光野 多惠子

 私は中田先生のことを書くのが苦手だった。先生がどう読まれるだろうと考えはじめると手も足も出なくなり、冊子『NEXUS』でそうしたテーマの原稿募集があっても、投稿できたためしがなかった。ところがある日、先生に呼び出されて「中田先生と演劇」について書くように言われた。先生のご命令ならばと観念して書き、何度かお見せして書き直したが、いっこうにオーケーが出ない。とうとうしびれを切らした先生が、ご自分でお書きになってしまった。私の名前で『NEXUS』に載った先生の文章を見たときの、恥ずかしかったこと。いまとなっては二度と体験することはできない、恥ずかしくも、なつかしい思い出だ。

 中田先生には30年ほど前、翻訳学校で教えを受けた。当時、私は長年やってきた舞台制作の仕事をやめ、これからは翻訳家として生きていこうと決めていた。別にあてがあったわけではない。ただ漠然と、海外公演などで使ってきた英語と、子供のころから好きだった文章を書くことの、両方を生かせる仕事をしたいと考えていたのだ。ところが、大学同窓会の職業紹介所に相談に行くと、英文科を出たからといって翻訳家になれるわけではないのですよとたしなめられた。
 そこで、翻訳学校に入った。最初に勉強したのは児童文学の翻訳だった。講師の坂崎麻子先生にはおおいに薫陶を受けたが、大人向けの小説も勉強しなければと思い、坂崎先生の先生である中田先生の講座に申し込んだ。だが、希望者が多すぎて抽選があり、ようやく受講できるようになったのは半年後だった。
 中田先生の授業は毎週「原稿!」という先生の声で始まる。その声を合い図に全員が原稿を提出し、自分の訳文がどう評価されるかをドキドキしながら待つ。先生はあの朗々としたお声で、まず原文を数行読まれ、つづいて山のように積まれた原稿の中からランダムに訳文を選んで読みあげ、コメントを言われた。
 コメントは訳した本人だけに向けられたものではなかった。全員が、自分が訳したのと同じ原文をほかの受講生がどう訳したか、それに対して先生がどうおっしゃったかを聞き、翻訳のしかたを学ぶのだ。だから、私も真剣に聞き、メモを取ったが、本音を言えばやはり自分の原稿に対するコメントを聞きたかった。いまの私がどういう段階にいるのか、せめてそれがわかれば努力のしようがある気がした。
 だが、いつまでたっても私の原稿は読まれなかった。きびしい指導で有名な中田先生だが、酷評を受けてうなだれている同期生までがうらやましく思われた。今日もだめだったかとがっかりながら帰宅し、これからいったいどうやって暮らしていけばいいのかと煩悶していると、焦りばかりがつのった。
 ところが、3ヶ月ほどたったある日、先生がしばらく原稿を黙読していらしたかと思うと、「この人はすごいものを持っている」とおっしゃった。そして、読まれたのが私の文章だった。飛び上がるほどうれしかった。
 あとから思うと、訳文のどこがいいとか悪いとかいう指摘はまったくなかった。だが、先生が多少なりとも可能性を認めてくださったことは、人生の崖っぷちにいた私にとってなによりの励ましとなった。そのあとは訳文を読まれることも徐々に増え、みんなと同じようにきびしくて実戦的でこまかい指導を受けるようになった。

 何ヶ月かたったある日、先生が教室で、週末に山歩きをするから希望者はあとで言いにくるようにと言われた。私は同期の友人とふたりで参加を申し出た。これが、のちに先生が「NEXUS(ネクサス)」と名づけられた集まりのはじまりだった。このとき翻訳のクラスから参加したのは、私たちふたりだけだったように思う。そして、目的は山歩きのはずだった。ところが、奥多摩の鳩ノ巣に着いたかと思うと宴会が始まり、本格的に山に入ることもなく帰ってきてしまった。
 それでも、先生を中心に集まった多種多様な人たちと語り合う体験は新鮮で、私は集まりを楽しみに待つようになった。メンバーには先生の山歩きのお仲間がいるかと思えば、明治大学での教え子もいたし、のちには女子美の助手さんたちも加わった。翻訳のクラスの仲間もおおぜい参加するようになり、みんなで先生に連れられて美術館をめぐったり、自然を楽しんだりした。
 私はしばらくして児童文学の翻訳をするようになり、並行して生活のために実務翻訳もやっていたので、皆勤というわけにはいかなかった。そのうえ、遅ればせながら結婚して、両方の親たちの介護もしなければならなくなり、冊子の制作などにはほとんど関われなかった。先生がのちに開かれた私塾にも中途半端にしか通えなかったが、行けばかならず先生にもみんなにもあたたかく迎えてもらった。NEXUSの集まりは、翻訳家として孤独な仕事をする弟子たちへの、中田先生からの贈り物ではなかったかと思う。

 教え子たちは毎年、先生のお誕生日が近くなると、集まって先生を囲んできた。ところが、2019年の会のとき、先生が「こういう集まりは今日で最後にする」と宣言された。じつは私はこの会には参加していなかった。翻訳中の作品のことで悩んでいて、自分なりの結論が出るまで先生に会う気になれなかったのだ。会えばかならず、仕事はどうかと聞かれるのはわかっていたし、自分がともすれば先生の言葉に縛られて、そこから抜けだせなくなるのがわかっていたから。
 仕事の範囲が児童文学からヤングアダルト、さらに文芸書に広がっていくにつれて、私はどう訳すかで悩むことが多くなっていた。先生には訳書が出るたびに送って報告してはいたものの、いくらがんばっても、評価していただけないのではないかという気さえしてきていた。そんなふうに、迷ったり自信をなくしたりしているときに、みんなと顔を合わせるのもつらかった。
 ただ、そんな理由で参加しなかった会が、NEXUS最後の集まりになってしまったのは、なんとも残念だった。先生が打切り宣言を撤回されることを期待したかったが、一方でコロナの流行のために人が集まること自体がどんどん難しくなっていった。
 ところが、昨年の11月、今年は会ができそうだという連絡が来た。ちょうどコロナの流行も少し下火になった時期で、恒例の会食はせず、数人のグループに分かれて先生とお話しすることになったという。喜び勇んで出かけていくと、先生は集まった30人ほどの弟子たちとじっくり話をなさり、そのあと講義までされた。これからの10年を予言する、じつに刺激的な講義だった。
 直接お話ししたとき、先生は私が年のはじめに出した短篇集にふれて、作品ごとにもっと訳し方を変えなければだめだとおっしゃった。ショックだった。それこそが、私が先生から教わったことの胆だったからだ。「あのお、そういうふうに訳したつもりだったんですけど……」そう言った私があまりにしょげて見えたのだろう。
 先生はすぐに話題を変えて、前にきみに訳してもらった短篇はとてもよかった、とおっしゃった。2004年に先生が編まれたフィッツジェラルド短篇集の中で、私が担当した作品のことだ。じつに訳しにくい短篇で、私は七転八倒のすえになんとかしあげたのだった。先生はさらにおっしゃった。「あれはぼくがいちばん好きな作品で、自分で訳そうかと思ったの、でも、きみに譲ってあげた」そして、ニコッとされた。
 いつもなら、こういうことがあると、褒められているのか皮肉をいわれているのかわからなくなったものだが、このときはちがった。皮肉という感じはほとんどしなかった。私はうれしくて、長年抱えてきた短篇への苦手意識が吹きとんでしまった。ただ、中田先生らしくない言い方だな、どうなさったのだろう、とチラと思ったが、3週間ほどあとに先生の訃報が届いてその理由がわかった。
 あのとき、先生にはもう時間がなかったのだ。落ち込んでいる弟子がいたら、その場で励まして後押ししてやらなければ、次はないとわかっていらしたのだ。だから、ふだんの先生の美学からはずれるような、あんな褒め方をしてくださった。演出家でもあった先生のことだから、少し盛った話をなさったのかもしれない。だが、それでもいい。私は最後にふたたび、先生から大きな励ましをいただいた。
 おそらく先生はあの日の参加者それぞれに対して、大なり小なり同じようなことをなさったのではないだろうか。先生ご自身の生命が終わりを迎えようとしていたことを考えると、私たちはすごい師を持ったものだとつくづく思う。訃報を聞いてからしばらく、私の脳裡には荒野をひとりで歩かれる先生のお姿がくりかえし浮かんできた。さびしいとか悲しいとかいう感情は抜きで、ただただ前を向いて歩いておられる先生のお姿だった。
 中田先生、先生のお心にすぐに気づかなくてごめんなさい。うかつな弟子はただただ手放しで喜んでおりました。でも、いただいた御励ましはけっして無駄にはしません。私は先生が大著『ルイ・ジュヴェとその時代』を完成なさった年齢をとうに超えました。これから先、どれだけ仕事ができるかわかりませんが、くよくよするのはやめて、先生のように前を向いて進んでいこうと思います。

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