1932〈少年時代 18〉

(No.1923からつづく)

2年生になった。私にとっては、学年が変わることは担任の先生が変わることだった。佐藤 実(みのる)先生のことを私は忘れた。

荒町尋常小学校の教員室の入口、正面玄関の壁に300号ぐらいの大きな油絵が1枚、掲げてあった。佐藤 清六教諭が描いた絵だった。たしか蔵王連山を描いたリアリズムの絵だったと思う。平凡な風景画だった。子どもの私には,それほどすぐれた絵とも思えなかったが,この絵を見て育ったお蔭で、はるか後年,登山に興味をもったのかも知れない(ただし、それも後づけの理屈だったような気がする。あとでふれるが、6年生のときに、担任の壺 省吾先生と一緒に蔵王山に登ったのが、本格的な登山だったのだから。)

1年生、2年生と、私は優等生だった。2年生になったとき級長に指名されたときも、別にうれしいとも思わなかった。小学2年生だった一年間の記憶がほとんどない。

私が2年生になった頃、仙台は旧態依然とした小都市だった。それでも、中心部にあたる一番町あたりには、あたらしい様式の洋風建築のオフィスビルが建ちはじめていた。父の昌夫は、私の住んでいる清水小路から、歩いてロイヤル・ダッチ・シェルのオフィスに通っていたと思う。宇免が、Yシャツにアイロンをかけ、毎朝、きちんと靴みがきをしていた。サスペンダーに、派手な靴下、当時としてはめずらしい赤い革靴というスタイルだった。
私は知らなかったが、仙台駅の周辺には、カフェ、ミルクホール、ダンホールなどがぞくぞくとあらわれたらしい。

女は家庭を守るものとされていた時代に、未婚の女性は、裁縫、お茶、お花など、嫁入り修行に精出すのが、当時の風俗だったが、ろくに教育もうけなかった宇免も、遅まきながら、お茶、お花など、さらには長唄の稽古をつづけるようになった。経済的に余裕ができたことも、宇免にとってはうれしいことだったと思われる。
宇免は裁縫が得意で、半襟でも、羽織でも、自分で縫いあげた。
何につけ稽古熱心で、私が小学校を卒業するまでに、お茶、お花、三味線の名取りになった。
毎日、稽古に通うのは、それなりに苦労があったと思われるが、若かった宇免は、日々、ひたすら努力していた。

宇免は和服を着ることが多かった。
和服を着る機会が多かったわけではない。ただ、父兄参観といった小学校の行事には、いつも和服で出席していた。
着る途中でずれないように、指先で長襦袢と着物の後ろ襟をぴったりあわせる。その仕草が綺麗だった。腰紐を口にくわえる。これもずれないように、すべりのわるいものをきりりとしめる。前を高めに、後ろは下がり目にしめると、着くずれがしない。着付けのときに、一度、上を向いてからだを反らせる。これで胸もとが楽になる。帯は、やや斜めに結ぶ。
幼い私は、母親がみるみるうちに、美しい女に変身するのを見るのが好きだった。

若い母親が、教室の後ろに立って、清六先生の授業を参観する。
たいして美人でもない宇免は、ほかの生徒の母親たちよりも、わかわかしく、すこやかに見えた。