濱田 伊佐子
こわい先生だった。
暴力をふるわれるとか、恫喝されるとか、チクチク叱責される、とかいうこわさではなく、本質を見透かされて一刀のもとに切って捨てられてしまうのではないかという恐ろしさだった。先生の前に出るといつもびくびくした。
たまたま入会した翻訳学校の、時間や曜日の都合でたまたまとったクラスの講師が中田先生だった。それまで中田耕治という人を知らなかった私は、なんの予備知識もなく受けはじめた授業で震えあがった。提出した訳文が読まれる。「困っちゃったな」と言われる。半端ない緊張ただよう数分間。自分の訳文が読みあげられるあいだ顔をあげられない。やがて、ここをこう直すようにという言葉はなく、そのまま次の人の訳文に移っていく。お茶の水駅までの登り坂を泣きながら帰ったという話を何度もきいたことがあるが、私も自分という人間を丸ごと否定されたような気持ちになった。みな、中田先生の講座を受けたくてピンポイントで申し込むのだということをあとから知った。
「ノートをとりなさい」と言われ、他の人の訳文を必死でメモした。「これは誰に読ませる?」ときかれ、そんなこと考えてなかったとあわあわした。「すばらしい」と言われた人の文章になるほどこう訳すのかと感心した。やがてだんだん、先生が教えようとしていることが少しずつわかるようになってきた。それが中田先生の教え方だった。翻訳技術ではなく翻訳の覚悟のようなものを教えようとしてくださっていた。「たとえたいした作品ではないと感じても、これは最高傑作だと思って訳すように」「たったひとつ、光る訳文があればいいんだ」。そういった言葉の数々がいまもよみがえる。
中田先生から受け取ったものは翻訳のやり方だけではない。先生はしばしばわたしたちを山歩きに連れて行ってくれた。朝早く新宿駅のホームで待ち合わせをして、みんなで電車に乗って行った。中田先生は電車の中でみんなの写真をぱちぱち撮った。行きも帰りも、山を歩いている最中も、お弁当を食べているときも、山をおりたあとの飲み会の店でも。「写ルンです」が愛用カメラだった。現像してはみんなにくれた。仲間で歩く山道は楽しかった。仲間がいるということは大事なんだといつか話してくれたことがある。「英語がわからなかったらきけるし、年を取ってからも助けあえるだろ」。先生の教え子は数えきれないほどいるけれど(翻訳家、作家、芸術家……さまざまな場で活躍しているキラ星のような人たちもたくさんいる)、今でもそれぞれが、なにかしらでつながっているし、その存在はいつも心の片隅にあってわたしを支えてくれている。先生はそうやってわたしたちをつなぎあわせてくれる鳥もちのような存在だった。
映画の見方も教わった。このシーンのこの印にはこんな意味がある、このシーンのこの色にはこういう意味がある……。目からうろこの話ばかりだった。映画ってそんなふうに作られているんだと知った。「きみたちはいつもただぼーっと映画を見ているだろうけど…」。はー、おっしゃるとおりです。その日から映画の楽しみ方が変わった。ものの見方が少しだけ変わった。ものごとにはかならずふたつの面があると教えてくれたのも中田先生だった。
翻訳学校がなくなってからも、中田先生を囲んでの仲間の交流は続いた。中田先生が強力な磁石となって、みんなを引き寄せてくれた。コロナのせいで何年かぶりの機会になった最後の集まりのとき、先生はひとりひとりにその人の近況をたずねたり、これからのことをアドバイスしてくれたりした。わたしの番が回ってきたとき、会場の関係で時間切れになった。
だけど、その最後のときに、先生がほんの数秒間、無言のままじっとわたしの目を見てくれたことを、わたしは、幸せな気持ちとともに覚えている。「困ったな、この子にはこれといって言うことがないな」と思っていらしたのかもしれないけれど。
訃報がとびこんできたとき、途方に暮れた。これからどうしよう、と思った。いきなり錨がはずれてしまったような、ぷっつり凧の糸が切れてしまったような、足もとの地面がぽっかりなくなってしまったような。もう導いてくれる人はいない。先生、これからわたし、どうしたらいいんですか。目を閉じると鋭いまなざしが浮かんでくる。ほほ笑みながら話したあとに、一転、眼光するどく、ものごとの本質にずばりと切り込むひとことをわたしたちに投げたあのまなざしを。教え子たちにとって、あまりにもあまりにも大きな存在だった。
中田耕治先生は、深い人だった。
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