吉澤 万季

 私の人生の中でひときわ大きな存在である中田耕治先生。その中田先生と私の亡夫、吉澤正英の交友について少し書かせていただきたいと思います。
 「中田耕治のコージーコーナー」をお読みになった方はすでにご存じだと思いますが、中田先生と私の夫は、作家とその担当記者という間柄を越えて親しくさせていただいていました。
 先生は「親友」とまで書いて下さっていますが、早くに父を亡くした夫にすれば「父」とも、あるいは「兄」とも思って慕っていたのだと思います。
 映画や文学について教えられ、語り合い、そして毎週のように一緒に登山に出かけ(そこには皆さんもよくご存じのブンチンさんこと、安東忞さんもいらっしゃいました)、夫はなんと幸せな時間を過ごしたことでしょう。
 しかしそんな時間は案外早く終わることになってしまいました。夫は四十代の若さでがんを患い、余命数カ月と言われてしまったのです。
 当時「がん告知」は本人より先にまず家族にされ、患者本人に知らせるかどうかはドクターや看護師のアドバイスのもと家族が判断。本人には知らせない場合の方が多かった時代でした。アナウンサーの逸見政孝さんががんになられたのと同じ頃といえばわかりやすいでしょうか。
 ドクターから夫のいない席で病状説明を受けた時、私はまだ三十才にもなっていませんでした。
 夫が、がんで、死ぬ? それまで、その日までどうすればいいのか。気がついたら私は中田先生に相談していました。
 先生はその時のことを「夜遅くまで話し合って」とお書きになっているのですが、情けないことに私はお電話した時間や具体的にどういう言葉でお話したか、ほとんどおぼえていないのです。ただ、病状のことをお伝えした時、一瞬絶句なさったこと、「話してくれてありがとう」と仰って下さったことが記憶に残っています。
「話してくれてありがとう」。
 本当に優しい言葉でした。でもこの時、先生も非常な衝撃と悲しみで胸が張り裂けそうだったはずなのです。「親友」である、二十近くも年下の友人が、こんなに早く死を迎えようとしている。
 若い人の死はいつも痛ましいものです。ましてや自分の「親友」が、なのですから。当時の私にはそれを慮る余裕がありませんでした。
 夫はその後、予想より長く一年以上生きることができました。中田先生がNEXUSの会を立ち上げて、色々な場所に誘ってくださったことも大きかったと思います。しかし先生にとってそれは楽しくもつらい時間だったはず。私が気づいたのはだいぶ後になってからのことでした。
 自分が年をとるごとにわかるようになった先生の大きな心。あの頃、私は中田先生からの支え、そして、まだおむつも取れていない幼い娘は自分が守らなければ、という強い気持ち、その二つがなかったらとても耐えきれなかったと思います。
 先生の大きさはまるで先生の愛した山のようです。山は大きくて、のどかな麓もあれば険しい山道もある。喉を潤す湧き水もあれば、難所の沢もあるといった具合でしょうか。山頂のあたりは私には見当もつきません。
「君は低いところに行ってばかりだなあ」と先生は苦笑なさるかもしれません。でもいつもこうも言ってくださるのです。「でも君はすばらしい」。
 先生、そちらの山はいかがです? どうアタックするか作戦を練っているところですか? そのうちひょっこり「お久しぶりです、先生」と夫が屈託のない笑顔で現れそうです。
 すると先生は「やあ、君、まったくひどいなあ、ずいぶん先に行っちゃって」とおっしゃりながら笑顔になってくださると思うのです。
 やがてそこには安東さんも「先生、どうも」と現れそうです。「なんだ、君もひどいよ、僕を置いて行っちゃって」と迎える先生はだんだんと山に登る精悍な顔になり、三人で山を登り始めるのでしょうか。
 中田耕治先生。本当に長いこと温かく見守っていただきありがとうございました。私は山の麓をうろうろするばかりですが、先生にお会いしなければその麓にもたどり着いていませんでした。重ねて深くお礼申しあげます。

 二〇二二年五月

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