竹迫 仁子

 このたび、追悼文なんてこれまで書いたことがないものを書くことになりました。しかも、それが中田先生からの依頼で、追悼する方も中田先生で。。。たしかに先生はお亡くなりになったらしいのですが、ほんとうはまだ生きているのかもしれない、なんて思ったりもするので、ちょっと困りました。

 教え子に追悼文――でも、それこそが中田先生の策略なのかもしれませんね。「ほら、その間、きみはぼくのことを考えるだろう? たいして開きもしないPC画面を見ながら、最近ではあまり書くこともなくなった文章を書くだろう? ぼくと知り合ったこの30年のことも思い返すだろうし、それはきみにとって意味のあることになるはずだ」って。

 二十代後半で先生にお会いして、わたしは天地が逆転するほど、考え方が変わりました。白状すると、こっそり「中田前」「中田後」と名付けていました。いわゆる「女子大の優等生」だったわたしたちは、みんな少なからず、ふんわりとした女子大生から脱皮していきましたね。

 そういえば、わたしが娘を出産してまもなく、先生から電話をいただいたことがありました。授乳で睡眠時間がまるで足りない日々が続き、昼寝を中断されたわたしは、まさに地獄から這いだしてきたような声で「もしもし」と電話に出たのです。先生の「はっ」としたお顔が見えるようでした。「ぼくはいま落ちていた雀の子を育てているんだ。餌をやるのに忙しいから。それじゃ」とだけ早口で言うと、電話が切れました。わたしは布団の上でしばらくぼうっとして、それから一人で笑いました。

 先日、そのときの睡眠不足の原因であった娘(なんと二十四歳)と、「よくもまあ、こんな世の中に生まれてきたものだね」なんて笑いあったときに、先生のことを思いました。ある心情になったり、なんでもない言葉をつむいだりしても、それは先生との年月があったからだと、わたしは思うのです。

「中田後」のわたしは、「中田前」にもどることなく、生きていくことになります。それはとっても幸せなことです。宝物をいただきました。心からの感謝をこめて。合掌

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