青木 悦子

 中田耕治先生の翻訳の教え方は独特だった。型破りと言ってもいい。
 そもそも、先生という人物が型にはまりきらないのだ。作家、翻訳家、評論家、舞台演出家、エッセイスト、翻訳学校講師……十代で『近代文学』に加わったという錚々たる経歴から、思い出話に川端康成や正宗白鳥の名前がこぼれる文学界大物との交流、アナイス・ニンら海外作家との交際、あるいは戦後の海外ミステリー紹介の先陣を切ったミッキー・スピレインの翻訳や、ホラーの大御所クライヴ・バーカーをあえて仏教用語で訳したりなどなど、ここには書ききれないほどの経験と業績、それと双璧をなす知識教養の深さ広さにいつも圧倒された。そんな先生の教える翻訳の授業が、単なる英文和訳のテクニック磨きですむはずがなかった。
 学校では毎回、はじめに生徒全員の訳文を提出させて、それを先生がひたすら読み上げていった。たいてい、はじめのほうに読まれるのはクラスに入って日の浅い生徒のもの。誤訳や言葉の間違いがすぐわかる。でも先生はやさしい笑顔(これがクセモノ)で、「ここはどうしてこう訳したの?」「なぜ原文と違うところで切っちゃうの?」などとおききになる。指摘された生徒も、実は同じように訳していたほかの生徒も、自分たちの読みの甘さに気づいて縮み上がった。門下に入って長い生徒の訳文に移っていくと、前に読まれたものとの違いがはっきりわかる。うまい。夢中でノートをとった。でも先生はやはりお尋ねになる。「この人物たちの距離はどれくらい?」「この人はどっちを向いて話していると思う?」あっと思う盲点を突かれ、そのシーンが一気にクリアになる。ときどきはみずからその場で訳してくださり、その速さ・正確さ・リズムのよさに目をみはった。「翻訳で大事なのは色と動き」「どんな小説を訳すときも、これは世界でいちばん面白い小説なんだと思って訳しなさい」エンターテインメントから純文学まで、どんな作品に対しても、作家への敬意を忘れなかった。
 しかも、授業は翻訳学校の中にとどまらなかった。月に一度、ときにはもっと、クラスの現役生・OBOGを集めていろいろなところへ出かけた。「翻訳をやるなら、翻訳だけやっていてもダメなんだよ」展覧会や映画、演劇、ときには花見、都内や近郊の散策、文化人の墓参り。「きみたちはこういうところへ行かないでしょ」と、当時まだブルーカラー的な印象が強かった牛丼屋へ連れていかれたこともあった。文化人の墓参りも行ったし、お知り合いの図書館長のお宅へ皆で行かせていただいたときには、銚子港で揚げたばかりの秋刀魚を焼いてほおばりながら、館長と先生の文学談義に耳をすませた。一度などは、『不思議の国のアリス』を皆で訳し、某ホールでそれを上演する(もちろん演者は生徒、演出は先生)という暴挙(!)にまで出てしまった。「戯曲を訳すときに舞台の感覚がわかるようにね」そして年に数回、クラスの同人誌を編集・発行するよう指示され、各自がまとまった字数で文章を書いた。「あとがきやコラムを書くときに役に立つよ」そういう集まりのおかげで、生徒同士のつながりができ、翻訳でもそれ以外でも助け合うネットワークが育っていった。
 そんなふうに、先生の教え方は翻訳そのものだけでなく、翻訳家というもののありかたを示してくださっていた。
 そうした先生の薫陶のおかげで、わたしもいつしか翻訳家として収入を得るようになった。とはいえ、まだ駆け出しのわたしに、先生はよく「きみはもう大丈夫」「きみならやっていける」と励ましてくださった。とうてい大丈夫でないことはわかっていたけれど、先生がそう言ってくださるのだから、もしかしてそうなのかも、とさしだされた藁にすがらせていただいた。そしてはや数十年、あいかわらずまったく大丈夫と思えない日々である。
 たぶんわたしは一生、翻訳家として自信を持てることはないだろう。でも、中田先生は晩年にたびたび、「きみが翻訳家としてやっていくことには何の心配もしていない」と言ってくださった。その言葉がずっと支えになっている。自分のことは信じていないけれど、そう言ってくださった先生を信じよう、と最近やっと思えるようになった。何かを人に教え、導く師が残してくれるいちばん大きなもの、それは「きみならできる」という励ましと信頼なのかもしれない。だとしたら、わたしはたしかに先生からそれをいただいた。せめてその信頼を裏切らないよう、不肖の弟子は今日も言葉と格闘しつづけている。

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