市電をとめてしまったこと以外はごく普通の幼年時代を過ごした。
満州事変か起きたのは、1931年9月だった。私は4歳。
当然ながら、この頃の思い出はない。
1934年、世界的な恐慌の余波を受けて、父の昌夫は失職した。
三日間、それこそ寝食を忘れてつぎの就職先をさがした。英文の速記が専門だったので、たまたま、外資系の石油会社の仙台支店に勤務するという条件で、オランダ系の「ロイヤル・ダッチ・シェル」に就職した。
このあたりの記憶は、かなり鮮明に残っている。
仙台駅に着いたとき、プラットフォームのあちこちに夜の暗さが溶けかかっていた。十人ばかりの乗客たちが、寒い季節にかがみ込むように通りすぎて行く。
機関車は、ようやく白みはじめた夜空に白い煙といっしょに細かい火の粉をふきあげている。橙色の灯に照らされている機関士の動かない横顔。
その乗客たちに若い娘たちが数人いた。娘たちは、東北の寒村から連れ出されて、どこか知らない土地に娼婦として売られていったに違いない。
父の昌夫は、仙台に赴任してすぐにすぐに貸家を探して歩きまわった。歩き疲れた私は、父の昌夫、母の宇免に手をひかれて、夕暮れの躑躅(つつじ)ガ丘公園に立った。そこから、仙台市内を見渡した。日没の近い空が赤く燃えていた。そのとき、なぜか、これから先に私たちを待っているものにおびえていたことを思い出す。
そして、木町末無(きまちすえなし)という奇妙な名前の町に住むことになった。
今はその町名もなくなっているが、伊達 政宗の居城の下にながれる広瀬川にのぞむ細長い町だった。
こうして幼い私は仙台で過ごすことになった。このことは私に、大きな影響をおよぼした。
まだ妹、純子は生まれていなかった。
仙台は、まだ封建的な気風がつよかった。
当時、仙台の人口、約17万5千人。
大不況が、さまざまな影響をおよぼしていた。アジアにおける日本の地位の比重が大きくなったため、日本の戦略的な地歩獲得の要求、中国の経済危機が深刻化したことも、父の昌夫の転職に影響をおよぼしていた、と(現在の)私は考える。
私たちは、満州事変が太平洋戦争へのきっかけになったことを知っている。
この戦争の要因として、軍部の暴走があったことも事実だが、当時の民衆が、政治に参加したことも大きな要因と考える。
中国は、日本の租借地からの即時撤退をもとめて、学生たちの不平等条約反対運動が、性急に発展していた。これに対して日本人が、つよく被害者意識をもったことも戦争機運に反映した。アメリカの排日移民法に反対する大衆運動や、アジア新秩序など、強硬な姿勢にあらわれている。
幼い私は、なぜか仙台という土地にすぐにはなじめなかった。