この11月5日、西鶴を読んだ。
むろん、偶然だが、次回の「文学講座」で吉行 淳之介をとりあげるので、勉強しようと思って。吉行 淳之介が、西鶴の現代語訳を試みているので、西鶴を読み返しただけのこと。
ただし、無学な私は西鶴を読みこなす学力がない。
さても、いそがしき遊興、角に、かたづき屏風、引き廻し、さし枕二つ、立ちながら、帯とき捨て、つらきながらも、勤めとて、ふし所を、口ばやに語り。すこし位をとる男を、耳引き、銭の入る事でもないに、ここらを少し洗はんせ。こちらへ御ざんせ。さてもうたてや、つめたい手足と。そこそこに身動きして、其男、起き出れば…… (石垣戀崩)
こんな部分が、戦前には伏せ字になっている。
あらためて、戦前の検閲の愚劣に怒りをおぼえた。
西鶴のエロティシズムといっても、
丸裸になって、くれなゐの、二布ばかりになりし。其身の、うるはしく、しろじろと、肥へもせず、やせもせず。灸の跡さへ、なくて、脂ぎったる、有様を見て…… (「墨繪浮世風」)
こんな表現が当時の検閲に引っかかったのだから、呆れる。
それにしても、西鶴らしい的確な描写で、女の美しい裸身をうかびあがらせている。
西鶴のことばに――「われも老楽の何がなと思ふに鞠には足よはく揚弓に眼定まらず」という一節があった。(貞享2年=1685年)
私も年老いて、何か楽しいことはないものかと思ったが、サッカーをしようにも足腰が弱っているし、矢場で遊ぼうと思っても、眼はかすんでいる。
そんな意味だろうと思う。
「美扇戀風」に登場する老爺は、たいへんなエロジーさんで、立ち居も不自由なので「年は寄るまじきもの」と、相手の女が同情する。女は、「いとしきおもひながら、そこそこにあしらふ」。
ところが、このオジーさん、「夜もすがら、すこしも、まどろむこともなく、今時の若いやつらが、うまれつき、おかしや」と女を弄ぶ。この部分も伏せ字。
西鶴を読んで、私も考えた。このブログももう少し違った方向性を見せたほうがいいかも知れない。