吉永 珠子


 私は自分を文章が書ける人間だと思ったことはないし、書きたいと思ったこともなかった。
 だって本は嫌いで、太宰治さえ読んだことがない。そう言うと、みんな嘘だと言う。教科書に出ていたはずだ、と。でも、私は読んでない。言い切れる。
 そんな私に、先生は「君は書くべきだ」とおっしゃってくださった。私が女子美の助手をやめたころのことだった。

 助手時代、裏庭のニケ広場を横切る先生を発見したあの日。テレビにマリリン評論家として出ていた人だ!と気がつき咄嗟に追いかけ、お声かけさせていただいたのが最初だった。
 紳士的におっとりと微笑み「そう、ありがとう。君の名刺は?」と、先生はおっしゃって、それから私の勤務する研究室を時折、訪ねてくださるようになった。

 発売前から予約するほど思い入れのあったアンソニー・サマーズ「マンリン・モンロー 女神(Goddess)」。繰り返し何度も何度も読んだ。その愛読書を訳されたまさにご本人と知ったのが、たまたま観たそのテレビ番組の中だった。それどころか、当時よく観るようになったハリウッド映画の翻訳本は、どれも先生のものだった。
 なんという衝撃的な偶然。
 学校帰りの荻窪ルミネ。本屋さんには輸入本コーナーがあって、それらの原作本が並んでいた。その原書と訳本を購入して英語の勉強をしようと思いついた高校生の頃。志は高かった(?!)のに、残念ながら私には語学のセンスが全くなかった。まったく勉強は進まず、自分で語学を習得しようという気はすっかりなくなった。
 以降、原書はろくに手をつけずに本棚の肥やしとなっていたが、翻訳本には不思議とぐいぐいと引き込まれた。それらすべて(大袈裟じゃない、すべて)先生が手がけていらしたのだった。
 俳優の世界に興味を持ったこともあった。当時知り合った役者の卵さんからリー・ストラスバーグの「メソッド演技」など勧められて大いに感化された。だから先生が俳優座や青年座のお仕事をされてたと知ったことも興奮した。
 元来野次馬の私は、それらにまつわるお仕事の話や有名人たちとの話など、お聞きしたい話は次から次へとたくさんあった。

 だけど、その先生との場を、私は人間関係が原因で遠ざけてしまった。
 どうしてもその場に行くことができなかったのだからしょうがない。そのまま先生との縁も切れてしまうと諦めていたけれど、先生はずっと「僕に手紙を書くように」と言ってくださっていたので、私はそれは守っていた。マリリンの絵葉書の冊子を先生用に一冊用意して、毎回そこから一枚ずつ絵葉書を送った。一冊終わるとまた一冊。
 そうしているうちに先生は当然のような流れで課題をくださるようになった。「●●について書いて」と。

 最初は書き方もわからない。
 短いものから、と言われたが、どれくらいが短いのかもわからない。
 なんとか書いてみると、先生はあっという間に読まれて、赤をみっちり入れて返してくださった。先生はああしろこうしろとは仰らない。注を入れたり、直すだけ。がっつりカットしたり、ページを移動させて、笑っちゃうぐらい原型が残ってないことがほとんどだった。
 それでも私はそれを元に、自分なりに書き直す。「どうしてもそういうふうにはしたくない!」と思うこともたまにある。そういう時は勝手に書き直す。すると先生はそこにはもう触れない。だからよかったのか悪かったのかわからない。多分、意識することが大事なのだ。そういうことなのだ。
 だんだん、「あそこはよかった。情景が目に浮かぶ」と言ってくださることが増えてきた。よくなってきたんじゃん、あたし、なんて思ってると、その愚かな自惚れはまた地の底にはたき落とされる。

 数年、そんなことをしているうちに、ある時、先生は「うん、これはいいんじゃないかな。失礼だけどこれなら×××賞みたいなものならいけるんじゃないかしら」とおっしゃった。
 びっくりしたし、何を言ってるんだろう?と意味がよくわからなかった。聞き間違い?いや、その調子で頑張りなさいという意味で先生は励ましてくださっただけ。
 だけど、私はなにしろ本に興味がなかった。それを見抜いていた先生は、一生懸命私をおだててくださっていたのだ。そこでもっと頑張ればよかったのに、そもそもテーマが思いつかない。動機がない上、邁進するほど「本」に情熱を持っていない。だからそれからまたしばらく書かなくなってしまった。

 何も書かないまま15年ぐらい経ったころ。ある歌手の死で思うものがあり、急に私は書くことの意味に気がついた。今度は自ら書きたいと思った。
 その人の青春と業界の裏表、昭和の芸能界・・・ちょっとだけ音楽修行をしてきた私が、すこしばかり知ったことと色々がリンクして、本気で書きたくなった。

 一度は先生が褒めてくださったのだから、きっと、またかけると自惚れた気持ちで書き始めたら、これがひどい。ひどいなんてもんじゃない。スケールばかり大きなものを思いついてしまったので、そもそも力などなかった私にはどう進めていいか分からない。でもまずは全体を形にしなきゃと、とりあえずできたものを無理やりお送りして見ていただいた。

 いつもはこうだ。私が書いたものを黙ってポストに投函すると、2日後には私のポストにみっちり赤や黒マジックで直してくださった原稿が入っている。長さは関係ない。10枚でも50枚でも200枚でも、必ず2日後には私のポストに戻ってくる。
 そして私はそれを元に、なんとか咀嚼し、私なりに直してまた先生にお送りする。よくなっていれば、翌日にお電話で詳細な感想をくださる。こんなかんじ。
 だけど、今回は流石に・・・途中で原稿を読むのを断念されたようだった(読めるような代物じゃない)。最初の数ページだけペンが入っていただけで、あとは基本的な考え方や私が何をしたいのか、といったような内容の整理。「Focus!」と黒の油性マジックで走り書きされていた。
 でも、先生はこんな物やめろとは仰らない。それがどんなに酷くても。

 いつ終わるかも分からない、非情の原稿送りつけ行為。400字詰めで400枚ぐらいもある、ほぼ無駄だらけの原稿を受け取るのはどれほど気が重いことだったろう。
 初稿(ただの制作メモのようなもの)から、物語になんとか組み立て、今度はそれぞれの部分について、そのつど先生は”時期”に合わせて、さまざまな角度から参考になるものを与えてくださった。今のレベルで必要なのはこれとこれ、手を抜き出したな、この部分にはこれを目標にするといいだろう・・・全てお見通しの彗眼で、真っ暗な私の向かう先を照らしてくださった。

 途中、外国(アジア)の出版社が接触してくれたことがあったとき、先生は「面白いことがあるものだなぁ」っとすごく面白がってくださった。
 ピンときてないし、実現もするわけないと思っている私に、その国にあわせた内容の修正と事務的な対応、原稿料のことなど詳細にいろいろ教えてくださった。
 だのに、その話は全然発展せず流れてしまったことなんですけどね。ええ。

 その物語を書き上げることに取り憑かれた私は、いつまでも諦めなかった。サイズを意識しなさいと先生は仰いつづけ、400枚の原稿は、無駄を省いて270枚ぐらいに整った。やがて、先生は体力的な衰えを訴えられるようになり「これが最後だ」と毎回仰るようになった。が、それでも私は容赦無く原稿を送り続け、とうとう「よくここまでがんばったね」といっていただいた時。いただいたお手紙を読みながら、私は号泣した。本当に震えた。

 先生からは、最初からたくさんの実在する人物や音楽作品が描かれているので、権利問題で世には出せないだろうと言われていたし、実際にそうなったけれど、そんな作品でも先生は全力で出来上がるまでを見守ってくださった。おかげ様で、私は多くのことを学び、多くを知ったので後悔はしてない。何より、これからも書きたいと思うようになった。
 だから私は懲りずにその続編も書き始めた。
 不思議だけれど、一冊書いたところで、次の作品はできるようになったところから始まるのではなく、なにもできなかった一から始まる。実力がないというのはこういうことだ。めげずにまた過酷な送り付け行為は始まった。
 先生は呆れるどころか、また、新しいテーマの作品に興味を持ち、いろいろアドバイスをくださった。このころになると私は少しは書くことが楽しくなってきて、一方で先生のお体はどんどん衰弱して、私はそれに気がつかないふりをしていた。
 毎回「これが最後、次回はもう会うことはない」とおっしゃる先生に、その度私はそんなはずはないと打ち消した。先生は読むのも早くて名人技で赤を入れて・・・先生は無敵だから大丈夫、と変わらずまずい原稿を送り続けた。先生はいつまでも先生でなければいけない。

 それから、どれほど時間が過ぎただろう。一年かな、半年かな・・・
「申し訳ないのだけど、もうみてあげる力がない。ヘントフ『ジャズ・カントリー』を読むように」とだけ描かれたメモと、直しの入ってない原稿を戻してくださった。
 そう、それが先生の私に対する最後のご指導になった。

 三年近くに亘る、私の駄原稿は長編が一作と中編が一作。その直し原稿はすべてとってある。ものすごい量だ。その時その時の私に必要なアドバイスが刻まれた紙の束は、紛れもない私の財産。
 いつかの誕生会の日、ゆっくり足を引きずる先生に歩幅を合わせて店に向かう途中「全くもって不甲斐ない。だけど、”老い”も皆さんにしっかり見せておきたい」と、噛み締めるようにおっしゃった。

 2021/11/21。
 「中田先生は危篤です」と、苦しそうに息をしながら先生ご自身でお電話をかけてこられた。
 それが、本当の最後となってしまった。

 批評家 中田耕治 
 生きていることの全てが創作活動だった。