1923〈少年時代 17〉

小学校の学芸会が終わって、私は、全校生徒のなかで、ただひとり、Aさんとお互いに口きく生徒になった。ただし、校内でお互いに口をきくほど親しくなったわけではない。
いっしょに登校する時間、または下校時に、たまたまいっしょに並んで歩く。そんなささやかなことが、お互いを少しだけ近づけた。それでも、同級生たちは、私とAさんのことをやっかみ半分で、いろいろととり沙汰するのだった。
初恋とさえ呼べない程度のかかわりだったが、校庭にそびえたつ大きなプラタナスの木陰で彼女とすれ違っただけで幸福な気もちになるのだった。

Aさんは、私の住む土樋から広瀬川をへだてた対岸の越路(こしじ)に住んでいたから、通学の道がおなじ方角だった。放課後、私たちは、いっしょに帰ることもあった。
お互いに口数は少なかったが、Aさんと並んで歩くだけでうれしかった。

Aさんと肩を並べて歩いていると、かならず通行人に見つめられた。

2021年、104歳で亡くなった平井 英子のことから、思いがけなく少年時代の思い出をたどることになったが、まさかAさんのことをなつかしむとは思ってもみなかった。年老いた私が、当然のように、retrospectiveになっているせいだろう。

平井 英子のことから、別のことをいろいろと思い出した。

たとえば、エノケン(榎本健一)の劇団にいた二村定一(ふたむら・ていいち)。

二村定一が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、当時の子どもたち誰もが知っていた。
それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーは、小学生たちもよく歌っていた。
1934年、千田 是也が「東京演劇集団」を結成したとき、ブレヒトの「三文オペラ」を公演した。このとき、二村定一はエノケン(榎本健一)と一緒に客演した。先鋭な政治意識をもった劇団に、大衆演劇、それもボードヴィルの喜劇役者が出るなどということは考えられないことだった。
エノケンが、ブレヒトの「三文オペラ」に出たことは、それこそ破天荒なできごとだったはずだが、当時のエノケンの人気はたいへんなものだった。そのエノケンでさえ、「二村定一」がいなかったら、あれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、劇場では、二村定一とデュエットしてヒットしている。

私もエノケンのファンだったから、よく「青空」を歌ったものだった。Aさんと、手をつないで「青空」を歌いながら、下校したことを思い出す。

ある日、私は紙芝居を書くことにした。

どんなストーリーだったのか、おぼえていない。
ただ、担任の佐藤 実先生の前で自作の紙芝居を披露した。同級生の前で、へたくそな紙芝居の絵とストーリーを発表した。これが、私の最初の創作への意欲だったことになる。

(つづく)

 

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