昭和8年(1933年)の夏休み、私は塩釜(しおがま)で過ごした。
夏休み。今が自分の人生でも一番幸福だと思える時期。もっと幸福だったのは、大好きな祖母のあいといっしょに塩釜で過ごしたことだった。
少年にとっては、自分が何かの事実にじかに向きあうのが、夏という季節なのだ。ゆえにこそ、夏は少年にとって「フロンティア」なのだ。
私は、仙台で育ったことから、なぜか、自分の感情や情緒の動きに不適応感をもちつづけてきたと思う。
当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だが、塩釜はその石巻に接した漁村で、人口はせいぜい数千にみたない小さな田舎町だった。
仙台は、多聞(たもん)中将のひきいる第二師団が置かれて、東奥(とうおう)の覇権をめざす軍国主義のさかんな都市だったが、塩釜は、昔から変わらない漁村で、ようするに、仙台のように軍国的なソフィスティケーションではなく、土地のすべてがどこか江戸時代をしのばせる過去と、発展をめざす現在を見せていた。
塩釜(しおがま)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。
漁船は遠く千島や、カムチャッカまでサケ漁に出向いたり、近くの利府(りふ)の梨作り、小さな造船所で作る木造船の匂い、大漁旗をひらめかせて、繋船岸にひしめく漁船の群れ。 それでも町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。
「おバアちゃん子」について調べたことはないが、幼い頃に祖父か祖母にそだてられた少年少女たちは、成人に達してからも、目上の人、同輩、あるいは異性に対する態度、そのとり扱い、受け入れかたに、なんらかの特徴が見られるかも知れない。
祖母のあいは、貧しい田舎に生まれ、貧しく育って、小学校もろくに通えなかったらしい。あいは、少しも美人ではなかった。気のつよい女だった。眼がするどくて、相手を一瞬で見抜くようなところがあった。
日露戦争から復員してきた兵士と恋仲になって、娘の宇免(うめ)を生んだが、その兵士が急死したため、淫奔女(いたずらむすめ)とそしられた。今でいうシングルマザーだが、明治末期の片田舎で、未婚の娘が生まれたばかりの父なし子を育てることもむずかしかった。戸籍上、生まれたばかりの娘の宇免を、従兄の西浦 美代松の養女にして東京に出た。
いろいろな職業を輾転としたが、大森に移って、炭屋を営んだ。宇免が、大森の素封家の家に子守女として雇われたのもこの頃のことだったろう。
あいはこの時期に結婚して、勝三郎(宇免の異父弟)を生んだ。