1933〈少年時代 19〉

大震災のあとの大不況に、少しづつだったが、女性が社会に進出しはじめ、あたらしい仕事をもつ女性がふえてきた。
タイピスト、電話の交換手は、あたらしい職業女性だった。
バス・ガール、デパート・ガール、エレベーター・ガール、マネキン・ガール。
さらには、カフェの女給仕、あるいはステッキ・ガールなども。

大不況を背景に、スカート丈がみじかくなった。尖端的なファッションの若い娘たちは、それまでの束髪、三つ編みをバッサリ切って、断髪(ショートカット)にした。おそらく、ハリウッドの映画女優の影響もあったと思われる。男も流行の背広に、ツバの短い帽子で、モダーンなスタイルになる。
カッコいいモボ、モガたちが、銀座、心斎橋を闊歩する。
仙台には、銀座や心斎橋はなかったが、仙台にも洋装の女性がふえてきた。宇免も、洋装することがあった。銀座のモガたちに負けない気もちだったのか。
一番町のデパート「藤崎」の外商部から似鳥さんという番頭がお伺いにくるようになって、毎週、あたらしいモダーンなファッションの見本が届く。宇免が洋装するようになったのも、自然なことだったと思われる。

はるか後年、時代が、20世紀末から、21世紀にかけて――若い男たちが不精ヒゲをはやして、長い髪をうしろにしばり、デニムにグラサン(サングラス)、ビールを一気ノミして、女の子から、キショッ(気色がわるい)と蔑まれていた平成のモボたちを思い出す。
そして茶髪、ガングロ、パンティーが見えるほど短いスカート、ルーズソックス、ペタンコ・シューズ、フルジップ・ジャケットやゴスロリ・スタイルで、渋カジ、裏原系のモガたちを並べて見たら、昭和初期のモボ、モガたちはキショッ(気色がわるい)どころか、むしろカワイイぐらいだったはずである。

昭和初期はエロ・グロ・ナンセンスの時代だった。