彼の後家の うしろに踊る 狐かな     太祇

これまた、なかなかおもしろい。
いたずら好きな人なら、いろいろパロディーできるだろう。

1246

風邪がはやっている。

私は虚弱な子どもだったので、よく風邪をひいた。学校を休んで、ふとんに寝かされているのは退屈だった。枕に頭をつけて見ていると、閉めきったガラス戸からもれる光に、小さなゴミが浮遊するのが見えた。

発熱した頭で、ぼんやりゴミの動きをいつまでも見ている。

母親が手当てしてくれるのがうれしかった。

風邪のひきはじめには、ネギをミジン切りにして、生ミソをくわえたものに熱湯をそそいで、寝る前に飲む。

大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜて、ショーユをかけ、あつい番茶をかける。それが風邪に効く、とされていた。
母親が、枕もとにもってきてくれるので、腹這いになって飲む。おいしいものでもなかった。

火鉢に炭火がおきている。鉄瓶がジンジン音を立てている。

灰の中に、キンカンの実を埋めて、まっくろになるまで焼く。皮がくろくなったキンカンの実をとり出して、お湯をかける。

いまどき、どこの家庭でもこんな療法はやらないだろう。こんな民間療法にどんな効果があったのかわからない。
私は、あまり風邪をひかなくなっている。
風邪をひいてもお医者さんの診察をうけることはない。
台所で――大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜ、ショーユをたらしてお湯にまぜて飲む。
ふと、亡き母親のことを思い出す。

1245

しばらく前に、ワキ役俳優、アンデイ・デヴァインのことを書いた。
舞台や映画で、たくさんの俳優や女優を見てきたので、アンデイのようなワキ役専門の俳優のことが心に残っている。

有名なスターたちと違って、ワキ役の俳優、女優たちのことはほとんど知られていない。私は、そのときどきに見た「彼」や「彼女」の姿、演技、ときには声まで思い出す。なつかしさもあるが、その俳優、女優たちの存在が、映画芸術をささえてきたことが思いがけないあざやかさでよみ返ってくる。

たとえば、ジェームズ・グリースン。
小柄で、痩せたアイリッシュの老人だった。今の私たちが、ビデオやDVDなどで見られる映画は、「毒薬と老嬢」ぐらいだろうか。
この映画では、頭のおかしい殺人者の老嬢たちの邸にやってきて、主役のケーリー・グラントをあわてさせる刑事をやっていた。タフで、鼻っ柱がつよいが、人情にあつい。そんな「役」が、ジェームズ・グリースンにぴったりだった。
(ニューヨークの警察官、刑事には、アイルランド系が多い。)

もともとブロードウェイ出身の演劇人だった。劇作家、演出家として知られたが、プロデューサーをやったり、俳優として舞台に立ったり。
やがて、映画、さらにはTVに出るようになった。
それだけに、舞台というものを知りつくした俳優だったはずである。そして、ほかのおびただしい俳優、女優たちの「運命」を見つづけてきたはずである。

「幽霊紐育を歩く」Here Comes Mr.Jordan(1941年/コロンビア)に出て、42年のアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。
(「天国からきたチャンピオン」(1978年)は、この映画のリメーク。)
私は戦後に見たのだが、主演のロバート・モンゴメリがへたくそな芝居をしているのに、ジェームズ・グリースンがやたらに達者な芝居をしているので感心した。
このあたりから、ジェームズ・グリースンが出ている映画は必ず見ることにしたのだった。「ブルックリン横町」、「タイクーン」、「恋は青空の下」など。

まず、「ブルックリン横町」は、エリア・カザンの監督第一作。ドロシー・マッガイアー、ジョーン・ブロンデルという異色女優の起用に若いカザンの気負いが見える。
「タイクーン」は、ジョン・ウエインのアクションもの。まだ、それほど知られていなかったアンソニー・クィンがワキで出ていた。
「恋は青空の下」は、フランク・キャプラが戦前に撮った「其の夜の真心」のリメークもの。「戦後」のキャプラの彷徨と枯渇がまざまざと感じられる。
ジェームズ・グリースンは、戦前の「群衆」(41年/フランク・キャプラ)にも出ているが、この映画ではほとんど目立たない。

戦時中、アメリカに亡命したジュリアン・デュヴィヴィエが、ハリウッドで撮った映画に「運命の饗宴」(Tales of Manhattan/42年)がある。
これは、オムニバス映画。第3話は、貧しい音楽家が、大指揮者に認められて、カーネギー・ホールで自作の交響曲を指揮することになる。貧しいので、当日着て行くタキシードがない。教会の神父さんの計らいで、妻が質流れのタキシードを手に入れて、破れたところをつくろって、夫の門出を祝うのだが……

貧しい音楽家の夫婦を、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスターがやっていた。ふたりは、現実にも名優・名女優のカップルで有名だった。
音楽家が、満場の嘲笑を浴びたとき、厳然として彼をかばう大指揮者を、フランスの名優、ヴィクトル・フランサン。
ジェームズ・グリースンは、ニューヨークの貧しい教区で、しがない人々の生活を応援している神父さん。セリフもほとんどない「役」だが、これがとてもよかった。

戦後の映画のなかで、ジェームズ・グリースンの存在はいつも輝いていた。

ジェームズ・グリースンの最後の出演作は、スペンサー・トレイシー主演の「最後の挨拶」だが、日本では公開されていない。

ジェームズ・グリースンは、1959年に亡くなっている。

こんなことばかり書いているから――きみのブログは「地味」だねえ、といわれるのだが。

1244

高津 慶子という女優がいた。私は高津 慶子のファンだったけれど、あまりに幼い頃に見たので、彼女の顔も思い出せない。

経歴は、少しだけ知っている。

1929年(昭和4年)、17歳で「松竹楽劇部」に入った。この年(昭和4年)7月、「帝キネ」に移る。おそらく「恋のジャズ」という無声映画が、最初の出演作ではないだろうか。

初めての「恋のジャズ」の試写を初めて見た時は、何だか変な気持でしたわ。
自分はこっちにゐるのに、向ふでは別の自分が動いてゐますでせう。そして、
あそこではかう動いたのにと思ってるのに、変な風に動いてゐますし……
ほんとに、踊る幻影といった気持ですわ。
彼女はちょっと眼を細くして、その当時を思ひ出す。

当時のインタヴュー記事から。

1930年、19歳で、「腕」という映画に主演している。このあたりから、トップスターになった。

高津 慶子は藤森 成吉の傾向小説、「何が彼女をそうさせたか」に主演している。傾向小説というのは、プロレタリア文学のこと。
パート・トーキーにする企画だった。

偶然だが、私は高津 慶子を2、3本、見ている。
題名もわからないのだが、河津 清三郎と共演した映画では、愛する男が失業し、別の女のもとに走ったため苦しみぬいて、最後には男と心中して果てる女をやっていた。お涙頂戴のメロドラマだった。小学生の私は、美しい高津 慶子が不幸なまま人生を終えてしまうその姿に戦慄した。そして、彼女をさんざん苦しめたあげく、まるで無理心中のようなかたちで死んでしまう河津 清三郎がきらいになった。

はるか後年、高津 慶子の写真を見て、もう忘れていた顔を思い出した。今の女優でいうと、水野 美紀にかなり似ている。私は、舞台劇『ユートピアの彼方へ』で見ていらい水野 美紀の熱心なファンなのである。

自分の感性をずっと遡って行くと、高津 慶子と森 静子が浮かんでくる。
この二人の女優が好きだったことは、ひょっとすると、その後の私の女性観になんらかの影響をおよぼしているかも。(笑)

1243

1929年から、30年にかけての日本映画。

「松竹」は、村上 浪六原作の「原田 甲斐」。市川 右太衛門、鈴木 澄子。
鈴木 澄子は、後年たくさんの怪談映画に主演した女優さん。この頃は、可憐な娘役で、はるか後年、多数の怪談に出るようには見えない。まったく、女はこわいね。

この頃、浪六の人気が高かった。つぎつぎに映画化されている。「東亜映画」が「三日月次郎吉」を、嵐 寛寿郎、原 駒子で。おなじ浪六の『かまいたち』が、澤村 國太郎、マキノ智子の主演で。これは「マキノ映画」。
その「マキノ映画」が、「敗戦の恨みは長し」というロマンス・メロドラマを出している。帝政ロシアから亡命した音楽家と、その門下で音楽勉強に勤しむ日本娘のせつせつたる恋物語。秋田 静一がロシア系のハーフの芸術家。彼の行く手には松浦 築枝。彼はミューズの愛に救われる。別に深い意味はないはずだが――「敗戦の恨みは長し」という題がはるか後年の日本の運命を暗示しているような気がする。

「松竹」の現代劇は、北村 小松の「抱擁」を。岡田 時彦、及川 道子。「アラ、その瞬間よ」などという映画も。及川 道子はいい女優だった。この題名は流行語になった。及川 道子に魅力があったからだろう。
当時、日本はアメリカの大不況の影響を大きく受けていた。(今と似たようなものだ。)だから、「不景気時代」などという映画が作られている。川崎 弘子、斉藤 達夫。
「奪はれた唇」というメロドラマに、渡辺 篤、筑波 雪子。
「女は何処に行く」は、栗島 すみ子、田中 絹代。

「日活」の時代劇では、「大岡政談 魔像編」で、大河内 伝次郎、伏見 直江。
「帝キネ」は、独立10周年記念で、「江戸城総攻め」。大仏 次郎の「深川の唄」を。佐々木 邦の「新家庭双六」に、杉 狂児。
バンツマ(板東 妻三郎)は、大仏 次郎の「からす組」の撮影に入っている。

残念ながら、私は、これらの映画のほとんどを見ていない。     (つづく)

1242

 1929年のベストテン。

「ディスレリー」
「マダムX」
「リオ・リタ」
「ブロードウェイの妖婦」
「ブルドッグ・ドラモンド」
「懐かしのアリゾナ」
「藪睨みの世界」
「チェニー夫人の最後」
「ハレルヤ」

ベストテンなのだからもう1本あっていいはずだが、資料がない。
さすがにこの時期あたりから、私の映画知識も多少はしっかりしてくる。

「ディスレリー」は、日本では「市民宰相」として公開された。主演はジョージ・アーリス夫妻。「マダムX」は、連続活劇のポーリン・フレデリックの「母もの映画」だが、ストーリーは――戦後、ラナ・ターナーがリメイクに出ている。この「母の旅路」で見ている人がいるかも。
「リオ・リタ」は、もともとブロードウェイでヒットしたミュージカルだが、この映画はビーブ・ダニエルズが主演したもの。
「懐かしのアリゾナ」は、ラウール・ウォルシュが撮ったはじめてのトーキー。この頃には、サイレント映画のスターたちが凋落して、ぞくぞくと新人俳優、女優が、ハリウッドに押し寄せている。

このベストテンのなかで、私がいちばん見たい映画は「藪睨みの世界」。じつは、これもブロードウェイでヒットした The Cock-eyed Worldという喜劇。マクスウェル・アンダーソン、ローレンス・ストーリングスの合作。
主演は、ヴィクター・マクラグレン、リリー・ダミタ。
リリー・ダミタは、後年、エロール・フリンの夫人。

マクスウェル・アンダーソンは、やがて『春浅き冬の頃』から大きく発展し、ついには壮大な歴史劇に移ってゆく。(私はマクスウェル・アンダーソンについて、みじかい紹介を書いたことがある。「現代演劇講座」河出書房刊)

そういえば――リリー・ダミタの息子は、ヴェトナム戦争で従軍記者として活躍したが、70年代、冷戦のさなか、ウィーンで取材中に失踪している。当時のソヴィエト側の秘密情報機関による暗殺と見られる。                (つづく)

 

1241

(No.1237からつづく)

この夏、船橋で「第七天国」(フランク・ボゼージ監督)を見た。この映画は、戦後すぐに池袋の焼け跡にできたバラックの映画館で見ている。私が、はじめて見た戦前のハリウッド映画だったが、あらためて60年ぶりに見直したことになる。
この日、私はかぎりなく幸福だった。まるで天使が私のとなりに舞い降りてきたようだった。
戦後、アメリカ映画を自由に見られるようになったが、「第七天国」を見たとき、隣りに美しい女性がいて、胸がどきどきした。私は、ほんとうに解放感を味わっていた。
この映画を見直して、連日の暑さで枯渇していた内面に火がついた。はじめて恋をしたようだった。私が長年心に秘めてきたのは、こういう思いだったのか。

「第七天国」は、アカデミー賞最初の最優秀作品賞。ジャネット・ゲイナーはこの作品で主演女優賞を受けている。

1928年のベストテン。

「愛国者」
「ソレルとその子」
「最後の命令」
「四人の息子」
「街の天使」
「サーカス」
「サンライズ」
「群衆」
「キング・オブ・キング」
「港の女」

私の見た映画は、「サーカス」、「群衆」、「港の女」だけ。
私はとても映画研究家にはなれない。

「サーカス」は日本では未公開だったが、戦後、パリの「オデオン」で見た。日本では見られなかったチャプリンの活動写真をパリで見た。観客は、子どもたちが多かったが、日本人は私ひとりだったのではないだろうか。これも忘れられない。この映画を見て、コメディを見る無上のよろこびといったものを知った。

私が生涯の大半をかけてもとめつづけてきて、最近になってやっと手に入れたものを、チャプリンは、とっくの昔に手にいれていたような気がする。

それをなんと表現していいのか。ミューズとの邂逅といおうか。   (つづく)

1240

2011年である。

気のきいたことの一つもいいたいのだが、何もうかばない。

ルネサンスに生きた、ポッジオ(1380~1459年)の話を思い出した。
ローマにさる有名人がいた、という。
ある日、何を思ったか、葦でかこまれた壁の上によじ登った。(湿地帯で、あたりに葦がいっぱい生えていたらしい。)
その葦にむかって、彼は演説をはじめた。市政を論じはじめたのである。むろん、人間相手ではないから、日頃、胸懐に秘めた不幸、不満、はては、天人ともに許さぬ者どもに対する激烈なフィリピクスもふくまれたことだろう。

熱弁をふるっていたとき、一陣の風が吹きわたり葦の葉をそよがせた。
それを見た雄辯家は、自分の話に賛成して頭をたれた人々と見立てて、
「ローマ人諸君、そんな敬礼にはおよびませぬ。私は、みなさんの中でも、もっとも卑小なる一人に過ぎません」
と呼びかけた。
このことばは、このときからローマの格言になったという。

これだけの話。
この男は、民衆にへりくだって見せたのか。それとも、謙虚な人物だったのか。あるいは、世間にむかって声をあげることのできない臆病者だったのか。ひょっとすると、おのれの夢想に生きたロマンティスト。いや、ナルシストだったのか。
ポッジオは、この短いエピソードを、どうして自分のエッセイに書きとめたのか。

2011年、新年を迎えて、私はぼんやりとこのローマ人のことを思い、このホームページに書きとどめて、春風駘蕩たる気分を味わっている。

みなさんのご多幸を祈りつつ。

1239

2010年が終わろうとしている。
例年のことながら、私の身辺にもさまざまなことがあった。
そうした哀歓に私はおろおろしながら向きあってきた。ただ、黙って対処してきただけのことであった。
おかしなもので、わるいことがふりかかってくると、それを上回るようないいことがやってくる。人間万事、塞翁が馬。そう心得て生きるしかない。

かつて私は書いた。

「青春というものは、ある意味では、ながい模索の時期でもある。たとえば、自分の周囲をおしつつむすべてのものを理解しようと努め、それができないときに不安におそわれ、なかなか前に進めない状態。
 私自身にしても、自分の過去をふりかえってみると、未決定の将来に対して、ある野望をもち、しかも、その実現をはばまれているといった時期に、何度遭遇したことだろう。
 また、たとえば愛。
 自分の過去をふりかえるとき、その追憶の入口に大きく立ちふさがって動かない女たち。
 私の青春のはじめに、この現実の意味を痛切に思い知らされた女たちについての、くるしい模索があった。」

これは、私がやっていた演劇グループの公演のパンフレットに書いた文章の一節。
半世紀後の私自身が、おなじ思いで生きていることに気がつく。滑稽というか、哀れというか。

2010年は、私にとって「くるしい模索」のつづいた不幸な年だったが、あらためておのれに許された幸福に感謝したい年でもあった。

2011年が、どういう年になるかわからない。ただ、自分にできることを少しずつ実現してゆく。眦を決して、というのではなく、ただ自然に生きてゆく。

このブログを読んでくださっているみなさんに心からの挨拶を送る。

1238

歳末、思いがけないことから阿佐ヶ谷の、さる病院に緊急入院した。

最近の私は、幸運と不運が折り重なってやってくるらしい。
12月11日、私はほんとうに幸福だった。この数年、私は「現代文学を語る」という連続講座をつづけているのだが、この日は「戦後の映画批評について」語った。
たまたま、映画批評家、荻 昌弘の仕事を論じることになったのだが、令嬢の荻 由美さんが、わざわざ軽井沢から聞きにきてくれた。おなじ軽井沢在住の作家、山口 路子さんが知らせてくださったという。ありがたいことであった。おふたりに心から感謝している。

さて、講義を終えたあと、暮れなずむ冬の繁華街、小さな旗亭で、私を中心に、クラスの有志によってささやかな忘年会が開かれた。とても楽しい集まりになった。

現在の私はほとんど酒をたしなむことがなくなっているのだが、この夜はほんのわずかアルコホルを頂くことにした。
その宴の終わりに――不覚にも意識が途切れた。

私のようすがおかしい、というので救急車が呼ばれたらしいが、担架に乗せられたときはもう意識も恢復していた。
だが、たちまちにして私は救急患者とあい成った。おのれの運命の拙なさにあきれるばかりである。

現在、まったく心身爽快。

日曜日の夜、評判のドラマ「坂の上の雲」(子規逝く)を病室のテレビで見た。兄、子規の死をみとった妹(菅野 美穂)を見ていて涙が出てきた。病室で、このドラマを見たせいもあるだろう。
あとは「文学講座」のために準備した新刊の『映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ』という500ページの大冊を読みつづけている。
「舞踏会の手帳」、第二次大戦のデュヴィヴィエのアメリカ亡命に関して、私の『ルイ・ジュヴェ』に言及がある。

以上、近況報告。
いろいろ世話をしてくれた安東 つとむ、田栗 美奈子、村田 悦子、濱田 伊佐子、真喜志 順子、見舞いにきてくれた立石 光子、池田 みゆき、吉永 珠子、そして私の身を案じてくれたみなさんに、心から感謝している。

1237

アメリカ人もあまり知らないことを書いておこう。

もっともアメリカの資料をあたって調べるのだから――アメリカ人が知らないことではない。そこで、「アメリカ人もあまり知らない」だろうこと。

映画専門の日刊紙、「フィルム・デイリー」が、1922年から、歳末に、全米の映画ジャーナリスト、映画担当の新聞記者、新聞の映画批評家、全国紙の映画評論家、そして映画プロデューサー、著名な映画製作のスタッフ、映画館主などによる投票の集計がはじまっている、だってサ。

1927年のベストテン。

「ボー・ジェスト」
「ビッグ・バレード」
「栄光」
「ベン・ハー」

当時の投票システムでは投票者の所在地で、公開されたものを選ぶことになっていた。そのため、1926年製作の映画、この4本が含まれている。
日本の映画ファンなら、たいてい見ているような気がする。むろん、誰ひとり見ているはずはない。

「肉体の道」
「第七天国」
「チャング」
「暗黒街」
「復活」
「肉体と悪魔」

私が見たのは「ボー・ジェスト」だけ。UCB(カリフォーニア大学・バークレー)の映画科の付設劇場で。
現在、ビデオやDVDで見られるのは、「第七天国」と「肉体と悪魔」あたりか。
つい最近、「第七天国」を見直した。じつに60年ぶりに。
ところどころおぼえていなかったので、新鮮だった。
「ベン・ハー」や「復活」はリメイク作品でしか見られない。    (No.1241につづく)

1236

さすがに冬である。すっかり寒くなってきた。
映画のことでも書こうか。

じつは、文学の世界で「現代作家 現在活躍している作家の作品」を、ほとんど読んでいない。好きな作家は多い。私の好きな作家は、山口 路子、多和田 葉子、角田 光代、西 加奈子、千野 帽子たち。

翻訳家には――現在活躍している翻訳家には好きな訳者がいる。

岸本 佐知子、田栗 美奈子、堤 理華、大友 加奈子、谷 泰子、田村 美佐子、高橋 まり子、圷 香織など。あげたらきりがない。

最近に、公開された映画をほとんど見ていない。
少し前までは、好きな時間にふらりと映画館に入って、途中から見て、次の回をアタマから見直して、自分が見たところまで見て、映画館を出る。そんなこともできたのだが、最近の映画館は、入場の時間がきめられていて、好きなときに勝手に映画館に入ることもできない。
そもそも、こんなシステムがおもしろくない。だから、映画館に足を向けない。
今年度、アカデミー賞に選ばれる作品は何だろう?
そんなことも気にならない。勝手にしやがれ。

ところで――アメリカ映画が、年間をつうじてベスト・テンを選ぶようになったのはいつ頃からだろう? そんなことを考える。エフレム・カッツの「映画事典」を調べればすぐにわかるのだが。めんどうだから調べない。
寒いので、書庫に行くのがおっくうなのだ。

1235

講座の初日、私は少し緊張していた。
クラスに入って、みなさんの水をうったような静けさや、いま自分の目の前で、じっと私を見つめている人々に、当惑をおぼえたわけではない。自分のことばが熱心に聞かれている。と同時に、中田 耕治という、見たことも聞いたこともない、もの書きが、何をしゃべるのか、観察している。
私は、熱心に、自分の知っていることをつたえようとしていた。
みなさんが、おそらく一度も考えなかったことを、この教室ではじめて考えてもらおうとしている。「文学の楽しみ」について私の考えていることを、みなさんとおなじように味わうことができるだろう。

むずかしい話はしなかった。さりとて、話のレベルをさげるつもりもなかった。
ただ、短い時間のなかで、できるだけいろいろな話をしようとしたのだった。

聴講している人たちが、だいたい高齢者だったので、その人たちが関心をもってくれそうなことをえらんだ。川端 康成の「浅草紅団」の一節を読んでもらう、ときに――
昭和初年のエロ・グロ・ナンセンスの風俗を描いた細木原 一起と、「戦後」になって、かつての昭和初年の風俗を描いた杉浦 明雄のマンガといっしょに見てもらう、というふうに。

この講座は、わずか4回だったから、すぐに終わってしまったが――いちおう責任は果たせたという満足感もあった。その反面、あれも話せばよかった、これもとりあげたほうがよかった、と残念な気もちが残った。もっともっと語るべきことも多かった。
大学などでの講義と違って、いろいろと反省すべきことも多かった。
そして、このクラスに参加してくださった方々に心からお礼を申しあげたい。

あらためて、船橋の中央公民館の塙 和博氏に感謝している。

1234

これまで、大学や専門的な教育機関、または図書館などでレクチュアをしてきた経験はあるのだが、地方都市の公民館が企画した「文学講座」で、一般市民のみなさんにお話をする機会はあまりなかった。
故・竹内 紀吉君の依頼で、浦安市の図書館で、イタリア・ルネサンスについて連続の講義をしたり、千葉市の老人大学で、永井 荷風について講義をした程度だったはずである。

船橋市の中央公民館が私に講座を依頼してきたのは、おそらく偶然だったが、船橋は私にとってはゆかりが深く、なつかしい都会だった。
しかも偶然ながら、この夏、たまたま中央公民館で、サイレント映画、「第七天国」を見たのだった。これまた私にとっては、忘れられないできごとになった。
その中央公民館から講座を依頼してきたのだから、私としてもうれしかったし、それだけに、熱心に話をしたのだった。

講座の最終回に、参加者にアンケート用紙がくばられた。質問の項目のひとつに――
「今後、文学関係の講座で取り上げてもらいたい内容(作家、作品、時代など)は何ですか――」とあった。
いろいろな回答がある。
このリストだけでも市民講座のレクチャアのむずかしさが、うかびあがってくる。

古典 なんでも
万葉集、源氏物語
万葉集 (古典を勉強しているので)
徒然草
良寛
芥川龍之介
夏目 漱石、ゲーテ、トルストイ
夏目 漱石、森 鴎外、樋口 一葉
永井 荷風
小林 多喜二、遠藤 周作、吉村 昭
川端 康成、芥川龍之介
太宰 治
三島 由紀夫
村上 春樹、司馬 遼太郎
岡部 伊都子
萩原 葉子
現代作家 現在活躍している作家の作品
山本 周五郎、藤沢 周平
長谷川 伸の「関の弥太っぺ」
ノーベル賞を最近受賞した作家

ひゃあ! これは凄いね。

こういう要望に答えるためには藤村 作、斉藤 茂吉、柳田 泉、木村 毅、伊藤 整、さらには大衆文学のイデオローグだった尾崎 秀樹、そして佐伯 彰一、磯田 光一をいっしょにしたほどの学識が必要になるだろう。

残念ながら、私には、こんなにいろいろな作家、作品、時代をとりあげる力はない。

講座のテーマが「文学の楽しさ」だったから、私としても、なるべく「楽しい」ことを中心にしゃべった。
だが――「文学を楽しむ」ことには、自分が絶望したときの「なぐさめ」として役に立つということも含まれているだろう。

私は、聴講者たちと、いっしょに、これまであまり気にかけていなかった世界にいっしょに入っていきたいと思った。その世界では、深い叡知が秘められていて、その作品がもたらす感動が、ちからづよく表現されているのだ。
私が、太宰 治や、梶井 基次郎の短編といっしょに、桂 歌丸や、海野 弘のエッセイを並べたのも、そして、亡くなったばかりの池部 良のエッセイをとりあげてレクチュアしたのも、そこで語られている人生のおもしろさに眼を向けたからだった。

塔も 船も そこに住む人間なしには 役に立たない

からである。(これは、ウロおぼえのソフォクレス。)   (つづく)

1233

この秋、船橋で、文学について語る機会があった。今年は「国民読書年」とかで、私のような老いぼれ作家まで講座にひっぱり出されたらしい。

題して「文学の楽しみ」。4回。

(1)「小説を読む楽しさ」  テキスト  梶井 基次郎の「檸檬」
(2)「エッセイを読む」   テキスト 海野 弘の「蘆花公園から実篤公園まで」
(3)「作家は何を見ているか」テキスト 太宰 治の「満願」ほか
(4)「読む」から「書く」へ テキスト 桂 歌丸の「心の風景」ほか

応募者が多かったため、抽選で、参加者、48名。

最終回に、アンケート用紙がくばられ、30名以上の回答を得た。

講座「文学の楽しみ」の内容はいかがでしたか。
1.大変良かった
2.まあまあであった
3.良くなかった
4.難しかった
その理由をお書きください。

いろいろな回答がある。いくつか、無作為に選んでみよう。

(1)「小説 又はエッセイの捉え方を改めて考えた事がなかったが、先生の見方があって、いろいろな捉え方がある事が解った」。
(2)「先生のお話が大変良かった。文学について自分の知らない事をイロイロ教えて下さった。」
(3)「小説の読みかた、自分にあった文学を読む。それが文学を楽しめばよいということを学んだ気持ちです。」
(4)「作家の背景、生活状況のイメージが掴めた。」
(5)「もう少し、テキストの内容に添った解説が欲しかった。」
(6)「豊富な先生のお話に自分の考えも広がり、読むことに又興味も持てました。」
(7)「豊富な話題で捉示していただけたのが面白かった。哲学的な思考へと導いて下さり、私の、もう使わず、ぼけてしまった頭脳への刺激となった。ただ、毎回、家に返って復習したが、今日のポイントは何だっけ? と今一つ、しっかりとまとめられないときがあった。「文学の楽しみ」との観点で、先生のお話に少し飛躍(?)があったのか、それとも、私がついてこれなかったのか・・」
(8)「講師が聴講者の我々に対して、尊重の気持ちを込めて、すばらしい講義を出し惜しみなく熱心に。読書年にふさわしいすばらしい企画だったと思います。
私達が先生の講義を聴くに値することを前提に、時間があっという間に過ぎる様に感じるお話でした。読むだけでなく、書きたい、実際に書いているアマチュアの私には、とても充実できたものでした。
(9)「文学の奥深さ、幅広さ、楽しみといった事柄を再確認させてくれる内容であった。実りの多い、心豊かに過ごした2時間でした。
(10)「自分流の小説の読み方から、講師の話を聞き、中身を変えて読んでみる事がわかりました。

無記名だが、みなさんが熱心に聞いてくださったことがわかる。ありがたいことだった。
ほかにも、いろいろな意見があった。

1232

仙台市の荒町尋常小学校の卒業写真に、私たちのクラスの担任だった先生たちの姿をみることができた。
昭和14年(1939年)の、2月頃に撮影されたものである。

前列、左側から、佐藤 清吉先生。2年のときの担任だった。県展の審査をつとめた画家。私が、美術に関心をもったたのは、この先生の影響かも知れない。

1257その隣に、校長、横山 文六先生。胸に勲章をつけている。
つぎに、3年の担任だった佐藤 喜三郎先生。柔道の達人だった。
そして、壺 省吾先生。4年、5年、6年と担任してくださった。

この写真にはいないのだが、1年担当だった佐藤 実先生の姿はない。おそらく退任なさったのだろう。
私にとっては、やさしい先生のおひとり。

これも偶然だが、私は、三人の「佐藤先生」と、一人の「壺先生」に教えていただいたことになる。この4人の先生たちの薫陶をうけたことを、私はありがたく思っている。

横山 文六先生には、直接、教えていただいたことはない。
祝日になると、全校生徒が講堂に集められる。やがて、モーニングの正装で、紫の袱紗に包まれた巻物をうやうやしく奉持して、演壇に校長先生があらわれる。
教頭先生の号令で頭を垂れている生徒たちに、かしこくも天皇の勅語を拝読するのが、横山校長の役目だった。へたな朗読で、生徒たちはいつも必死に笑いをこらえていた。

あんまりたびたび勅語を聞かされるので。私はすぐに暗記してしまった。

私は、四年から六年まで、壺先生に教えていただいたことを、生涯のよろこびとしている。
残念なことに、壺先生は数年前に亡くなられた

1231

1256

私は昭和14年(1939年)、仙台市の荒町尋常小学校を卒業した。

思いがけず、その小学校の卒業記念の写真が出てきた。

この年になると、小学校の思い出も茫々たるもので、荒町の通りに並んでいたわずかばかりの店や、小さな神社のお祭りに出る小屋掛けの見世物、呼び込みの胴間声、子ども相手の屋台店のアセチレンの灯、ときには田舎芸者の手踊り、ぞめき歩く見物人の流れ。そんな光景が、ぼうっと眼にうかんでくる。
日中戦争がいつ終わるかわからないのに、ヨーロッパで戦争が起きていた。どこの町でも、赤紙一枚で出征する男たちを見送る人々の集まりが見られた。まだ小学生の私には、戦争は切実なものではなかった。

その後、東京に戻ったが、少年時代の思い出にかかわるものは戦災ですべて焼失した。

戦後になって、友人、亀 忠夫が、小学校卒業の記念写真をコピーして贈ってくれたのだった。

ずっと大切に保存していたのだが、どこかにまぎれてしまって、いつしかこの写真のことも忘れてしまった。

ここに写真の一部をのせておく。
私は最前列にすわっている。1クラス、60人のクラスが四つ。私は、第29学級だった。
他人には何の意味もない写真だが、老作家の身には、はるかな過去が不意によみがえってきた思いがあった。

この写真、同級生のなかで、いちばんのチビだった。
子どもたちは、みんながくったくのない表情を見せているが、私ひとりは少し斜めに顔を向けている。未決定の将来に、わずかながら恐れを抱いているように。

1230(Revised)

この11月5日、西鶴を読んだ。
むろん、偶然だが、次回の「文学講座」で吉行 淳之介をとりあげるので、勉強しようと思って。吉行 淳之介が、西鶴の現代語訳を試みているので、西鶴を読み返しただけのこと。
ただし、無学な私は西鶴を読みこなす学力がない。

  さても、いそがしき遊興、角に、かたづき屏風、引き廻し、さし枕二つ、立ちながら、帯とき捨て、つらきながらも、勤めとて、ふし所を、口ばやに語り。すこし位をとる男を、耳引き、銭の入る事でもないに、ここらを少し洗はんせ。こちらへ御ざんせ。さてもうたてや、つめたい手足と。そこそこに身動きして、其男、起き出れば……  (石垣戀崩)

こんな部分が、戦前には伏せ字になっている。
あらためて、戦前の検閲の愚劣に怒りをおぼえた。

西鶴のエロティシズムといっても、

  丸裸になって、くれなゐの、二布ばかりになりし。其身の、うるはしく、しろじろと、肥へもせず、やせもせず。灸の跡さへ、なくて、脂ぎったる、有様を見て……  (「墨繪浮世風」)

 こんな表現が当時の検閲に引っかかったのだから、呆れる。
それにしても、西鶴らしい的確な描写で、女の美しい裸身をうかびあがらせている。
西鶴のことばに――「われも老楽の何がなと思ふに鞠には足よはく揚弓に眼定まらず」という一節があった。(貞享2年=1685年)
私も年老いて、何か楽しいことはないものかと思ったが、サッカーをしようにも足腰が弱っているし、矢場で遊ぼうと思っても、眼はかすんでいる。
そんな意味だろうと思う。

「美扇戀風」に登場する老爺は、たいへんなエロジーさんで、立ち居も不自由なので「年は寄るまじきもの」と、相手の女が同情する。女は、「いとしきおもひながら、そこそこにあしらふ」。
ところが、このオジーさん、「夜もすがら、すこしも、まどろむこともなく、今時の若いやつらが、うまれつき、おかしや」と女を弄ぶ。この部分も伏せ字。
西鶴を読んで、私も考えた。このブログももう少し違った方向性を見せたほうがいいかも知れない。

1229

宇尾さんの訃を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。若い頃、私は彼の芝居を演出した。その劇評が「芸術新潮」に出たことも、いまとなってはなつかしい。
私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に移ってゆく。無常迅速の思いがある。

佐藤 正孝君が亡くなって、やがて竹内 紀吉君が亡くなった。そして、今、宇尾さんの訃を聞いた。幻化夢のごとし。私にとって、すべては茫々たる夢に似ている。
かつて、あなたは語った。
生きている者も、死んだ人もそれぞれのばしょに戻ってゆく。静かにめぐる輪は、この場から立ち去る前の所作ごとなのだろう、と。
宇尾さん。
1254

仲間うちで、いつも楽しく語りあいながら、あなたはいつも何かを学びとろうとしていた。作家としてのあなたの誠実さは、あなたの作品にいちだんと光彩をそえるものだった。そのことを、私はほんとうにありがたいものに思う。
いま、おのがじし心のままに別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを思い浮かべて別れよう。
そして、私はあなたに告げよう。

宇尾さん、ながいこと、ありがとう、と。
※画像は宇尾房子さんと竹内紀吉君

1228

宇尾さんは、昨年の十月に亡くなったという。
その十月、私にあてた手紙のなかで、

 

女学校時代に依田という怖い老嬢先生に教わったことで、恐怖心が植えつけられ、外国語と親しくなることができずに一生を終ろうとしております。でも、外国の小説は好きですので、中田先生をはじめ、翻訳家の方々のおかげをいただいているわけでございます。
中田先生のお弟子さま方もすぐれたお仕事をなさり、よき師に恵まれた皆様のお幸せをおもわずにはいられません。そのオデュッセウス氏さまのお一人、高野 裕美子さまの早すぎる死にはどんなにお心をいためられたことかと、お心の内をお察しいたしました。
中田先生のお書斎で一緒だった、あの方が高野さんだったのかしら、とふっと思ったりしております。

 これが私あての最後の手紙の一節だった。
高野 裕美子は、私の周囲にいた女の子のひとりで、後年、作家になった。ミステリー大賞をうけてまもなく亡くなっている。高野 裕美子のことにふれながら、宇尾さんはひそかにご自分の死を見つめていたのではないだろうか。
宇尾さんから、よく手紙をいただいた。私がさしあげた雑誌の感想、私の作品に対する批評が綺麗な字で書かれている。私はいつもありがたく読んできたが、もう宇尾さんから二度と手紙をいただくこともない、と思うと、何かしら、涙ぐむような思いでむねがいっぱいになった。手紙をいただきながら、私からはろくに礼状もさしあげなかった。宇尾さんは、たいていの場合、私の作品を褒めてくれたので、お礼をいうのは気恥ずかしいことであった。だから、あらためてお礼も申し上げなか