1326

作家としては、「サンケイ」の連載コラムを書いていた時期が、いちばん幸福だったような気がする。

担当してくれた編集者は、旧知の服部 興平だったが、私は、いつも「サンケイ」ビルの喫茶店で、彼と話をした。もともと「週刊サンケイ」の記者で、いろいろな機会に私に原稿を書かせてくれた。

服部君は、私にアメリカの小説の翻訳を依頼してきたのだった。当時の私は、何冊も翻訳をかかえていて、動きがとれなかった。しかも、大学で講義をつづけていたし、「バベル」という翻訳家養成学校の先生になった頃で、私自身の生活環境が変わってしまった。かんたんにいえば、翻訳に時間をとられるのがいやだった。
服部君は「気分転換にマンガのコラムを書きながら、翻訳をしてくれないか」といってくれたのだった。
私は承知した。日程としてはどうにも無理だったのだが、そこまで私を信頼してくれていると知って服部君の期待にこたえようと思ったのだった。

このコラムの第一回に何をとりあげたか、よくおぼえていないのだが――たぶん登場したばかりの高河 ゆんをとりあげたと思う。

高河 ゆんは、やがて「源氏」の連載や、「ローラーカイザー」あたりから流行作家になったはずで、私はこのコラムで、だれより早くこのマンガ家をとりあげたことがうれしかった。
私は、「文芸」で同人雑誌の批評を続けてきた経験があった。マンガの批評にも自信があった。月刊誌に書くのと、週一回のコラムを書くのと、それほど違いはない。
私がコラムでとりあげた作品に、それぞれ脈絡もなく、ジャンル別にもこだわらなかった。そのため、せいぜいマンガ好きの作家の「お趣味」の行きあたりばったりの選択に見えたはずである。たしかに、そうに違いなかったが、私には私なりのクライテリオンがあった。
小さなコラムだからこそ、私がとりあげるのは、すでに有名な作家よりも、できるだけ将来性のある新人作家をとりあげようと思った。
(つづく)

1325

ある時期の私は、かなり多数のマンガを読んでいた。

服部 興平は私にとってはわすれられない編集者のひとりだった。
せっかちな人柄で話をしていると、話題はいつも私の3倍ぐらい多かった。そして、その話題は、いつも多岐にわたって、ミステリーの話をしていたかと思うと、宇宙論になったり、映画の話から、たちまち女性論になったりする。
才気煥発なジャーナリストだった。
何かのシリーズものの企画を立てると、まっさきに私に連絡してくる。
「トップに中田さんが書いてくださると、あとで書く人に話をもって行きやすいんですよ」
「へえ、どうして?」
「中田 耕治が書くんなら、(自分も)書いてもいいとおっしゃるんですよ」
「ふぅん、そうなの?」
服部 興平はニヤニヤしていた。

「サンケイ」が、マンガ時評といったコラムを新設して、私が担当することになったのも服部 興平のおかげである。
毎週、いろいろなマンガをとりあげて紹介しながら批評するというふれこみだった。
むろん、私以外に適当なマンガ専門の評論家がいないわけではなかったはずだが、マンガについて書いたことのない作家が、マンガをどう読むか、そのあたりを期待していたはずである。

私はマンガを読みつづけていた。大きな仕事をしていると、どうしても気分転換が必要で、そんなとき、手あたり次第にマンガを読む。ジャンルは問わない。青年マンガ。レディース・コミック。ナンセンスもの。ホラー系。
だいたい、単行本が多かったが、少女雑誌、女性誌、少年雑誌、青年誌。はては、ごく一部だったが、同人誌まで。

自腹を切ってマンガを買うのだから、けっこう出費がかさむ。そこで、「集英社」の編集者だった桜木 三郎に頼んで、「集英社」新刊のマンガを送ってもらったこともある。

(桜木 三郎よ、いまとなっては、せんなきことながら、きみがマンガを送ってくれたことに感謝している。新刊のマンガだけだって、たいへんな金額だったはずである。ほんとうに迷惑をかけた。今でも申し訳なく思っている。)

何でも読んだ。

今でも、何人かのマンガ家は、作品の印象といっしょに思い出せるくらいだ。
怱領 冬実。
岡野 玲子。
ささや ななえ。
「プチ・コミック」で読んだ佐伯 かよの。
別冊「フレンド」の、松本 美緒。

長いシリーズでは、窪之内 英策の「ツルモク独身寮」。
魔夜 峰央の「パタリロ」。これは「花とゆめ」で読んだっけ。

有名なマンガ家のものもずいぶん読んだ。
水木 しげる。ただし、「ミスター・マガジン」で連載がはじまった「猫楠」などで、「ゲゲゲの鬼太郎」は、もっぱらテレビで見ていたはずである。
ホラー系では、「夜中にトイレに行けなくなる話」系のマンガを、夜中にトイレで読んだり、北条 司の「CITY HUNTER」が、終わってがっかりしたり。
「リョウ」の恋人、「香」が現実にいたら、私はすべてを投げうって――
いや、怱領 冬実の「3 THREE」の「理乃」も好きだったなあ。

沢井 健の「イオナ」は――昨年、私が救急車で病院にかつぎこまれたとき、吉永珠子が、いとばん先に届けてくれたっけ。うれしかったナ。
とにかく、マンガを読むたびに、たちまちヒロインに恋をするような読者だった。
(つづく)

 

1324

もう一つ、私の心に残ったことがある。
それは、ある時点で、何かの現象をかなりの確度、ないしは精度をもって総括することの困難さである。

フランス演劇について、原 千代海が書いている。その一節に、

 

すでにしてジロォドゥは病没し、その遺作「シャイヨの狂女」がジューヴェによって脚光をあびたのは一九四五年であるが、間もなくコポオが死し、デュランが去ると、その後の劇壇に唯一の希望として法灯を掲げていたジューヴェその人さえ、今秋、思いがけなく去って行った。ばてぃは、戦後田舎に引退して、ずっと沈黙を守っている。

 

原さんがこの原稿を書いたのが、1952年だったことがわかる。

私は、やがて「俳優座」の俳優養成所の講師になった。これも、内村先生のおかげで、おもにアメリカ演劇を勉強しはじめるのだが、自分では演出家になるつもりだった。
しかし、この志は果たせず、もの書きとして生きてきたので、結果として私の目標は大きく変わってしまった。

戦後演劇の小冊子だが、この「新劇手帖」は、 私にとっては、なつかしい本だった。
いろいろなことをかんがえることができた。

たとえば、野崎 韶夫(ロシア演劇研究家)はいう。

 

ひとりドラマに限らず、オペラ、バレー、オペレッタ、児童のための演劇(中略)、こうした劇場の繁栄は営利や採算に拘束される資本主義社会では決して見られない現象であろう。(中略)劇場が国家・社会の理想と目的に心から同感し、その達成に協同するとき、そして国家・社会が劇場の成立と活動のあらゆる条件を保証するとき、真に高い思想性と芸術性をもつ演劇の開花することを、現代のソヴェート劇場は証明している。

 

こういう文章を読むと、胸が痛む。
ソヴィエト崩壊後に、ソヴィエト最高のバレリーナ、プリセツカヤは――「私たちは、70年間、きょうふのうちに生きてきました」と語ったが、この声の前に、野崎 韶夫の文章は一瞬にして意味を失うだろうから。

これとは別に私の考えたことの一つ。

現在ではかつてのブルクハルトや、ホイジンガのような文化史を越える様な研究は、いくらでも見つかる。文化という広大な分野を一身にひきうけて、そのうえで、私たちの理解をいっきょにくつがえす研究や、ごく狭い領域に限定して、その研究が、その時代の全貌をあきらかにする、といった研究もめずらしくない。
私は、ここでル・ロワ・ラデュリの仕事を思い浮かべているのだが――それでも、なぜか、ブルクハルトや、ホイジンガのもっていた魅力は少ないように思う。

へんぺんたる小冊子だが、はるかな時代をへだてて、もはや残り少ない私自身の仕事のありようまで考えさせられたのだった。

1323

戦後、日本の「新劇」は、チェーホフ「桜の園」の合同公演で復活した。
演出は、青山 杉作。
ラーネフスカヤ(東山 千栄子)、アーニャ(丹阿弥 谷津子)、ヴァーリャ(村瀬 幸子)、ガーエフ(薄田 研二)、ロパーヒン(三島 雅夫)、トロフィーモフ(千田 是也)、ピーシチック(三津田 健)、シャルロッタ(岸 輝子)、エビホードフ(滝沢 修)、フィルス(中村 伸郎)、ヤーシャ(森 雅之)

このキャストに眼をみはった。
その後、私は、ソヴィエトの「桜の園」や、イギリス、アメリカの「桜の園」、めずらしいものとしては、ポーランドの「桜の園」まで見てきた。
しかし、私は、いつも「桜の園」を見るたびに、戦後すぐの日本の新劇人たちの合同公演の舞台を思い出した。今思えば、装置や照明もずいぶん貧寒なものだったし、ラーネフスカヤを中心とする女たちや、とくにトロフィーモフ、シャルロッタをやった千田 是也、岸 輝子夫妻の、教条主義的な芝居には、築地小劇場いらいの、なんとも古風な感じがまとわりついていたが、それでも、私たちはこれからの日本の芝居を見ていたのだった。
あれ程、大きな感動をもって舞台を見たことは、あまりなかったと思われる。

私は、この「桜の園」を見て、自分も演劇という世界で何か仕事をしたいと思った。

私が見た芝居は、「どん底」、「愛と死との戯れ」(俳優座/1946年)、川口 一郎の「二十六番館」、「或る女」(文学座/1946年)、そして、「夏の夜の夢」、「人形の家」(東京芸術劇場/1946年)など。
戦災でまったく無一物になった若者にとって、芝居のチケット1枚を手に入れることが、どんなにたいへんだったか。私が、戦後すぐに原稿を書き始めた理由は、ただひたすら新劇を見るため、新刊書や古本を買うためだった。

やがて、戦時中にかかった肺結核が進行していることに気がつく。
みじめな青春だったが、私は、こうして「戦後」を生きはじめたのだった。
(つづく)

 

1322

これも最近、私としてはめずらしい本を見つけた。

田中 千夭夫、内村 直也・編 「新劇手帖」(創元社)昭和27年刊。250円。

かんたんに、内容を紹介すると――

「演劇とはどういうものか」という大項目に、岸田 国士、田中 千夭夫、装置家の伊藤 喜朔のエッセイが並び、つぎの「世界の演劇」という大項目では、イギリス演劇(内村 直也)、ドイツ演劇(遠藤 慎吾)、フランス演劇(原 千代海)、ロシア演劇(野崎 詔夫)、アメリカ演劇(杉山 誠)、日本演劇(菅原 卓)といった、当時、錚々たる人々が、それぞれの分野の演劇事情を紹介している。
その末尾に、「世界の演劇人」という項目があって、筆者は内村 直也、中田 耕治。
(むろん、内村先生が執筆したわけではなく、項目の選択、執筆、すべて私が書いた。つまり、こういうかたちで、私は原稿料を稼ぐ機会をあたえていただいたわけである。)
内容は――16ページに、百人ばかりの演劇人をとりあげて、かんたんな経歴を書いただけのもの。まあ、バカでもできる仕事だろう。
たとえば――ルイ・ジュヴェの項目は、

 

ジューヴェ  ルイ  Louis Jouvet(1887ー1951)仏 演出家・俳優。ヴィュ・コロンビエ座出身。コメデイ・デ・シャンゼリゼに移り、後にアテネ座を主宰す。代表的な上演目録は「トロヤ戦争は起らないだろう」「シグフリード」「アンフィトリオン38」「オンディーヌ」「シャイヨの狂女」「女房学校」「ドン・ジュアン」「タルチュフ」「海賊」「地獄の機械」など。驚異的な迫力をもつ演技と、特異な風貌をもって知られる。ジロードゥとの友情は有名。近代フランス劇壇の偉材。

 

とある。(10行)ジロードゥーは6行。シャルル・デュランが3行。

バーナード・ショーが8行。ロバート・シャーウッドが5行。ローレンス・オリヴィエが3行。
1947年、ルイ・ジュヴェに対する私の関心が大きかったことがわかる。

後年、私はルイ・ジュヴェの評伝を書いたが、おかしなことに――ここにリスト・アップした人々の大部分(ただひとり、中国の劇作家としてとりあげたツァオ・ウまで)を登場させている。
このことに気がついたとき、われながら茫然とした。

つまり、私は「戦後」すぐに自分がとりあげた百人ほどの人々の仕事をずっと追いかけつづけてきたことになる。
この「新劇手帖」でとりあげたときは何ひとつ知らなかったのだから、それだけ勉強してきたことになるけれど――じつは、私のやってきたことは、この百人の人々のことをひたすら理解しようとしてきただけなのか。
そう思うと、なぜか、総毛だつような思いがあった。「この小さな「新劇手帖」の、わずか十数ページに、私の未来の全てが凝縮されていたのかも知れない。
このおもいがけない「発見」に、私はしばらく考え込んでしまった。

 

驚きのひとつは――私の演劇の知識はこの時期からほとんど変化していない。ということだった。
ゲッ、おれの頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったのかヨ。
つまり――私の演劇観のほとんどは、このへんぺんたる小辞典によって作りあげられたものなのか。(ほかの分野の知識にしたところで、私の勉強などたかが知れている。)
むろん、その後の私は、かなり多数の芝居を見てきたし、実際に舞台の仕事にたずさわってきた時期もある。

しかし、私の頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったらしい、という思いは、さすがにコタえた。
その私のそもそもの出発のすべてがここにあると知って、驚きよりも何も、自分の知識の貧しさ、とぼしさにあきれた。おのれの才能がなかったことに、うちのめされたといっていい。

こうなると、笑うしかない。

もっとも――こんな機会に、私に少しでも世界の演劇について勉強をさせてくださった内村先生に対する感謝の思いがよみがえってきた。
(つづく)

1321

私は、他人の翻訳を批判しない。
そんな暇があったら、黙って、別の本を読んでいたほうがいい。

それでも、たまに、もう少しましな翻訳ができなかったものか、と思う本もある。

本通りには鉄製のアーチが備え付けられ、そこに取り付けられたネオンサインには<歓迎世界最高の小都市リーノー>と書かれている。

ある長編の書き出し。これを読んだ瞬間に、これはダメだな、と思った。翻訳は、すぐにつづけて、

 

静かな小都会である。車のフロントガラス越しに、十二ブロック先の、本通りの端近くまでが見える。この高度では何もかもが眼に鮮やかに映る。空には染み一つなく、車の計器盤から流れ出る朝のジャズ音楽は生き生きとしている。きれいな町である。賭博場の豪華な建物は、どれも現代風で、薄い灰色をしており、どのネオンサインも陽の光のなかで輝いている。交通信号が変わり、車は慎重に進む。だが、一ブロック進むと、警官に停止させられる。警官は歩道を離れて、反対方向へ行くトラックを停め、一人の老婆に付き添ってゆっくりと通りを横切る。老婆はしずかな雰囲気の銀行に入る。その隣には上品な婦人洋装店があり、更にその隣の店には、窓がらすに金文字で<さいころ賭博>とある。<競馬賭博>
を呼び物にしている店もあれば、<カジノ>の店もあり、<結婚指輪>の店もある。停車しているわずかの間に、かなり騒々しい音が聞こえ、そちらに人の注意が向く。左手の、店内の煌々とした賭博場から騒音が通りへと伝わり、歩道の上の方では店のネオンサインがきらめいて<大当たり>とでる。それは店の中のどこかで客が満点を射止めたことを示している。

 

これは、この小説の舞台になっているリノの描写。
語学的には間違いのない訳だが、なんという魅力のない訳だろう。それに、この訳は――ぜんぺん、説明にすぎない。原作者は、これからはじまる小説に、いきいきとした命を吹き込んでいるのだが、それがこの訳にははじめから欠けている。

作者はアーサー・ミラー。じつは「荒馬と女」の原作だが、日本訳の題名は「はみだし者」となっている。
1989年7月刊。もう4半世紀も昔の本だから、営業妨害にはならないだろう。

原題の「ミスフィッツ」は日本語になりにくいことばだが、「はみだし者」とはおそれいった。アーサー・ミラーが劇作家なので、全編、いきいきとした会話がつづくのだが、

 

「荒れ狂った牛が野放しで走っているというのに、俺はあの若僧を助けに飛び込んだんだぜ――君は何を話しているつもりなんだ? 俺だって、今こんなところに坐っているのは、べらぼうに運がいいんだぜ、君にはそれが分らんのかね?」
「分るわ。そうだったわね」彼女は突然彼の手を取って、それに口付けし、自分の頬に彼の手を押し当てる。「そうだったわね!」彼女は彼の顔に接吻する。「あんたは実にいい人だわ……」

 

 

映画では、マリリン・モンローが、クラーク・ゲーブルの手をとって、キスするシーンだが――

私の「みんな我が子」の訳も、きっとこんな程度のものだったに違いない。自分では、けっこういい訳のつもりでいたのだから、救いようがない。
今の私は、菅原 卓の仕事、翻訳に対して批判をもたないわけではない。しかし、駆け出しの私を叱責して、戯曲の訳が上演に不適当な訳だということ、セリフがセリフとして生きていないことを、逐一、完膚なきまでに批判してくれた菅原 卓には、いまでも感謝している。私は、ふるえあがった。
その後、私は「中田君、きみ、腹を切りなさい」ということばの重みはけっして忘れたことがない。

1320

 当時、私は、生活のために翻訳をするようになったが、いつか、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳してみたいと念願していたのだった。
 私のような駆け出しの新人が、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳せる機会はなかった。
 それでも、アーサー・ミラーの戯曲を訳すことが出来たのは――私にとっては僥倖というべきだったろう。
 当時、私は小さな劇団で俳優の訓練用に、アメリカの短編を訳していた。まだ日本では誰も読まなかったヘミングウェイという作家の「キリマンジャロの雪」という短編だった。私は、ヘミングウェイがどういう作家なのかも知らず、ただ、この短編は、いろいろなシーンが出てくるので、若い俳優/女優たちに読ませるのに都合がいい。そんな単純な理由で訳したのだった。
 たまたま、この時期、「新協」から脱退した俳優の三島 雅夫が独立の劇団を起こして、その旗揚げ公演に、アーサー・ミラーは「セールスマンの死」で世界的に知られていたが、三島 雅夫が選んだのは、それに先立つ戯曲、「みんなわが子」であった。
 その翻訳者をさがしていて、たまたま、私の「キリマンジャロの雪」を読み、「みんなわが子」の翻訳を依頼してきた。

 私は、三島 雅夫が私を選んでくれたことがうれしかった。それまで芝居の台本の翻訳など経験もなかったが、翻訳できないことはない。そう思った。

 ここから先は、今思い出しても、恥ずかしいことになった。

 私の翻訳は、まったく使いものにならなかった。
 稽古が途中で中断された。

 演出家は菅原 卓。(私にとっては、恩師にあたる内村 直也先生の実兄にあたる。)私は、急遽、菅原 卓に呼びつけられた。三島 雅夫が同席していた。

 「中田君、きみ、腹を切りなさい」

 菅原 卓の声はきびしいものだった。私は、一瞬、何をいわれているのかわからなかった。しかし、私がなにか重大な失態をおかして、菅原 卓が激怒しているらしいことはわかった。
 そして、菅原 卓は、私の訳をとりあげて、戯曲の翻訳としてまったく使えないことを次々に指摘して行った。
 私は、それまでの自信がケシ飛んでしまった。穴があったら入りたい、どころではなかった。どうしょう、どうしょう。私はただうろたえていたし、菅原 卓の指摘する誤訳、拙劣でこなれていない訳、ようするに、作品を読みこなす力がないのに、戯曲を訳すような無謀、無恥な自分の厚顔に気がつかされたのだった。同席していた三島 雅夫が、憫然たる表情で私を見ていたことは覚えている。

 けっきょく、菅原 卓が全編に手を入れることになった。公演のポスター、パンフレットに、私の名は共訳者として残ったが、実質的に、私の訳は一行も残らなかったといってよい。

 このときから、私は、翻訳の仕事で、原作者に対する敬意は、誤訳をしないこと、というより、原作に対して、おのれの才能のありったけをあげて肉迫することなのだと覚悟するようになった。
            (つづく)

1319

 私は、自分の著書、訳書が、ほとんど手もとにない。出版されたときは、著者用に届けられるのだが、親しい知人に送ったりさしあげるので、一冊も手もとに残らない。いずれ1冊ぐらい手に入るだろうと思っているうちに、たいてい忘れてしまう。

 何年かたって、古本屋の棚の隅っこに、自分の本を見つけたりすると、「へえ、こんな本を出したっけ」と感心する。

 最近、ある古書店のカタログで、自分の本や、私が中心になって出した同人誌がリストに載っているのを発見した。

 「XXXXXX」シミ ハガレアト 初版 中田 耕治署名  4000円

 「ヒェーッ、こんな値がついているのか。これじゃ誰も買わねえだろうな」

 「山川 方夫、北村 太郎、中田 耕治、常盤 新平 少イタミ 制作 1/3号」
7000円

 「冗談じゃないぜ、まったく」

 私は、別の本を買うことにした。これがまた、とんでもない高値。届いてきた本を見たら、わずか19ページ のパンフレット。3000円。
 アチャー。

 しかし、おかげさまで遙かな昔をいろいろ思い出した。むろん、ブログに書くほどのことではない。
 当時の私は、英語もろくに、読めなかったが、それでもテネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲などを読みはじめたのだった。

 「制作」は、私を中心にして出した同人雑誌。
 私がお願いして、牟礼 慶子、大河内 令子たちに、詩の原稿をもらった。北村 太郎も、私の依頼で書いてくれたはずである。
 山川 方夫は何を書いてくれたのだったか。
 それにしても――山川 方夫、北村 太郎が、もはや白玉楼中の人となっていることに胸を衝かれた。

 いろいろな思い出がむねにふきあげてくる。思い出すだけでも、腹を切りたくなるような思い出もふくめて。  
   (つづく)

1318

あまり、人の注意を惹かなかったらしいが――呼吸器系の病気で、マレーシァ、クアラルンプールの病院に入院していたグェン・カオ・キが亡くなった。享年、80歳。
かつて南ヴェトナム共和国の副大統領だった人物である。(’11年7月23日)

グェン・カーンが大統領だった頃、南ヴェトナム空軍の司令官で、「ヤング・タークス」の一人だった。「ヤング・タークス」は、直訳すれば若いトルコ人だが、当時、南ヴェトナムの軍関係者で、頭角をあらわしていた少壮指導者たちを意味する。
グェン・カーンが失脚したとき、後任にグェン・バン・チュー将軍が登場する。
グェン・カオ・キは、共和国の副大統領として1967年から71年にかけて、先輩のグェン・バン・チューを補佐した。

当時のグェン・カオ・キは、首に白いスカーフを巻いて、みずから戦闘機を操縦するような空軍司令だった。1975年、戦況が悪化して、サイゴンが陥落したとき、タン・ソン・ニュット空港から、戦闘機に妻子を乗せて、脱出したというウワサを聞いたことがある。

その後、まったく消息を聞かなかったが、アメリカに亡命して、どこかで大きなスーパーマーケットを経営して成功したという。一度だけ、テレビで見た。風貌はおなじだが、成功した華僑の商人のような感じになっていた。

この軍人・政治家に関心はない。しかし、亡国の政治家として、自分の運命も、周囲の人々の運命も、はげしく変わったに違いない。アメリカに亡命してから、彼はまったく沈黙したはずだが、ヴェトナム戦争に関して何らかの感想は持っていたはずだと思う。ヴェトナム戦争の推移に関しては指導者のあいだでも、戦争に対する考えかたや、未来への予測は大きく違っていたはずで、グェン・カオ・キが何を考え、どういう行動をとったか、私としては知りたいと思う。
グェン・カオ・キは、何も語ることがなかった。このことを、私としては残念に思う。

当時、アメリカ側で、ヴェトナム戦争の遂行に大きな役割を果たしたロバート・マクナマラが、死の直前に、痛切にこの戦争に対する反省を語ったが、グェン・カオ・キは何も証言をしなかったのだろうか。

1317

先日、空に月を見た。なにをいい出すのか、といぶかしむ方もいるだろう。

なぜかみごとに美しい月だった。

福島原発事故のニューズで、みんなが暗然たる思いにかられていた時期、私が目にした美しい月は、日本の美しさにあらためて気づかせてくれたような気がする。

  月天心 貧しき町を通りけり   蕪村

この句の季は秋だが、原発事故のニューズにおののいている私の町なども「貧しき町」といっていいかもしれない。

残念ながら、夏の月を詠んだ、いい句をほとんど知らない。
歳時記をあたってみれば、きっと見つかるはずだが、そんな暇はない。
いくつか挙げておこう。

  月はあれど 留守の用なり 須磨の夏   芭蕉

  夏の月 御油より出て 赤坂や

  夜水とる 里人の声や 夏の月      蕪村

  馬かへて 後れたりけり 夏の月

月を見たり、時代を離れた俳句を思い出して大震災の悲しみを忘れようとする。私は、そんな日本人のひとりなのである。

一茶にもあるはずだが、

  なぐさみに 藁を打ちけり 夏の月    一茶

こんなところだろうか。

おっと。また、ヤナことを思い出しちまった。
放射線に被爆した飼料のワラを食べていた東北の牛が、牛肉として出荷されたことが問題になって、各県で放射線量を計測しはじめている。

三月に、何かといえば――「この程度の放射線量を摂取しても健康に影響はない」としきりにヌカしていたやつらに、こんどはワラでも食わせてやりたいね。

  月はあれど 放射線なり この夏は   香遅庵

なぐさみに 肉も食えぬか 夏の月

イヒヒヒ。

 

 

 

1316

暑い。例によって、頭がろくに動かない。(ウゴかない、のではなく、イゴかない。)そこで、またまた俳句の話。

炎天に 照らさるる蝶の 光かな   太 祇

いいなあ、さすがは太 祇先生。いいよ、これ。
今年の夏は、わが家の庭で蝶々を多く見かけた。
わが家のバカネコがつかまえて見せにくる。
「バッキャーロ。せっかく遊びにきてくれた蝶々をとって、鬼の首でもとったような顔で見せにくるんじゃねえ!」

炎天の 空に消えたる 蝶々かな   冬 葉

炎天や 水盤に憩ふ 蝶を見る    百 竹

こんな風情は、もうどこにもない。どこでも見られない。

炎天の日に いらいらと 毛虫かな   橡面坊

今のご時世なら――「炎天の日に いらいらと 放射量」だね。
「炎天の日に いらいらと 菅首相」でもいいか。内閣支持率、18パーセントだってさ。(’11.8.8)鳩ポっポでさえ、19パーセントだったから、こらまた、いらいらだなあ。
ま、退陣の日程がきまりかけているのだから、ま、いっか。

私の住んでいる界隈は、台風も寄りつかない。だから、ほかの土地では「八大龍王雨やめたまえ」と祈っているのに、雨さえも降らない。

三五つぶ 蓮に落ちけり なつのあめ   大江丸

夏になると、わが家の近くの公園に、天然記念物の大賀ハスが咲くのだが、「三五つぶ」の雨も降らないせいで、干割れた泥のあいだに、申しわけなさそうに立っている。

降る雨の ただ夏らしくなりにけり    公孫樹

先日、ニューヨークの株が、一時、385ドル安。(’11.8.9)株価暴落。東京、アジア、ヨーロッパと連鎖反応をおこした。
東京市場だけで――6月末から8月にかけて、株式の時価総額は約27兆円、フッ飛んじまったという。

背筋が寒くなった。涼しくていいが、ここにきて、世界的な恐慌(デプレッション)なんて、冗談じゃないぜ。……
私のような貧乏人が気に病んだって、仕方がない話だが。

1315

暑いぜ。まだ、暑い日がつづいてやがる。
本を読む気になれない。

ところで、芭蕉に

 

    涼しさを 絵に写しけり 嵯峨の竹

 

という句がある。
若竹の新月になびくさまをデッサンするさえ、涼味あり。いわんや、嵯峨野の緑陰をめぐり、るいるいたる古墳、爛班(らんはん)たる青苔のほとり、一椀の茶を喫し、そぞろ、いにしえを回顧するにおいて、清涼、いうべからざる趣きのあるべし。
KDDIのPR雑誌「TIME & SPACE」最近号(2011.8/9)の表紙に――ライトアップされた嵯峨野の竹林が、表紙になっている。
風景写真として、芭蕉さんに見せてあげたいすばらしいショット。きっと、名句が生まれるにちがいない。

ただし、私のようなぼけ老人は、この暑さで頭がおかしくなるばかり。

このブログ、ときどき俳句が出てくる。何も書くことがないので、せめて俳句でも、というさもしい了見が見えるだろう。ヤキが回ったのは暑さのせいだけではない。
さて、一茶の句に、

 

  蓮の葉に のせたようなる庵かな  一茶

 

という句がある。この句について、明治32年の雑書に、

 

   斯(かく)の如き詩趣はすでに旧(ふる)く、したがって涼味も浅し。

 

とあった。おやおや。一茶もバカにされたものだ。
もっとも、おなじ一茶の

 

   湖に 尻を吹かせて セミの鳴く

 

といった句は感心しない。むしろ、

 

   朝顔に 涼しく食ふや 一人めし

 

などは、一茶らしくていいのだが。

 

さて、メシでも食うか。ネコの「チル」にも食事をさせなければならないので。
チョッ、くそ暑いぜ。

 

 

1314

 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

1313

 たとえば、サイゴンの夏の夕暮れ。

 カフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めている。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴェトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴェトナム戦争下のサイゴンのやすらぎにみちた風景は想像もつかないものだった。

 私自身、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴェトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。

1312

今年の夏も暑い。まあ、あたりまえの話。
涼しいことを考える。

 

   夏河を越すうれしさよ 手に草履

 

有名な句。なんともうらやましい。暑さしのぎに、わざと橋をわたらずに、川の中をジャブジャブ渡ってゆく、という趣向がうれしいけれど――私の住んでいる町には、そんな川もない。小さな川はあるのだが、両岸ともコンクリートの護岸工事で、うっかり川に入ったら這いあがれない。

 

   涼しさや 掾(えん)から足をぶら下げる   支考

 

これぐらいなら私にもできる。しかし、わが家には掾側(えんがわ)もない。ビルの窓から、足をぶら下げたら、さぞ涼しいだろうが、すぐに防犯カメラに撮られて、警備員につかまっちまうね。ボケ老人の徘徊ということになるかも知れぬ。

  此のふたり 目に見(みゆ)るもの みな涼し  芭蕉

 

私の詠む句なら――このふたり 目に見(みゆ)るもの 暑苦し。

私が、ときどきこのブログで俳句をとりあげるのは――もはや、はるか遠く過ぎ去った風物を、心のスクリーンに映すようなものかも知れない。

 

 関守の宿を 水鶏(くいな)に問はふもの    芭蕉

 ほととぎす 声横(よこた)ふや 水の上    芭蕉

 

涼しさ、かぎりなし。ただし、水鶏(くいな)も、ほととぎすも、見たことがない。

そこで、とっておきの一句を。

 

 河童の戀する宿や 夏の月

 

これなら涼しいが――私の場合は、

 

  河童 また失戀したか 夏の月

 
 

どうも暑苦しい句で、ごめんなさい。

 

 

 

1311

暑いので仕事にならない。仕方がない。部屋のゴミを片づけようか。

色々なものが出てくる。古雑誌、古い写真、古い手紙。みんな大切に保存しておいたものだが、残念ながら、残しておく価値もないものばかり。

ときどき、古いノートが出てくる。
そんな中に、私が何かから書き写しておいたメモがあった。

 

ある日、ジュヴェは劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。

ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。

私は、当時、ルイ・ジュヴェの評伝を書いていたので、ジュヴェのエピソードはかならずメモすることにしていた。トリスタン・ベルナールは有名な喜劇作家だから、俳優のルイ・ジュヴェが会いに行っても不思議ではない。問題は、ジュヴェはトリスタン・ベルナールと何を話したのか、ということになる。
そこで、私は、当時のトリスタン・ベルナールについて調べはじめた。
けっきょく、ジュヴェがトリスタン・ベルナールと何を話したのか、わからずじまいだった。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい。話を終えて、トリスタン・ベルナールは、ジュヴェを送って外に出たらしい。

帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、
「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありませんね」
トリスタン・ベルナールは答えた。
「だけど、おれだって違うからね」

後日、この話をしてくれたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったように、気の毒なほどうろたえて、
「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
「ああ、よかった! 安心したよ」

泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなるのだった。
「まったく、ルイときたら……つまらないことにこだわるからなあ」

 

このエピソードを私は使わなかった。ジュヴェはトリスタン・ベルナールの芝居を一度も演出しなかったからである。

評伝を書く仕事は、地図をもたずに登山をするようなところがある。自分ではしっかりしたルートをたどっているつもりでも、思いがけない方向に迷い込むことが多くて、自分でも因果な仕事だなあ、と嘆いたりする。

このエピソードを私は、使わなかった。ただ、メモしただけで忘れてしまったのだろうか。それも、今となっては思い出せない。
だから、このエピソードはいつ、誰が書いたのか。これも、もう調べようもない。

これだけのエピソードから見えてくるものはいくつもある。
フランスふうのジョーク。トリスタン・ベルナールのすました顔つき。ジュヴェの「小心」、または「臆病」。
私は、ジュヴェの「臆病」(プールー)について、たとえば「第三部/第一章」で書いた。この「臆病」(プールー)は、私の評伝の伏線の一つ。あえていえば、この「小心」や「臆病」は、俳優がほんとうの力や影響力を得るための唯一の手段とさえいってよいのだが、そうした俳優や女優を、じつは私たちは本気で見てはいない。

人は何故、俳優になるのか。私たちは、なぜ、ある俳優、女優を、名優、名女優というのか。では、名優、名女優とは何か。
最近の私は、そんなことを考えつづけている。

部屋を片づけていて、自分のメモを見つけて、いろいろなことを考える。
しばらく考えたあとは破り捨ててしまう。
ボケたもの書きだなあ。

 

 

1310

ある年の夏、庭の紅葉がなぜか枯れ始めた。
丈の低い紅葉を1本だけ植えてあるのだが、すっかり元気がなくなったのである。

紅葉が弱ってしまった原因は、すぐにわかった。日頃、気にもとめなかったのだが、この紅葉の幹に大きな空洞ができている。地上から1メートルばかり、幹の先、枝が二本に別れている部分に、洞穴の入り口があった。ここに、アリがうごめいている。
アリが巣を作ったらしい。

入り口はせいぜい2センチほどの大きさだが、幹の内部はおそらく大きな空洞になっているらしい。少し観察すると、小さな、黒いアリが、無数にうごめいている。
私は、このアリどもを駆除することにした。

アリ駆除のクスリを地上、紅葉の根元にぐるりと散布する。直径、20センチ。幅は1センチ程度。オカルト映画に出てくる魔除けの円圜(えんかん)のように。
これで、まず、アリの退路を断つ。効果があった。外に出ていたアリどもは、紅葉の幹にもどれなくなって、悪魔のサークルのまわりをぐるぐる歩きまわっている。

いまや、これは「ベルリンの壁」であった。アリ遮断の壁。
私はベルリンの封鎖を命じたスターリンのように、冷酷無残な微笑をうかべて、周章狼狽するアリどもを睥睨したのであった。

つぎに、幹の空洞の入り口からクスリを降りそそいだのである。ジュータン爆撃のように。

巣から出た長いアリの列は、突然の障害物に遮断されて、たちまち算をみだして、大混乱になった。幹をつたって地上に下りたアリたちもおなじで、みるみるうちに、「壁」の内側と外側に、アリの大渋滞が起きた。

私はアリに対するおそろしいホロコーストを決行したのであった。

私がアリの巣めがけて注ぎ込んだのは、粉末のようなクスリだが、一つひとつが微細で透明な結晶体で、巣穴の周囲にみるみるうちに積みあがった。
まるで、北極の氷山のように。
アリたちは、不意に降りかかってきた大災厄にあわてふためき、われがちに巣から逃げようとしたり、触覚がクスリにふれると、急いで穴にもぐり込んだり。大混乱になった。

私は冷酷無残な殺戮者として、圧倒的多数のアリたちを睥睨している。
モスクワから雪崩を打って敗走するナポレオン軍を追尾して、これを殲滅しようとするクトゥゾフのようなまなざしをもって。

巣から飛び出してきたアリたちの大多数は、ただ右往左往するだけだった。
そのなかで、ほんのわずかな数のアリたちが、おそろしい事態を見て取って、穴の周囲に積みあげられた結晶の一粒をかかえあげ、穴の外に投げ落とそうとする。
愚かなヤツばらめ。
私は片頬に残忍な笑みを刻んだ。必死にクスリの結晶を排除しようとするアリどもの行動に軽蔑の眼を向けたのであった。
バカなことを。そんなことをしたところで、途方もない量のクスリの始末がつくはずもない。原発のメルトダウンに、右往左往する人間のように。

だが、その1匹が、必死にクスリを抱きかかえては、穴の外に投げ捨てるのを見て(?)、近くにいたアリが、おなじように、クスリをつかんでは外に投げ出しはじめた。
ほかの大多数は、ただうろうろ走りまわったり、逃げ場をうしなって、そのうちにクスリにやられて動かなくなるのだった。

私は、最初にクスリに挑みかかって、一個々々を、必死に運びだそうとしていたアリを見つづけていた。私はいつしか彼の働きに感動していた。
彼の努力にも係わらず、やっと十数個のクスリを外に投げ落としただけで、彼はあえなく崩れた。
おそらく神経をやられたらしく、穴の近くまで戻ったと思うと、最後の一個にすがりついて、キリキリ舞いをすると、そのまま紅葉の幹からまっさかさまに落ちて行った。彼にとっては千仞(せんじん)の谷にむかって。
このアリの行動は、壮烈、鬼神を哭(な)かしむる戦いぶりであった。私は、このアリの死を悼んだ。

私の戦果で、紅葉の木は元気をとり戻した。アリの巣になっていた樹幹内部のおおきな洞窟は、石膏をとかして流し込んだ。チォルノブイリの原発のように、要塞かトーチカのように固めて、二度と憎ッくきアリどもが潜入できないようにした。
この紅葉は、秋になると、もとのようにみごとに赤い葉を見せてくれた。

私は、ある年の夏――私に対して、最後まで必死に抵抗し、従容として死を選んだアリに哀憫(あいびん)の思いを禁じ得ないのである。

 

 

1309

北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動について、

働かないアリは、サボろうとしているのではなく、働く気はあるのに、反応が遅いため、先に仕事をとられてしまって、結果として働けないのです。

と、いわれる。

ひゃあ、そうなのか。私は、最近の自分の沈滞ぶりを――働く気はあるのに、反応がにぶくなったため、何も書けないのだと思うことにした。(笑)
これは、冗談だが、長谷川 英祐先生のインタヴューは、私にいろいろな「刺激」をあたえてくれた。

長谷川 英祐先生は、アリがいっせいに働く場合と、いちぶがかならず休んでいる場合を比較する。
当然、全員が働くシステムの方が効率は高い。時間あたりで、多くの仕事を処理できた。しかし、「働いた者は休まなければならない」という条件と、「作業が途切れると、コロニーが絶滅する」という条件を加えると――
働かないアリがいるコロニーのほうが、長い時間持続できるという結果がでたという。

長谷川 英祐先生のすごいところは、これを推論からではなく、実際のかんさつから導きだしたことにある。

長谷川 英祐先生の研究対象は多岐にわたっているという。このインタヴューで、先生は、

 

研究対象を絞るというよりは、面白い研究をしたい。基礎科学は芸術と同じで、驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています。

 

私は、科学に関してまったく無知な人間だが――「基礎科学は芸術と同じで、驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています」という長谷川先生に共感した。

(つづく)

1308

北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動を詳細に観察なさった。

その結果、ハタラキアリのなかには、まったくはたらかないヤツがいるという事実を確認したという。先生のインタヴューが、(TIME & SPACE 2011.4/5)に掲載された。
<ついでにいっておくと、この「TIME & SPACE」は、KDDIのPR誌だが、現在のPR誌のなかでは抜群にレベルの高い雑誌である。>

よく働くアリは、観察した集団(コロニー)の20パーセント程度。
まったく働いていないアリも、やはり20パーセント程度という。

ここから先は――先生の観察をそのまま引用しておく。

  そこで、よく働くアリを30匹、働かないアリ30匹をとり出して、それぞれ新
  たなコロニーを作り、観察を1カ月間続けると、働かないアリだけからなるコ
  ロニーでは一部はよく働くようになり、よく働くコロニーでも、一部は働かなく
  なったのである。

この結果は、「反応閾値(いきち)モデル」という仮説に一致するという。

 

  多くの人がいる部屋が散らかってくると、いちばんきれい好きな人が掃除をし、
  また散らかってくると、同じ人が掃除をします。昆虫も同じように、刺激に対す
  る反応、働きアリなら仕事に対する腰の軽さが個体によって異なっているのでは、
  という仮説です。実際にミツバチやマルハナバチで、刺激に対する反応性が異
  なることが確かめられています。

先日の地震で、書棚に並べてあった本が崩れ落ちて、私の仕事部屋はまるで津波のあとのようになっている。本がゴチャゴチャになってしまったので、少し掃除をした。途中で、この際いろいろな本を始末しようと思った。
思っただけで、何も手をつけていない。いまや、私は「働かないアリ」なのである。
(つづく)

1307

夏のまっさかり、毎日、アリを観察していた時期がある。
朝から晩まで、アリたちの動きを追っていた。むろん、私の観察は科学的なものではない。ただ、アリが何かのエサ、エモノを見つけたとき、どういう行動をとるのか、それをどのようにして仲間に伝達するのか。巣に待機している連絡をうけたアリたちは、どう対応するのか。
毎日、庭にしゃがみ込んで、アリばかり見ていた。当然、近所の人たちは、私を奇人、よくいっても変人と思ったらしい。
隣家の若い主婦は、家人に「お宅のご主人は、代書屋さんですか」と聞いたらしい。
私は大笑いしたが、「代書屋」どころか、まったくの無名作家といったほうがよかった。夏の日ざかりに、庭にしゃがみ込んで、アリを見ているのだから、ノイローゼぐらいにみられても仕方がない。

ほんとうは仕事をしたくても、どこからもクチがかからなかっただけ。売れないもの書きだった。時間だけはたっぷりあったが、前途に希望はなかった。
原稿の注文がないということは、読みたい本も買えない、ということなので、ほかにすることもないからアリを観察していたにすぎない。

毎日、観察しているうちに、アリの集団のなかにも、ズルいヤツがいることがわかってきた。
たとえば、何かの情報に接して、みんなが色めき立って巣の中からいっせいに飛び出してくる。なかには、不退転の決意を見せて、まっしぐらに自分の目的に向かって進んで行くヤツもいる。
ところが、巣から出てきても、ほんの数秒あたりのようすをうかがっただけで、急いでもとの巣に戻って行くヤツもいる。自分が出てきた「出口」のすぐ近くの「入り口」にもぐり込むヤツもいる。

とにかく、アリのなかには、いろんな行動をとるヤツがいる。そのなかで、アリとして、当然のことさえしない、ようするに働かないヤツがいるのだった。
(つづく)