池田 みゆき

 

 岸本佐知子先生のアドバイスで受講することになった、飜訳学校であるバベルの中田先生の講座に通い始めて少したったころ、授業が終わり教室を出てエレベーターに向かって歩いていたとき、おもむろに中田先生が背後から声をかけてきた。
 「君、上手いねえ」
 (えっ、わたしが?)
 「○○君だろ」
 「いえ、池田です」
 「ああ、そうか」と言って気まずそうに黙ってしまった先生。
 先生、一体誰を褒めたかったのですか。

 2002年の日韓共同開催のサッカー・ワールドカップが同人誌「ネクサス」の特集となり、ワールドカップの感想を投稿して数ヶ月経った頃、先生が、
 「池田君が書いたワールドカップの感想文を褒めている人が二人いる」
と、おっしゃった。
 光栄の極みです。
 その後しばらく経ってお会いしたときに先生は、
 「池田君、君の書いたワールドカップの感想文、褒めている人が一人いる」
 「・・・・・」
 なぜ一人減っているのですか。

 とにもかくにも、中田先生には感謝しなくてはならないことがある。
 「クォーラム」に誘って頂いたことだ。
 ある日、バベルでの授業が終わったときのことだった。私と遠藤さん(後のキョロちゃん)に先生が声をかけてきた。
 「君たち、明日古い映画を観るから、いらっしゃい。村田悦子さんに連絡を取るように」と村田さんの電話番号を教えて下さった。
 帰宅後、早速村田さんに電話をし、中田先生とのやり取りを伝えて、集まる場所など、詳細を教えてもらった。
 翌日、教わったとおり佃区民会館へ着いたとき、中田先生がひとりで窓際に立っていらした。先生との初ツーショットに否が応でも緊張する。挨拶はしたものの何を話せばよいのかわからない。
 どんな映画を観るのだろう? 単なる映画鑑賞会なのか? そもそも、どんな人たちの集まりなのだろうと、疑問はたくさんあったが緊張のあまり言葉にできなかった。映画を観ると言っても、スクリーンがあるわけではなく、会議室には小さなテレビとビデオデッキがあるだけだった。
 そのうち、先生の教え子らしき方々が部屋に入ってきて席に着く。ある程度の人数が集まると、先生からその日に観る映画についての前説が始まった。どうやらフランス革命の話のようだ。観る段階になると机を端に寄せ、小さなテレビの前に集まった十数人が出来るだけ椅子を近づけて並び、密集状態でいざ映画鑑賞の始まり。モノクロ映画でセリフはフランス語、そして英語の字幕… 文字が小さすぎ、白黒の画面に白い字幕では読むのが難しく、何が起きているのか理解不能なうえに、かなりの長編映画。ただひたすらに画面とにらめっこしていたら、睡魔に襲われ、ウトウトしてきた。(寝ちゃだめだ、寝ちゃだめだ)。やがて睡魔に負け、私は深い眠りについた。
 これが私のクォーラム・デビューだった。

 だが私はこの時まだ、中田先生とクォーラムの面々の真の正体に気づいていなかった。

 クォーラムに通い始めて月日が浅いころのことだ。
 春が訪れ、花見をしようということになった。場所は隅田公園。お昼ご飯は各自持参。指定された待ち合わせ場所にひとり向かった。天気は良かったのだが、いかんせん、桜が咲いていない。日当たりの良い場所に数輪つぼみがあるくらいだった。
 参加者が揃ったところで、まずは長命寺の桜餅を食べに行った。桜が無くとも食欲はある。お昼前の一服としてはもってこいだ。好天のせいか、店は思いのほか混んでいた。まあ、週末だし常連さんが多いのだろう。評判は聞いていたが、桜餅の美味しいこと。
 店をあとにし、隅田公園へぶらりぶらりと向かう。
 着いたところで、ほとんど人はおらず、お弁当を食べる場所は選び放題であった。咲いていない桜の木の下にシートを敷いてお弁当を食べ、自己紹介をしあったり、ひとしきりお喋りをしたものの、まだ昼過ぎ。この後どうするのかと思っていたら、飲みに行こうということになった。昼間から営業している飲み屋などあるのかと思っていたら、あれは安東さんだったか、近くを偵察に行って帰ってきた。開いている焼鳥屋があるという。晴天の下、焼鳥屋を目指し、腹ごなしついでに歩き出す。大衆酒場的な焼鳥屋であったが客は我々のみ。皆は席に着くなり一斉に、ビール! 飲めない私はウーロン茶!
 酒が入り、皆で盛り上がること小一時間、いやもっといただろうか、今度は喫茶店でお茶をしようということになり、喫茶店探しとなった。大人数で入れる喫茶店などあるのかと思いきや、これがあったのだ。
 コーヒーを飲んだら解散するのかと思っていたら、次は飲み会とのこと。またもや居酒屋。座敷に座ると皆一斉に、ビール! 飲めない私はウーロン茶! これはデジャヴ? 先生を含め皆して次から次へとアルコールを飲むわ飲むわ、お喋りをするわするわ。そんな先輩方を、素面の私はあっけにとられて見ていた。
 この日、私は「クォーラム」という集団の洗礼を受け、この後のめり込んでいったのだった。

 クォーラムについてはもう一つ思い出深いことがある。
 ある時、中田先生から創作の課題が出た。何を書けばいいのか悩んだ末、落語の「あたま山」をベースに物語を書くことにした。タイトルは「鼻の穴」。自分で腹を抱えて笑いながら出来上がった作品を提出した。講座が始まるとまず先生が村田さんに原稿を渡し、名前を伏せて読むように言った。
 私のだ! 自ら抱腹絶倒して書いた作品なのにクスリとも笑った人はいなかった。
 完全にすべった。
 何が言いたいのかわからない、ヤマ場がない、後半でネタバレしている、といった感想ばかり。自信作のつもりで書いたのにこのリアクション。穴があったら入りたい心境だった。しかし意外にも中田先生は、
 「君たち、『鼻』だけでここまで発想を膨らませることができますか?」と、皆に問うた。
 しばしの沈黙の後、何事も無かったかのように講座は続けられた。
 わたしは中田先生の一言にどんなに救われたことか。
 帰り際に先生が、
 「君、『あたま山』という落語を知っているかい?」と聞いてきた。
 「はい。意識して書きました」
 「真面目に書けば、立派な不条理小説になる」
 この一件以来、私は私なりの自信を持って、ネクサスに積極的に短編小説やエッセイもどきを投稿するようになった。

 最後に。
 私の病気のこと。確か、心療内科に行くべきがどうか悩んでいるか、行き始めたかくらいのときだ。誰よりも早く私が抱えていた精神的な問題に気づいたのが中田先生だった。私は普段通りに振る舞っているつもりだったのに、お目にかかる度に、
 「池田君、大丈夫か? 落ち込んでいないか?」
と、声をかけて下さった。
 家族も、友人も、会社の同僚も気づいておらず、抗うつ剤を飲みながら仕事を続けていたが、仕事中に動悸が激しくなったり、手に汗をかいたり。どうにも我慢ができなくてトイレに駆け込み、大丈夫、大丈夫、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせたりしたものだが、病気は悪化するばかりの日々を送っていた。それでも周りは私の変化に気づかない。

 なのになぜ、中田先生は私の変化に早々と気づいたのですか?

 先生、この疑問の答えを聞くのはまだまだ先のことになると思います。なぜなら私は、コツコツと払っている年金の元を取るまでそちらには行くつもりはありませんので・・・その時が訪れるまでの宿題とさせて頂きます。

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